【完結】契約書は婚姻届
第11話 Kaffee trinken1
いつものように長い竹林を抜けて車は右に曲がり、竹林に沿って進んでいく。
「あのー、尚一郎さん?
高橋さん、道、間違えてるんじゃ……?」
達之助の暮らす本邸は、竹林を抜けて真っ直ぐだ。
けれど車は本邸を左に走っている。
「いいんだよ。
今日、僕を呼んだのはCOOだから」
困ったように笑う尚一郎の手を、思わずぎゅっと掴んでいた。
指を絡めて握り返され、少しだけ安心できる。
……昨晩。
あれから、尚一郎が教えてくれた。
帰りに本邸に寄って、例の書類を渡したこと。
当然、尚一郎は中に入れないから、入り口で押部家付きの秘書に。
だから、きっとその件で呼び出しだろうと笑っていた。
着いたところは尚一郎の屋敷と同じくらいの大きさの、洋風の屋敷だった。
正面玄関で車を降り、そこから入る。
ずいぶん、本邸とは扱いが違った。
出迎えた執事の案内で通されたのは、書斎。
「来たか」
部屋の奥、窓を背に置かれた重厚な机には、両肘をついて手を組んだ、年配の男が座っていた。
どことなく見覚えのある顔に、思わず隣を見てしまう。
その男は尚一郎の髪と瞳の色を変え、きっと年をとったらこんな顔になるんだろうな、そう思わせる顔だったから。
「ああ。
朋香さんとは初めてでしたね。
……初めまして。
尚一郎の父の、尚恭です」
にっこりと眼鏡の奥の目が笑い、ぽーっとなりそうになったが、慌てて軽くあたまを振って平静を保つ。
「朋香、です。
……ふつつかものですが、よろしくお願いします」
……尚一郎さんが年をとると、あんな感じになるんだ。
穏やかに笑う尚恭はナイスミドルという言葉がぴったりで、尚一郎のこの先が楽しみだとか密かに考えてしまい、そんな場合ではないと気を引き締め直す。
「可愛いお嬢さんですね。
私がもう、十ほど若ければ……」
「それで。
用件はなんですか?」
「おお、怖い」
尚一郎が周囲を凍らせそうなほど冷ややかに言葉を遮ったが、尚恭は堪えてないどころか、おかしそうにくつくつ笑っている。
「用件、ね。
……こんなことが許されるとでも思っているのか?」
尚恭の表情が一変し、ばさりと投げ捨てるかの様にその場に出されたそれは昨日、尚一郎が朋香の目の前でサインした書類だった。
「許されるのもなにも。
私は朋香以外の妻は認めませんし、そのためだったらこんな家など」
「そんなわがままが通じるとでも?
おまえは押部家唯一の、跡取りなんだぞ」
うっすらと笑う尚恭は、尚一郎よりもさらに恐怖を感じる。
これが重ねた年の差というものなのだろうか。
「私のところで止めたからよかったものの。
当主のところに渡っていたらどうなっていたか」
「大喜びで私を、廃嫡にしていたでしょうね」
冷たく笑い返した尚一郎だが、ただの負け惜しみにしか聞こえないのは気のせいだろうか。
「それが困るというのだ。
この問題は家族間だけのものじゃない。
オシベグループ全体に関わるものだ。
……わかるだろう?」
「……はい」
すっかり俯いてしまった尚一郎に、胸が苦しくなった。
……私のせいで、尚一郎さんを苦しませている。
自分のためだったら家を捨てる、そう言ってくれたのは嬉しかった。
けれど。
……問題はそんなに簡単なことではなかったのだ。
「この書類は私が預かっておく。
ああ、侑岐さんとの婚約破棄についてはきちんと話を通しておくから」
「……よろしくお願いします」
深々とあたまを下げた尚一郎に合わせて、朋香もあたまを下げる。
……しかし、意外、だった。
婚約破棄も認めないと言うのかと思っていたから。
「話はこれで終わりだ。
昼食を一緒に食べていきなさい」
「いえ、これで失礼させていただきます」
「……そうか」
一瞬、尚恭が淋しそうな表情を見せた気がしたのは気のせいだろうか。
「では、これで」
あたまを下げて尚一郎が部屋を出ていこうとし、慌ててあたまを下げて朋香も続く。
来たときと同じ廊下を進み、正面玄関から出ると、すでに高橋が車を回してあった。
車が走り出し、ちらちらと尚一郎の顔を窺ってしまう。
すぐに感情的になる達之助と違い、尚恭は落ち着いて見えた。
達之助と同じで尚一郎を嫌っているかといえば、そうではない気がする。
その反面、父と息子の対面にしては、酷くビジネスライクにも見えた。
尚恭は尚一郎を、本当はどう思っているんだろう。
「朋香?」
あまりにちらちら見ていたせいか、尚一郎に苦笑いされてしまった。
恥ずかしくなって視線を逸らそうとして、唇に血が滲んでいることに気付いた。
「尚一郎さん、ここ」
「ん?
