異説・東方紅魔郷

小湊拓也

第6話 4人目のヴァンパイアハンター


「あの、パチュリー様……昨日の、あれは」
「忘れなさい」
 その一言で、パチュリーは美鈴を黙らせた。
 紅魔館の、豪奢なエントランスホール。
 十六夜咲夜にそっと手を取られ、エスコートされて、レミリア・スカーレットが階段を降りて来たところである。
「……心配を、かけてしまったのかしらね」
 階下から仰ぎ見る紅美鈴とパチュリー・ノーレッジに、レミリアは微笑みかけた。
 その愛らしい笑顔も、いまは包帯に覆われていて痛々しい。
 全身に包帯を巻き付けられ、その上から桃色のドレスを着用している。
 そんなレミリアに、美鈴が声をかける。
「だ、大丈夫ですか? お嬢様……いや大丈夫なわけないでしょうけど」
「見ての通りよ。どうにかね、身体が原形を取り戻したところ」
 レミリアの、口調は普段通りである。足取りは、いささか弱いか。
 包帯の下で、吸血鬼の少女の肉体は、少なくとも6割7割は回復している。万全ではないと言っても、自分などひとたまりもないであろうと小悪魔は思った。
 今のような状態でも、レミリア・スカーレットに刃向かってはならない。
「レミィ……私のせいで、そんな姿に……」
 パチュリーが、弱々しくレミリアに歩み寄る。
「ごめんなさいレミィ、完全に私の失態……」
「何を言うのパチェ。貴女に無理ばかり押し付けているのは、私よ」
 頽れ、跪くパチュリーの手を、レミリアは取った。
「忌々しい太陽から、私を守ってくれたのは貴女。本当にありがとうね、パチェ」
「紅い霧は、すぐに復活させるわ……」
「無理をしては駄目。今は、ゆっくりお休みなさいな」
「そのような事おっしゃいながら結果的に、パチュリー様に無理をさせておられる……のでは、ないのですか。お嬢様」
 小悪魔は言った。
 咲夜も美鈴も、パチュリーも、顔色が変わった。
 レミリアだけは、顔色も表情もわからない。
 無言のまま彼女は小悪魔に、話の続きを促している。
「何故……紅い霧が、必要なのですか。どうして太陽を隠さなければ、ならないのですか」
 促されるまま、小悪魔は問いかけた。
「太陽の出ている間は、暗闇の中で休んでおられれば良いと思います。なのに真昼に行動するなどと、吸血鬼らしからぬ事をお嬢様がなさるせいで……パチュリー様が、御無理を」
「黙りなさい小悪魔!」
 激怒したのは、パチュリーだった。
「貴女は! 身の程もわきまえずに一体、誰に対して口を」
 レミリアが無言で片手を上げ、パチュリーを制した。
 包帯から、愛らしい指先が少しだけ露出した片手。しかし小悪魔の身体を引き裂く事は容易い。
 レミリアが、無言のまま歩み寄って来る。
 小悪魔は、いつの間にか尻餅をついていた。形良い尻でホールの床を擦りながら、後退りをしていた。
 咲夜が、いくらか青ざめたまま小悪魔を睨み据えている。まさにナイフそのものの、冷たく鋭利な眼光。
 この場にレミリアがいなければ、小悪魔の肉体は滅多刺しにされていただろう。
「パチュリー様が……ご、御無理を……」
 声が震えるのを、小悪魔は止められなかった。
 震える声を漏らすのが、精一杯だった。
 レミリアが、小さな身体を屈めた。震え、座り込んだ小悪魔と、目の高さを合わせた。
「あ、あの……お嬢様……」
 美鈴が、小悪魔のために何か口を利いてくれようとしている。
 何も言わせず、レミリアはようやく言葉を発した。
「……ありがとう、小悪魔。パチェの味方をしてくれて」
 自分は死ぬのだ、と小悪魔は思った。
 魔王は、格下の魔物を処刑する際、口汚く罵り言葉を吐いたりはしない。
 優しく労いながら、優雅に、残虐に、命を奪うのだ。
「お前は、それでいいのよ。パチェと私が仲違いをしても、お前にはパチェの味方でいて欲しい」
 言葉と共にレミリアは、己の顔面から包帯をほどいてゆく。
 血、あるいは膿で、べっとりと汚れた包帯。
 無惨に焼けただれた素顔が、じっと小悪魔に向けられる。
「私……太陽が、憎い……」
 可憐な唇も、柔らかな頬も、まだ再生が完全ではない。ギリッと噛み合わさった牙の白さが、剥き出しである。
