【完結】契約書は婚姻届

霧内杳

第12話 尚一郎と元カノ2

ぼーっと、流れていく窓の外を眺めていた。
尚一郎も再び車を出してからというもの、ずっと黙っている。

話を聞き終わって、このまま帰るか予定通り宿泊するか聞かれたが、気持ちを整理したくて帰ることにした。

帰りは少し休憩を入れたくらいで食事もしなかったのに、遅くに帰り着いたものの食欲は全くわかない。

「Gute Nacht(おやすみ)、朋香」

「……おやすみなさい」

今日は自分の部屋で、ひとりで寝る。
とにかくひとりになりたかった。

ばふんとベッドに寝ころぶと、今日一日のことがぐるぐると回る。

昨日、尚恭に聞いた話もかなりショックだったが、今日、尚一郎の口から語られた話はそれ以上に衝撃的だった。
 
それは尚一郎と万理奈が付き合っていたからか、それとも万理奈の親の、会社のせいなのかわからない。
もしかしたら、両方ということも考えられるが。


万理奈と尚一郎の交際に、当然、達之助は激怒した。
何度も別れるように通告されたが、尚一郎は無視して万理奈と付き合い続けた。
尚一郎にとって、万理奈と過ごす時間が唯一、幸せな時間だったから。


尚一郎が三年に上がった頃、万理奈と崇之の親の会社であるエルピス製薬が、複数の大学病院と癒着していると噂が立った。
社長は潔白だと会見を開いたものの、証拠を持っているという元社員や病院関係者まで現れる。

連日、ワイドショーやニュース番組を騒がしていたらしいが、当時まだ七歳だった朋香の記憶は薄い。

あっという間にエルピス製薬の株価は暴落。
万理奈の親は資金繰りに走り回るが、信用ががた落ちした会社に手を差し伸べる者などいない。

崇之は学校を去ることになり、尚一郎が援助を申し出るも断られる。

その際、喧嘩になったが、おまえとは対等な立場だと思ってたのに違うのかと崇之に言われ、自分の考えを恥じたと言っていた。


どん底のエルピス製薬にやがて、救いの手が現れる。

それがオシベだ。

ただし、条件は酷いものだった。

吸収合併という名の事実上の買収。
役員は全員解雇。
いままで得たノウハウも顧客もすべてオシベのものになってしまう。
それでも、従業員が救われるならいいと社長は考えたようだ。

しかし、最後の条件がどうしても飲めなかった。

それは、社長の娘――万理奈を、押部家に縁のある政治家に差し出すこと。

その政治家はなにかと、女性の噂がつきまとう最低の男だった。

すべてが、言うことを聞かない尚一郎に対する、達之助の制裁だった。

いや、尚一郎への制裁にかこつけて急成長を続ける、目の上のたんこぶを取り除きたかっただけかもしれない。

事実、エルピス製薬は不正などやってなく、証拠はすべて捏造されたものだった。
エルピス製薬の潔白を証明する証言は、マスコミを操作してすべて消し去られた。

「尚一郎なんて好きにならなきゃよかった」

詫びる尚一郎に泣きながら万理奈が言った言葉は、いまも尚一郎の心に深く突き刺さっている。
すべてが自分のせいだと背負い込み、尚一郎と別れた万理奈は塞ぎ込んでしまった。

さらに冷え込んだ冬の深夜。

犬飼邸が出火した。

原因は煙草の不始末とされたが、実際とのところはわからない。
犬飼の家族は誰も煙草を吸わず、その日にそのような客があったわけでもない。
結局、父親が溜まったストレスに隠れて吸っていたと片付けれた。

原因がなんであろうと、乾いた冬のことだ。
火はあっという間に回り、全焼。
遅くまで勉強をしていた崇之は気づき、命からがら妹を連れて逃げだしたものの、両親は逃げ遅れた。
焼け落ちる家の前で、抱きあって立つふたりになんと声をかけていいのかわからなかった、と尚一郎は涙を堪えた声で言っていた。


エルピス製薬はタダ同然でオシベに買われた。
全身に大やけどを負った万理奈は、人目を避けるようにあの山奥に移り住んだ。
その生活費は押部家がみている。
尚一郎がなんですると頼み込んだから。

その後、尚一郎は本気で女性と付き合うのを避けるようになった。
侑岐と恋人のフリをして女性を避け、一夜限りの関係以外は相手にしなくなる。


崇之の方は父親亡き後、かなりの苦労をして大学を卒業。
何食わぬ顔でオシベグループに就職していたそうだ。

尚一郎がオシベメディテックの社長に就任すると同時に秘書に抜擢。

崇之がいま、仕事と割り切って秘書をしているのか、友人としてなのか、それとも復讐を企んでのことかは尚一郎にはわからないらしい。
ただ、崇之が自分に復讐したいというなら、甘んじて受けるよ、と尚一郎は笑っていた。



「私ひとりの問題じゃないんだ……」

尚一郎との愛を貫いて、自分ひとりが不幸になるのなら自業自得でまだ諦めもつくかもしれない。

それに、尚一郎は何度も、朋香を守ると誓ってくれた。

けれど、達之助の認めない尚一郎との結婚生活を続ければ、明夫の工場がまた倒産の危機に立たされるどころか、家族まで失いかねない。

「結局、尚一郎さんとの結婚は、諸刃の剣だった、ってことだよね……」

尚一郎と結婚することで、工場は守れた上に融資まで受けられた。
しかしこの結婚は達之助の不評を買っている。

「でも、いまさらこんな話をされたって、……引き返せない」

顔をうずめた枕が、こぼれ落ちる涙を吸い取っていく。

万理奈の気持ちが痛いほどわかった。

これは契約結婚なんだからと、ずっと尚一郎なんて好きにならなければよかった。
いまさら、尚一郎と別れるなんてできない。
それほどまでに尚一郎を深く愛していた。
けれど、そうしなければ今度は家族を失うことになる。
もう二度と、事故で和子を失ったときと同じ思いをするのは嫌だ。

身も心もバラバラになってしまいそうで、ひたすら苦しい。

「どうしたらいいのかなんて、わかん、ないっ……」
 
嗚咽は、枕に消えていく。
ただ、尚一郎と幸せになりたいだけなのに、なんでできないんだろう。


コンコンコン、と不意にノックの音が聞こえた気がして、嗚咽が途切れる。

「朋香?
……入ってもいいかい?」

すぐに、おずおずと窺うように尚一郎の声が聞こえてきた。

思いっきり尚一郎に抱きしめてもらいたい。

けれどそんなことをすればますます引き返せなくなれそうで、返事ができない。

「朋香?
入るよ」

迷っていたらドアが開いて尚一郎が入ってきた。
顔も上げることができなくて枕にうずめたままじっとしていると、マットがたわんで尚一郎が傍に座った。

「Es tut mir Leid(ごめん)」

そっと髪を撫でられ、ますます涙が出てきそうになる。

顔を見たい。
その胸の飛び込んで泣きたい。

でも、いまは躊躇われる。

「どうして、私と結婚したんですか」

びくり、髪を撫でていた手が震えて止まった。

「朋香はきっと、後悔しているだろうね」

「私は理由を知りたいんです」

枕から顔を上げ起きあがり、レンズ越しに尚一郎の瞳をじっと見つめる。
尚一郎も視線を逸らさずにじっと朋香を見つめていたが、しばらくしてはぁっと小さくため息をついた。

「……僕の、わがままだったんだ」

「わがまま、ですか?」

「そう、わがまま」

困ったように笑い、尚一郎はどうして朋香と結婚したかったのか、話しだした。

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