ああ」
朋香に指摘されて唇にふれた尚一郎はしみたのか、僅かに顔をしかめた。
「唇、噛んだから。
切れたのかもね」
苦笑いする尚一郎に泣きたくなって俯いたら、そっと手を握られた。
「朋香のせいじゃないから。
これは僕の問題」
「でも」
「朋香が笑っていてくれれば、僕は頑張れるから。
だから、笑ってくれるかい?」
「……はい」
無理矢理でも笑顔を作って顔を上げる。
尚一郎も笑ってくれた。
尚一郎が背負っているものは、きっと自分が想像するよりもずっと重い。
どうしたら負担を減らしてあげられるのかわからないが、せめて。
尚一郎が望むのなら、できるだけ笑っていよう。
そのまま、明夫たちと待ち合わせのレストランに行った。
尚恭の誘いを断ったのは、先約があったからというのもある。
「先日はお騒がせして申し訳ありませんでした」
「いや、いいんだ、別に。
もうすっかり仲直りしたようだし」
「……うん」
苦笑いの明夫に、思わず左手薬指の指環を隠してしまう。
まるで、物に釣られたようで恥ずかしくなったからだ。
洋太は我関せずと、無言でメニューを睨んでいる。
「例の元婚約者の件は片付けましたし、朋香には改めて、永遠の愛を誓いましたから大丈夫です。
……ねえ、朋香」
「……うん」
レンズの奥の目を細めてうっとりと見つめられ、頬に熱が一気に上がっていく。
すっかり俯いてしまった朋香に尚一郎が小さくふふっと笑って、さらに顔が熱くなった。
「あーもー、熱くてやってらんねー。
尚にぃ、シャンパン頼んでいい?」
「シャンパンでもワインでも。
なんでも好きな物を頼んでいいよ」
「やりぃ」
おかしそうに笑う尚一郎に大喜びで洋太は店員を呼んで注文を始めた。
「……尚一郎さん。
その、すみません、弟が」
……ちょっとは遠慮しなさいよ。
心の中で洋太に悪態をつきつつ、そっと尚一郎の袖を引いて見上げると、すぅーっと視線を逸らされた。
「別にいいよ。
僕はひとりっ子だからね。
弟ができて嬉しいんだ。
……それから」
「それから?」
尚一郎の顔が寄ってくる。
朋香の耳元まできて、そっと囁かれた。
「そんな可愛い顔されたら、いますぐKussしたくなっちゃうんだけど」
ちゅっ、耳の先にふれて離れた尚一郎の唇に、一気に身体中を熱が駆け回った。
完全に俯いて黙ってしまった朋香に、尚一郎は楽しそうにくすくすと笑っている。
そんなふたりに昭夫は目のやり場に困って花瓶の花を見つめ、洋太はやってられないとシャンパンをあおった。
慣れないフランス料理に昭夫は四苦八苦していたようだが、それ以外は和やかに食事は終わった。
「いつでも帰ってきなさい。
ひとりででも、ふたりででも。
ただし、今回みたいに喧嘩して、後先考えず飛び出してくるのは勘弁してくれ」
「……はい」
困ったように笑う明夫に、穴があったら入りたい。
財布も携帯も持たず、考えないしに家を飛び出すなど。
今回は何事もなく実家に帰り着いたからよかったものの、もしなにかあったらと想像すると、怖い。
「俺は大歓迎。
だって、姉ちゃんのメシ、うまいもん」
「……洋太」
「ごめん」
明夫にたしなめられ、うなだれる洋太につい、朋香も尚一郎も笑っていた。
「今度はちゃんと、連絡して帰るから。
もちろん、おみやげもいっぱいでね」
笑ってタクシーで帰る明夫たちを見送り、帰途につく。
「でも、残念だったね。
本当は押部の家を出るから、お義父さんの工場で一緒に働きたいって言うつもりだったのに」
心底残念そうな尚一郎は、どこまでが冗談なのかわからない。
「……本当に残念だ」
淋しそうに呟く尚一郎の、手を握ってそっと肩に寄りかかった。
「大丈夫ですよ、きっと」
そう言ったものの、なにが大丈夫かなどわからない。
けれどいまは、ただそう言うことしかできなかった。
「あのー、尚一郎さん?