「……だけど、そうよね。紅い霧で太陽を隠したところで、それは……憎い相手から、逃げ回っているのと同じ事」
 完全ではない今の状態でも、小悪魔を引き裂き打ち砕くのは容易い。
 それをせず、レミリアは言った。
「紅い霧は、もう終わりにしましょう。それよりも、もっと根本的に……太陽を、克服する手段を……そのために、パチェの力が必要なのよ」
 無惨に焼けただれた顔。
 そこには、しかし凛とした美貌の原形が確かに残っている。
「だから小悪魔、これからもパチェを支えなさい」
「お嬢様……」
「私に逆らってでも、パチェを守ってくれる小悪魔……紅魔館にお前がいてくれて、本当に良かったわ」
 レミリアが今その気になれば、小悪魔など一瞬にしてこの世から消え失せる。
 それをしないのが、このレミリア・スカーレットという令嬢なのだ。
(これが……カリスマ……)
 誰も勝てない。逆らえない。呆然と、小悪魔は思った。
 このカリスマ性は、圧倒的な力によって裏打ちされたもの。
 その力で、しかし配下の者に暴虐を働くような事を、レミリア・スカーレットは決してしない。
 だから逆らえないのだ。十六夜咲夜も紅美鈴も、パチュリー・ノーレッジでさえも。
 皆、己の意思でレミリアに服従している。
 3人とも、レミリアを守るためならば命を投げ出すだろう。博麗の巫女に殺される事すら厭わないであろう。
(パチュリー様、貴女は……)
 レミリアが、うなだれるパチュリーに優しい言葉をかけている。
 咲夜が跪き、この上なく恭しい手つきで、レミリアの顔に新しい包帯を巻いている。
「お前……無茶するなよ、小悪魔」
 美鈴が、小悪魔の肩を叩いて小声を発する。
「そりゃまあ、お前の言いたい事はわかるけど」
「……私なんかが何を言っても、パチュリー様は無理をなさいます。お嬢様の、ために」
 紅い霧の発生と制御を行いながらパチュリーは、霧雨魔理沙と戦ってもいた。
 それ以上の負担となるような事を、レミリアは今後パチュリーに押し付けるかも知れない。太陽を、克服するために。
 いや違う、レミリアが押し付けるのではない。パチュリーが、己の意思で行ってしまうのだ。血を吐きながら。
 レミリア・スカーレットは、何も命じたりはしない。
 周囲にいる者たちが、己の意思で無理をする。命を捨てる。レミリアのためにだ。
(……運命を……操る、能力……)
 小悪魔は思う。パチュリーは、これからも血を吐き続けるだろう。レミリアのために、自分の意思で。己の病弱な身体を顧みず。
(……お前の、せいで……パチュリー様が……)
 小悪魔の胸中で、呪詛が燃え上がり、渦を巻いた。
(お前さえ……レミリア・スカーレット! お前さえ、いなければ……ッ!)


 幻想郷の農民たちが、挨拶に来た。
 大量の米や野菜を、博麗神社に奉納……と言うより博麗霊夢個人に献上し、何度も頭を下げてから帰って行った。
 ここ数日の間、紅い霧によって太陽が隠されていた。日照が遮られていたのだ。
 農民にとっては、死活問題であったろう。
 紅い霧は消え失せ、今のところ再び発生する様子はない。太陽の光が、田畑に降り注ぐようになった。
 博麗の巫女が、異変を解決してくれた。幻想郷に住まう普通の人々から見れば、そのような事にしかならない。
 謝礼の品を、霊夢は大きな顔をして受け取っておけば良いのだ。霧雨魔理沙は、そう思う。
「私もね、自炊はしてるけど」
 小鉢によそったものをガツガツと喰らいながら、霊夢が悔しげな声を発する。
「……駄目ね。お料理は、魔理沙の方が全然上手。伊達に日頃キノコ煮てないわよね」
「まあ料理に応用出来ない事もないからな」
 博麗神社の、社務所と言うか住宅。
 広間で、鍋を囲んでいるところである。霊夢と魔理沙、それにチルノと大妖精の4人でだ。
 農民たちの貢ぎ物を使って、魔理沙が腕を振るってみたのだ。
「あと大妖精が手伝ってくれた。お前なかなか手際がいいな」
「霧の湖に、お料理のとっても上手な人魚さんがいまして。私、教わっているんです」
 俯き加減に、大妖精は言った。
「私のお料理なんて……人間の皆さんの、真似事にしかなってませんけど……」
「あんまり卑屈になりなさんな」
「……そうね、魔理沙の言う通り」
 旨味の染み込んだ煮野菜と魚の切り身をたっぷりと鍋から小鉢に移し、喰らい、酒で流し込みながら、霊夢は言った。
「あんたたち妖精、もうちょっとだけ大きな顔してもいいわ。博麗の巫女が許可してあげる。もうちょっとだけ、よ」
「お前、随分と酒が進んでるな」
 魔理沙は訊いた。
「……もしかして、ヤケ酒か?」
「別に……そういうわけじゃないけど」
 言いつつ霊夢は、魔理沙のお猪口に酒を注いだ。
「……今回、私より魔理沙の方が大きい仕事してるわよね。ほら、もっと飲みなさいよ」
「ま、まあな。確かにパチュリーをぶちのめしたのは私だけど」
 結果、紅い霧は消えた。
「だけどその間、あのレミリアを1対1で足止めしてくれてたのは霊夢だろ」
「結局、倒せなかった……あれを生かしておくのは、ちょっと危険かもね」
「お2人とも……まだ、戦うおつもりですか。紅魔館の方々と」
 大妖精が、おずおずと訊いてくる。
「紅い霧は消えました。もう、あんな危険な戦いをなさる必要はないと思います」
「あんたたち妖精は……しょっちゅうトチ狂って弾幕ぶちまけてるくせに、意外と平和主義なのよね。まあ飲みなさい」
 有無を言わせず霊夢は、大妖精のお猪口に酒を注いだ。
「ルーミアはどうしたの。あの人肉喰らいに、ちゃんとした食べ物の味を覚えさせなきゃいけないって思ってたとこなんだけど」
「あの子は……引きこもっています。紅魔館の、お嬢様が恐くて」
「まあ、闇の妖怪の親玉みたいなものだからなあ」
 魔理沙は煮野菜と魚を喰らい、酒を飲んだ。酒があるなら、もう少し味付けを濃くしても良かったかも知れない。
 ちなみに、氷漬けの魚を用意してくれたのはチルノである。
「……どうする霊夢。また紅い霧とか出される前に、紅魔館へ殴り込むか? 吸血鬼の、息の根を止めるために」
「やるなら昼間よね……」
「乗り気じゃなさそうだな、安心したぜ」
 魔理沙は思う。
 レミリア・スカーレットの命を狙う。それはすなわち十六夜咲夜、紅美鈴、パチュリー・ノーレッジ、この3人を相手に殺し合いをするという事だ。
 彼女たちの連携を突破するのは至難の業である。霊夢も魔理沙も実際、1度は退却を強いられているのだ。
 特にパチュリーは、レミリアを守るために躊躇なく人質を取るだろう。彼女ならば、紅魔館の地下にいながら、人里へ弾幕を撃ち込む事も出来る。
「そうだよ霊夢。あいつらとの戦いがエスカレートすれば、人里からだって死人が出るかも知れないんだぜ」
「……手懐けて、お友達にでもなれと。そういうわけ?」
「出来れば、それが1番安全かなって気がする。ま、お友達は無理にしてもだ。もう紅い霧みたいな事はしないって約束をさせるくらいは出来ると思うぜ。なあ、チルノはどう思う」
 鍋の中身をひたすら小鉢によそって黙々と喰らい、霊夢に負けず劣らずの食欲を見せ続けていたチルノが、小鉢と箸を置いて言う。
「あたいは、あの子を助けたいと思う」
「あの子? レミリア・スカーレット……じゃ、ないわよね」
「霊夢もな、戦ってる最中じゃなきゃ気付いてたと思うけど」
 禍々しいものを思い出しながら、魔理沙は言った。
「あの紅魔館の地下にはな、ちょっとした化け物がいるんだぜ」
「レミリアが……何か物騒なペットでも飼ってるの?」
「何なのかはわからん。私は尻尾巻いて逃げたからな。チルノに言わせれば、助けなきゃいけない『あの子』って事になるらしいが」
「魔理沙も霊夢も。紅魔館と仲良くするんでもケンカするんでも、あの子をほったらかしってわけにはいかなくなると思うぞ。そのうち絶対」
 このチルノという妖精は、頭が良くないようでいて、物事の本質に近いところを見失わない。
 確かに、あの禍々しさの塊である何者かとは、いずれ何らかの形で向き合わなければならなくなる。紅魔館が幻想郷に存在する限り。
「チルノは、あれが……紅魔館の地下に理不尽に閉じ込められている、かわいそうな誰かだと思っているんだな」
「うん。あの子、外に出たがってた……って言うより、誰かに会いたがっていた……んだと思う」