高橋さん、道、間違えてるんじゃ……?」
達之助の暮らす本邸は、竹林を抜けて真っ直ぐだ。
けれど車は本邸を左に走っている。
「いいんだよ。
今日、僕を呼んだのはCOOだから」
困ったように笑う尚一郎の手を、思わずぎゅっと掴んでいた。
指を絡めて握り返され、少しだけ安心できる。
……昨晩。
あれから、尚一郎が教えてくれた。
帰りに本邸に寄って、例の書類を渡したこと。
当然、尚一郎は中に入れないから、入り口で押部家付きの秘書に。
だから、きっとその件で呼び出しだろうと笑っていた。
着いたところは尚一郎の屋敷と同じくらいの大きさの、洋風の屋敷だった。
正面玄関で車を降り、そこから入る。
ずいぶん、本邸とは扱いが違った。
出迎えた執事の案内で通されたのは、書斎。
「来たか」
部屋の奥、窓を背に置かれた重厚な机には、両肘をついて手を組んだ、年配の男が座っていた。
どことなく見覚えのある顔に、思わず隣を見てしまう。
その男は尚一郎の髪と瞳の色を変え、きっと年をとったらこんな顔になるんだろうな、そう思わせる顔だったから。
「ああ。
朋香さんとは初めてでしたね。
……初めまして。
尚一郎の父の、尚恭です」
にっこりと眼鏡の奥の目が笑い、ぽーっとなりそうになったが、慌てて軽くあたまを振って平静を保つ。
「朋香、です。
……ふつつかものですが、よろしくお願いします」
……尚一郎さんが年をとると、あんな感じになるんだ。
穏やかに笑う尚恭はナイスミドルという言葉がぴったりで、尚一郎のこの先が楽しみだとか密かに考えてしまい、そんな場合ではないと気を引き締め直す。
「可愛いお嬢さんですね。
私がもう、十ほど若ければ……」
「それで。
用件はなんですか?」
「おお、怖い」
尚一郎が周囲を凍らせそうなほど冷ややかに言葉を遮ったが、尚恭は堪えてないどころか、おかしそうにくつくつ笑っている。
「用件、ね。
……こんなことが許されるとでも思っているのか?」
尚恭の表情が一変し、ばさりと投げ捨てるかの様にその場に出されたそれは昨日、尚一郎が朋香の目の前でサインした書類だった。
「許されるのもなにも。
私は朋香以外の妻は認めませんし、そのためだったらこんな家など」
「そんなわがままが通じるとでも?
おまえは押部家唯一の、跡取りなんだぞ」
うっすらと笑う尚恭は、尚一郎よりもさらに恐怖を感じる。
これが重ねた年の差というものなのだろうか。
「私のところで止めたからよかったものの。
当主のところに渡っていたらどうなっていたか」
「大喜びで私を、廃嫡にしていたでしょうね」
冷たく笑い返した尚一郎だが、ただの負け惜しみにしか聞こえないのは気のせいだろうか。
「それが困るというのだ。
この問題は家族間だけのものじゃない。
オシベグループ全体に関わるものだ。
……わかるだろう?」
「……はい」
すっかり俯いてしまった尚一郎に、胸が苦しくなった。
……私のせいで、尚一郎さんを苦しませている。
自分のためだったら家を捨てる、そう言ってくれたのは嬉しかった。
けれど。
……問題はそんなに簡単なことではなかったのだ。
「この書類は私が預かっておく。
ああ、侑岐さんとの婚約破棄についてはきちんと話を通しておくから」
「……よろしくお願いします」
深々とあたまを下げた尚一郎に合わせて、朋香もあたまを下げる。
……しかし、意外、だった。
婚約破棄も認めないと言うのかと思っていたから。
「話はこれで終わりだ。
昼食を一緒に食べていきなさい」
「いえ、これで失礼させていただきます」
「……そうか」
一瞬、尚恭が淋しそうな表情を見せた気がしたのは気のせいだろうか。
「では、これで」
あたまを下げて尚一郎が部屋を出ていこうとし、慌ててあたまを下げて朋香も続く。
来たときと同じ廊下を進み、正面玄関から出ると、すでに高橋が車を回してあった。
車が走り出し、ちらちらと尚一郎の顔を窺ってしまう。
すぐに感情的になる達之助と違い、尚恭は落ち着いて見えた。
達之助と同じで尚一郎を嫌っているかといえば、そうではない気がする。
その反面、父と息子の対面にしては、酷くビジネスライクにも見えた。
尚恭は尚一郎を、本当はどう思っているんだろう。
「朋香?」
あまりにちらちら見ていたせいか、尚一郎に苦笑いされてしまった。
恥ずかしくなって視線を逸らそうとして、唇に血が滲んでいることに気付いた。
「尚一郎さん、ここ」
「ん?