 チルノも今のところ、漠然と感じるだけであるようだった。
「誰かって、もちろんあたいじゃないだろうけど……会ってみたいな、あの子に」
「やめようよチルノちゃん! きっと、すごく恐い子だよ」
「でしょうね。魔理沙が、ここまで警戒するくらいだから」
 言ってから、霊夢は酒を呷った。
「やれやれ……紅い霧を消して終わり、ってわけにもいかないみたいね。レミリア・スカーレットだけでも私いっぱいいっぱいなのに、まだ見ぬ化け物が手ぐすね引いてると。そっちはもう魔理沙に任せるわ」
「ははは勘弁だぜ。あれに対処するには博麗の巫女が、もう1人か2人欲しいところ……なあ霊夢。人手、もっと集められないのか? 妖怪対策の人脈みたいなもの、博麗神社には」
「あるわけないでしょ、そんなもの」
 大妖精に酌をさせながら、霊夢は言った。
「そりゃね、妖怪退治をやってる人間は私や魔理沙だけじゃないけど、まあ生兵法な連中ばっかり……妖精に勝てるかどうかも怪しい自称・退魔師が人里にいくらでもいるけどね。そんなの集めてどうにかなる相手じゃないって事、魔理沙だってわかってるでしょうが」
「博麗の巫女から見れば、どいつもこいつも生兵法か」
 ちびりと酒を飲みながら、霊夢は少しの間、沈思した。
「…………1人だけ。いるのよね、凄腕が」
「ほう」
「私、面識はないんだけどね。顔も知らない。ただ、そいつのやった妖怪退治の痕跡を見つけただけなんだけど」
 霊夢は、遠くを見つめたようだった。
「危険な人喰いの妖怪が何匹もね、死体も残さず灰になっていた……油で火を点けたんじゃ、あんな綺麗な灰にはならない。何て言うのかな、まるで火の鳥が羽ばたいたみたいに……ふふっ、酔っ払ってるわね。私」


 図書館と言っても、本を貸し出しているわけではない。
 何しろ紅魔館の地下である。
 パチュリー・ノーレッジ個人の膨大な蔵書を、収納管理するための空間を、紅魔館の主が提供してるだけだ。
 無数の書架を満たしているのは、パチュリーの執筆した魔導書、だけではない。
 外の世界の、無智蒙昧な暴徒の群れから、パチュリーが懸命に守り抜いた知識・秘法の数々が、この図書館には眠っている。
 それら書物の管理と整理整頓。自分に出来る事はそれだけだ、と小悪魔は思い定めている。
(パチュリー様のために、私が出来る事なんて……)
 書物を満載した台車を押して歩きながら、小悪魔は心の中で呟いた。
 霧雨魔理沙には感謝をすべきなのかも知れない、とは思う。
 紅い霧の発生と制御を、パチュリーは一手に司っていた。そうしながら、美鈴や咲夜をかわしてきた手強い侵入者とも戦う。
 己の病弱な肉体に鞭打ってだ。
 その負担から、魔理沙はパチュリーを解放してくれた。
 だがレミリア・スカーレットのためであれば、パチュリーは同等の負担をいくらでも己に課すだろう。
 あの吸血鬼が存命である限りパチュリーは、その生き方を止めようとしない。
「誰か……ねえ、この奥にいる誰かさん……」
 先日この図書館で感じ取った、あの禍々しく渦巻く気配。その主に、小悪魔は語りかけていた。
「パチュリー様がおっしゃった、レミリア・スカーレットの弱点って……あなたの、事なの? じゃあ力を貸してよ……あのお嬢様を、この世から消すために……」
 応える者のいない語りかけをしながら淡々と、台車上の書物を書架に戻してゆく。
 その手が、ふと止まった。
「……誰、そこにいるのは」
「おや……おやおや。まさかねえ、君が私に気付くとは」
 書架の陰に、その少女はゆらりと佇んでいた。
 年齢は、咲夜や美鈴と同程度。外見からは、そう判断出来る。
「この紅魔館で、私の存在を最初に感知したのが……レミリア・スカーレットではなく、十六夜咲夜あるいはパチュリー・ノーレッジでもなく、まさか君とはね。いささか甘く見ていたようだ」
「侵入者……!」
 1歩、小悪魔は後退りをした。
 その少女が、書架の陰からふわりと歩み出す。
 広い袖の中で、腕組みをしている。豊かな胸の膨らみを支えるかのように。
 ゆったりとした衣服では隠しきれない魅惑的なボディラインが、小悪魔を圧倒した。