ああ」
朋香に指摘されて唇にふれた尚一郎はしみたのか、僅かに顔をしかめた。
「唇、噛んだから。
切れたのかもね」
苦笑いする尚一郎に泣きたくなって俯いたら、そっと手を握られた。
「朋香のせいじゃないから。
これは僕の問題」
「でも」
「朋香が笑っていてくれれば、僕は頑張れるから。
だから、笑ってくれるかい?」
「……はい」
無理矢理でも笑顔を作って顔を上げる。
尚一郎も笑ってくれた。
尚一郎が背負っているものは、きっと自分が想像するよりもずっと重い。
どうしたら負担を減らしてあげられるのかわからないが、せめて。
尚一郎が望むのなら、できるだけ笑っていよう。
そのまま、明夫たちと待ち合わせのレストランに行った。
尚恭の誘いを断ったのは、先約があったからというのもある。
「先日はお騒がせして申し訳ありませんでした」
「いや、いいんだ、別に。
もうすっかり仲直りしたようだし」
「……うん」
苦笑いの明夫に、思わず左手薬指の指環を隠してしまう。
まるで、物に釣られたようで恥ずかしくなったからだ。
洋太は我関せずと、無言でメニューを睨んでいる。
「例の元婚約者の件は片付けましたし、朋香には改めて、永遠の愛を誓いましたから大丈夫です。
……ねえ、朋香」
「……うん」
レンズの奥の目を細めてうっとりと見つめられ、頬に熱が一気に上がっていく。
すっかり俯いてしまった朋香に尚一郎が小さくふふっと笑って、さらに顔が熱くなった。
「あーもー、熱くてやってらんねー。
尚にぃ、シャンパン頼んでいい?」
「シャンパンでもワインでも。
なんでも好きな物を頼んでいいよ」
「やりぃ」
おかしそうに笑う尚一郎に大喜びで洋太は店員を呼んで注文を始めた。
「……尚一郎さん。
その、すみません、弟が」
……ちょっとは遠慮しなさいよ。
心の中で洋太に悪態をつきつつ、そっと尚一郎の袖を引いて見上げると、すぅーっと視線を逸らされた。
「別にいいよ。
僕はひとりっ子だからね。
弟ができて嬉しいんだ。
……それから」
「それから?」
尚一郎の顔が寄ってくる。
朋香の耳元まできて、そっと囁かれた。
「そんな可愛い顔されたら、いますぐKussしたくなっちゃうんだけど」
ちゅっ、耳の先にふれて離れた尚一郎の唇に、一気に身体中を熱が駆け回った。
完全に俯いて黙ってしまった朋香に、尚一郎は楽しそうにくすくすと笑っている。
そんなふたりに昭夫は目のやり場に困って花瓶の花を見つめ、洋太はやってられないとシャンパンをあおった。
慣れないフランス料理に昭夫は四苦八苦していたようだが、それ以外は和やかに食事は終わった。
「いつでも帰ってきなさい。
ひとりででも、ふたりででも。
ただし、今回みたいに喧嘩して、後先考えず飛び出してくるのは勘弁してくれ」
「……はい」
困ったように笑う明夫に、穴があったら入りたい。
財布も携帯も持たず、考えないしに家を飛び出すなど。
今回は何事もなく実家に帰り着いたからよかったものの、もしなにかあったらと想像すると、怖い。
「俺は大歓迎。
だって、姉ちゃんのメシ、うまいもん」
「……洋太」
「ごめん」
明夫にたしなめられ、うなだれる洋太につい、朋香も尚一郎も笑っていた。
「今度はちゃんと、連絡して帰るから。
もちろん、おみやげもいっぱいでね」
笑ってタクシーで帰る明夫たちを見送り、帰途につく。
「でも、残念だったね。
本当は押部の家を出るから、お義父さんの工場で一緒に働きたいって言うつもりだったのに」
心底残念そうな尚一郎は、どこまでが冗談なのかわからない。
「……本当に残念だ」
淋しそうに呟く尚一郎の、手を握ってそっと肩に寄りかかった。
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