 にこりと微笑む、その美貌もだ。
「そう警戒しないで欲しいな……いや、用心深いのは悪い事ではないか。君は、この図書館を愛している。だから館内の、僅かな空気の揺らぎさえ見逃す事は出来ない。私のような侵入者にも気付いてしまう」
 ふっさりとした大量の何かが、少女の後方で揺れた。まるで後光だ。
 9本もの、獣の尻尾であった。
 金色の髪に被せられた奇妙な帽子は、獣の耳を隠すためのものであろう。
「勝手に入り込んだ事を詫びておきたい。司書のパチュリー・ノーレッジ女史は今どちらに?」
「…………」
 小悪魔は答えなかったが、見抜かれた。
「そうか、寝込んでいるのだね。あの霧雨魔理沙との戦いで消耗し果てて、今は絶対安静か……おっと早まってはいけない、君と弾幕戦をやろうという気はないよ」
「……貴女は、誰なの」
 いつでも光弾を撃てる状態のまま、小悪魔は言った。
「美鈴さんにも、咲夜さんにも気付かれずに……こんな所まで、忍び込むなんて」
「隙間から、こっそりと何処かへ入り込む事にかけてはね、私は幻想郷で2番目の腕前だ。1番は私の主人さ」
 九尾の美少女が、微笑む。
 このまま弾幕戦を挑めば、自分など5秒も保たない、と小悪魔は確信した。
 大妖怪だ。
 レミリア・スカーレットに、匹敵するのではないか。
「……用件は、何」
 小悪魔の、声が震えた。
「紅魔館の主……レミリアお嬢様の命? それなら」
「喜んで差し出す気でいるのだろうけど残念。私にも、私の主人にもね、レミリア・スカーレットと敵対する理由が今のところはないんだ。紅い霧は、博麗の巫女たちがどうにかしてくれたようだからね」
 九尾の大妖怪が、図書館の奥の方に、ちらりと視線を投げた。
 その眼差しだけで、小悪魔は理解した。
 この地下図書館のさらに奥で、禍々しい気配を渦巻かせているあの何者かと、この大妖怪は関わりがある。
「私はここで、ちょっと確認しなければならない事があるんだよ」
「……あれは、何なの」
 強大なる九尾の妖獣に、小悪魔は詰め寄っていた。
「あれに心当たりがあるなら、教えてよ。あれは何? 解き放つ手段があるなら」
「あの子を封印したのは、私の主人だ。この図書館の奥に境界を設定して完璧に隔絶された空間を作り出し、その中へと巧みに導き入れて境界を閉じる……物理的な馬鹿力では決して破れない封印さ」
 妖獣の少女が語る。
「何しろ、あの子を野放しにしておいたら外の世界の人間たちが際限なく殺される。私は正直あの連中、綺麗に滅ぼしてやった方が慈悲ではないかと思うのだがね……ともかく私の主人が、あの子を紅魔館の地下に封印した。その封印もろとも、紅魔館はこうして幻想郷へと転移したわけだが」
 外の世界においては、紅魔館と人間たちとの関係悪化は、もはや修復不可能であった。
 レミリアも、咲夜も美鈴もパチュリーも、人間を殺し過ぎた。殺戮が、紅魔館の日常であった。
 小悪魔の見た限り、殺戮虐殺の憂き目に遭っていたのは、そうされて当然としか思えぬような人間ばかりで、そこはこの九尾の大妖怪とも意見の合うところであるかも知れない。
 とにかく紅魔館は、外の世界での存在が許されなくなった。
 許す許さないを決めるのは人間たちで、そんなものに関わりなく外の世界に力で居座り、魔王として君臨する。レミリア・スカーレットには、その選択肢もあったはずだ。
 紅魔館の主はしかし、それを選ばなかった。
「この幻想郷で、あの子を封印から解き放つか否か……その判断は、実は私に一任されていてね。主人から、厄介なものを丸投げされてしまった」
 九尾の大妖獣が、溜め息をついている。
 小悪魔は、なおも詰め寄った。
「解き放つ事が、貴女なら出来るの……?」
「今すぐにでも。あの方の一番弟子である、私になら」
 あの方というのは、この妖獣の少女の主人であろう。
「私は、封印の状態を確認するために来たんだ。そこで君に見つかってしまった。紅魔館の単なる下働きと侮っていた、君にね……敬意を表する事にしよう。封印を解くかどうか、君が決めたまえ」
「私が……」
「君がそうしろと言うのなら、私はあの子を解放する。結果いかなる事態になろうとも、君に責任を押し付ける事はしない」
 九尾の大妖怪は言った。
「……ずっと閉じ込めておくのも、かわいそうだと思っていたところでね」


 新参者の十六夜咲夜が、気がついたら自分よりも上にいた。
 まあ当然だ、と紅美鈴は思う。あの仕事ぶりを見せつけられては、自分など平伏するしかない。
 彼女は、紅魔館を知り尽くしている。ある一点を除いては、だが。
 地下図書館の奥に、恐らくは閉じ込められているのであろう、あの禍々しさの塊のような何者かに関して、咲夜は何も知らなかった。
 咲夜も美鈴も知らぬ事を、パチュリー・ノーレッジはどうやら知っている。
「まあ、無理に聞いてみる事でもない……か」
 美鈴は伸びをしながら、夜空を見上げた。
 満月、にはいくらか足りない月が、冷たく清かな光を降らせてくれる。
 背後には紅魔館の正門。今夜は、不寝番である。
 月の光は、妖怪に力を与えてくれる。これほど月が明るいなら、睡眠で身体を休める必要もない。
「……元気いっぱいだよ、今の私」
 美鈴は演武を披露した。誰も見てはいないのだが。
 ゆったりと躍動する全身に、涼やかな月光が満遍なく降り注ぐ。
「お嬢様にもパチュリー様にも悪いけど、紅い霧……やっぱり要らなかったんだよ」
 あの紅い霧は、昼には太陽の光を、夜には月の光を、遮っていた。
「小悪魔の言う通りですよ、お嬢様。吸血鬼の方はね、昼の間は無理なさらず休んでいればいいんです。夜になったら暴れましょう。お月様の光を浴びながら、元気良く……外の世界で、やったみたいに」
 懐かしい殺戮の日々を、美鈴は思い返した。
 咲夜が先日、捕らえてきた男たち。あのような輩が、外の世界にはいくらでもいる。大いに、美鈴は殺したものだ。手刀で首を刎ね、膝蹴りで股間を粉砕した。
 命乞いをする者たちを、咲夜が丁寧に切り刻んだ。どこまで生きていられるかを皆で賭けたものだ。咲夜の解体技術にかかれば、頭部と脊柱だけでも人間はしばらく生きていられる。
 思い返してみると、パチュリーはあまり人を殺さなかった。彼女はむしろ、人間を生かす事に熱心だった。美鈴に叩き潰されたり咲夜に切り刻まれたりで原形をなくした人間たちを、パチュリーは様々な形に繋ぎ合わせ、わけのわからぬ生き物を大量に作って見せたものだ。
 そしてレミリアである。
 彼女は人間たちを、殺したと言うより破壊した。住んでいる村や町もろともだ。
 人体の破片が大量に、瓦礫もろとも舞い上がる。壮観だった。
「楽しかったなぁ……本当に……」
 うっとりと、美鈴は微笑んだ。
「……幻想郷の人間どもは、駄目だ。基本的に善人ばっかり、殺して楽しもうって気になれない」
 正義の味方を気取るつもりはない。が、やはり殺して楽しいのは、咲夜が捕らえたあの男たちのような輩である。
「ったく、咲夜さんもなー。あんな雇われ妖怪だけじゃなくて、私も連れてってくれればいいのにっ」
 言いつつ美鈴は、目に見えない敵を想定して拳を、手刀を、蹴りを、叩き込んでいった。
 そして、残心。
 拍手が、聞こえた。
「お見事……その演武、私に対する威嚇かな?」
「半分は、そのつもりだよ」
 美鈴は睨み据えた。不穏な気配に、先程から気付いてはいたのだ。
 拍手をしながら佇んでいるのは、紅白の少女である。博麗霊夢。美鈴は一瞬、そう思った。
 だが、清かな月光を受けて妖しく輝いているのは、霊夢の艶やかな黒髪ではない。
 所々にリボンが巻かれた、長い銀色の髪。白髪にも見えてしまう。
 老婆か。否、不敵に微笑む美貌は若々しく、勝ち気な乙女にしか見えない。
 紅白の衣装をまとう細身が、まるで刃物のように鍛え抜かれているのを美鈴は見抜いた。
「……人間のお嬢ちゃんは、もうおねむの時間じゃないのかな」
 声をかけてみる。
 自分のような、妖怪の類ではない。それはわかった。
「お家へお帰りよ。それとも家出? 親御さんと喧嘩でもした? 愚痴なら聞いてやろうか」
「聞いてもらおうかな。このところ幻想郷が物騒でねえ」
 銀髪の少女が1歩、ゆらりと近付いて来る。
 1歩、下がりそうになった己の足を、美鈴は辛うじて踏みとどまらせた。
「外の世界から、おかしな連中が入り込んで来たらしい。皆、恐がっている……博麗の巫女が、どうにかしてくれたようだけど」
 銀髪の少女が、空を見上げる。月を、睨んでいる。
「紅い霧も消え失せて皆、ひとまずは安心しているのかな。月が、よく見えるようになった……それだけが忌々しい。私は、月が大嫌いなんだ」
「だったら出歩くんじゃないよ、こんな月の綺麗な晩に」
 美鈴は牙を剥いた。
「こんな夜は、私ら妖怪が元気になる。凶暴になる。人間がうろつくものじゃあない」
「いいね、月夜の妖怪は実に手強い。退治しがいがある」
 銀髪の少女が、片手を掲げる。
 鋭利な五指が、炎を発した。
「妖怪退治、と言っても弱い者いじめはしたくないんでね」
「お前……博麗霊夢の、同業者か?」
「おこがましいよ。博麗の巫女は、幻想郷のための異変解決をしている。立派な仕事さ。私はただ、人里の悪ガキどもが喧嘩に明け暮れるように妖怪退治をしているだけ」
 炎が、少女の鋭い美貌を照らし出す。
「紅い霧の異変は片付いた、だけど紅魔館の連中は生きている……博麗の巫女は、もしかしたら、お前らとの平和的共存でも目指してるのかも知れない。それはそれで立派な事だけど、私は私で勝手にやらせてもらう」
「紅魔館を相手に……お前、何を勝手にやる?」
「言ったろう、妖怪退治だよ」
 炎の明かりの中で、凄惨な笑みが浮かんだ。
「お前たちが……放置しても問題なさそうな弱小妖怪の群れだとわかったら、見逃してやるよ」
「……死にたいのか、人間!」
 美鈴は恫喝した。
 銀髪の少女は、ただ微笑んでいる。
「……いいね。お前、私を殺してくれるのかい」
 若々しく獰猛な、その笑顔が一瞬、ほんの一瞬だけ、まるで疲れ果てた老婆のような陰翳を帯びた。


 レミリア・スカーレットの小柄な細身から、するすると包帯がほどけ落ちてゆく。
 可憐な肩の丸みが、綺麗な鎖骨の凹みが、未熟で愛らしい裸の曲線が、清かな月明かりの中で露わになる。
 十六夜咲夜は思った。天国はここにある、と。
 天使も、唯一神も存在しない天国。
 否、と咲夜は思う。
 レミリアこそが、天使であり女神なのだ。
 一糸まとわぬ姿で女神は露台に佇み、幼い全身で月光のシャワーを浴びている。
 紅い霧に遮られる事のなくなった、解放された月の光。
 太陽に灼かれ、1度は灰になりかけた身体には、今や火傷の痕跡すら残っていない。
 月光の色艶を帯びた、白く幼い美肌が、咲夜の視覚を鮮烈に強烈に刺激する。
 このまま目が潰れても構わない、とすら咲夜は思う。自分ごときが最後に見るものとしては、あまりにも美しすぎる。
「月の光を浴びると……再生速度が、目に見えて違ってくるのね」
 無傷の美貌を、愛らしい両手でつるりと撫でながら、レミリアは呟いた。
「私とした事が、実に愚か……太陽を憎むあまり、月の恩恵を忘れてしまうなんて」
 蕾のような裸身に、レミリアは手際良く下着をまとっていった。
「もちろん太陽はいずれ克服して見せる。ただ、紅い霧で空を覆い隠してしまうというのは、やはり何か違うわね……ああ、手を出さないで咲夜。服くらい自分で着るわ」
「はっ……申し訳、ございません」
「パチェの様子は、どう?」
 桃色のドレスをするりと着用しながら、レミリアが訊いてくる。
「あの子には随分と無理をさせてしまったわ。小悪魔が怒るのも、当然よね」
「パチュリー様は……先程まで、うなされておられました」
「恐ろしい夢でも見ているのかしらね、パチェが……珍しいわ」
 パチュリーが悪夢を見ている、のだとしたら。
 それは美鈴の、あの妙な質問と何か関係があるのだろうか、と咲夜は思った。
 ねえ咲夜さん、ちょっと変なこと訊きますけど……ここの地下、図書館のもう一つ二つ奥の方に、誰か閉じ込められてたりとか。そういう話、知りません? いや咲夜さんが捕まえてきた連中とは別に。どうもね、何かいるような感じなんですよ。
 そんな事を、美鈴は言っていた。
 咲夜は当然、そんな話に心当たりはない。
 美鈴の勘違いではないだろう、とは思う。彼女が、何者かの気配を読み違えるとは思えない。
 それに美鈴は、同じような話をパチュリーにもしていた。
 パチュリーは肯定も否定もせず、ただ美鈴に言った。忘れなさい、と。
 忘れなければならない何かが、この紅魔館にはあるという事だ。
 当然だ、と咲夜は思う。自分は、紅魔館では1番の新参者である。最古参のパチュリーが知っていて自分が知らない事など、まだいくらでもあるに決まっている。
 知りたがる美鈴の気持ちはわかるが、この場でレミリアに訊く事ではない。必要があれば、彼女自身の口から明かされる。
「それにしても、博麗霊夢に霧雨魔理沙……容易ならぬ相手。幻想郷へ来て、いきなり出鼻を挫かれてしまったわね。良い教訓になったわ」
 月を見つめながら、レミリアは言った。
「外に世界にもね、ヴァンパイア・ハンター気取りで私の命を狙いに来る者は大勢いたけれど有象無象……否。1人だけいたわね。恐ろしく手強いハンターが」
 ちらりと振り向いたレミリアが、咲夜に向かって微笑む。初めて出会った、あの時のように。
 咲夜は一礼し、俯くしかなかった。
「今は……私のこの命、いかようにもお使い下さい。他に、あの時の御無礼を償う術がございません」
「無礼などと思っていないわ。私はただ、貴女を手に入れただけ……ふふっ、良い拾い物だったわ」
 咲夜は思う。あの時、自分は殺されていてもおかしくはなかった。いや、本当は殺されたのかも知れない。
 人間という生き物に、吸血鬼と戦ってまで守る価値を見出していた愚かなヴァンパイアハンターは、あの時、確かに死んだのだ。
「……紅茶を、お持ちいたします」
「月夜のお茶会ね。パチェが元気なら呼んできて欲しいところだけど……そうね、たまには美鈴を呼んであげましょうか」
「……それ、すごく嬉しいですけど……」
 弱々しい声が、辛うじて聞こえた。
 露台から、咲夜は庭園を見下ろした。人影が、よろよろと歩いている。
「……すいません私、お茶会には参加……出来ません……」
「美鈴……!? お嬢様、失礼をいたしますっ」
 咲夜はひらりと欄干を跳び越え、庭園に着地した。
 美鈴が、倒れ込んで来る。
 博麗の巫女との戦いでも彼女は、ここまでの負傷はしなかった。
「しっかりしなさい、何があったの」
 打撲傷、擦過傷、裂傷、そして火傷。
 様々な傷を刻み込まれた美鈴の身体を、咲夜は抱き止めた。血生臭さと焦げ臭さが、痛々しく漂った。
 何があったのかは、聞いて見るまでもない。
 紅魔館の門番が、このような所まで退いて来た。つまり、門前での戦いに敗れたという事だ。
「……博麗の巫女と、霧雨魔理沙が?」
「いえ……あいつらじゃ、ありません……」
 美鈴が呻く。
「……化け物です、咲夜さん……」
 その化け物が、ゆっくりと歩いて来る。スポットライトのような月明かりを受けながら。
 眩しいほどの、白髪……いや、銀色の髪か。
 海千山千の老婆を思わせる笑みを、その少女は浮かべた。
「手強い門番を飼っているじゃないか。幻想郷の妖怪なんて、月から来た連中に比べたら可愛いもんだと思っていたけど……なかなか、どうして」
「何者……!」
 咲夜は、太股のベルトからナイフを抜いた。
 銀髪の少女が、それを制するように片手をかざす。
「人間と戦おうって気はない。その門番の手当でも、してやりなよ」
「妖怪退治、というわけ」
 レミリアが、ふわりと降り立った。
「命懸けのゲームでも楽しんでいるつもりかしら? 月夜に吸血鬼の館へ殴り込むなんて」
「命懸け、か。懐かしい言葉だ」
 かざした片手を、少女が燃え上がらせる。不敵な美貌を、炎が照らす。
「私の命、奪えるものなら奪ってもらおうか」
「……下がっていなさい、咲夜。美鈴の手当てを」
 レミリアが前に出た。咲夜と美鈴を、背後に庇う格好となった。
「これは命令よ」
「お嬢様……」
「博麗霊夢、霧雨魔理沙……お前は3人目、というわけね」
 レミリアが、美しい牙を剥いて微笑んでいる。背後からでも、それはわかる。
「……私に挑む、清々しいほどに愚かな人間。本当に素敵よ、幻想郷」

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