【完結】契約書は婚姻届

霧内杳

第8話 焼き肉デート3

焼き肉屋の前にアウディの横付けは目立つので、少し離れたところで降ろしてもらう。
お店ではさすがに土曜なので少し待ちができていた。

「予約はしなかったのかい?」

「予約はできないんですよ」

並んで空いてるベンチに座ると、尚一郎が手を重ね、指を絡めてくる。
前は速攻で振り払っていたが、いまは別になんとも思わない。
むしろ、それが自然だとすら思う。

少し待って店に入る。
店の中では七輪の煙がもうもうと立ちこめていた。

尚一郎を連れてきたのは、七輪で肉を焼いて食べる店。
表こそ小綺麗だが、中は無造作な三和土に長年使い込まれたテーブルと椅子が並んでいる。

「凄いね」

席に着くと物珍しそうに尚一郎が周りを見渡す。

急に、強引にこんなところに連れてきてよかったのか、不安になった。

「あの、尚一郎さん。
その、もしかして嫌だったら、あの」

「ん?
嫌じゃないよ。
むしろ、こんな店に来てみたかったんだよね」

にっこりと尚一郎が笑い、ほっとした。

届いたビールで乾杯。

そういえば、ドイツはビールの国なのに、あまり尚一郎がビールを飲んでいるところは見たことがない。

「んー、なんとなく、かな。
あまり居酒屋とかこういう店には誘われないし」

いくつか朋香に確認しただけで、尚一郎は普通に肉を焼いて食べている。

やはり視線は気になるが、かまわないことにした。

肉を焼きながらビールをごくごくと飲んでいる尚一郎はわりと合っている。
いつものセレブな感じより、こっちの方が好きなくらい。

「だいたい、おかしいと思わないかい?
新入社員の歓迎会に僕だけ誘われないんだよ?
僕だって新入社員だったのに」

尚一郎は怒っているが、さすがにそれは。

「えっと。
いくら新入社員でも、社長は誘いにくいんじゃ……?」

「もしかして朋香、僕がはじめから、社長だったとでも思っているのかい?」

「え?
違うんですか?」

ぱちくりとまばたきをした尚一郎に、朋香もぱちくりとまばたきをしてしまう。

どう見ても生まれたときから社長のような尚一郎にそれ以外が想像できない。

……いや、よく思い出すと以前、ひとりで営業に回っていたとか言っていたような。

「ちゃんと試験に通って入社したし、一般社員スタートだったよ。
確かに、昇進は人より早かったけど、オシベメディテックの社長になったのは二年前」

「え……」

待て待て待て、この人、普通に昇進してきたの?
もしかして、正真正銘のエリート?

「社長就任もCEOの反対があってずいぶん揉めて。
あれがなかったら、もっと早く社長になれてたんだけど」

「はあ……」

確かに、あの祖父がすんなり尚一郎をグループ会社の一企業とはいえ、社長に就けるはずがない。
それなりに苦労はあったんだろうとは思うが。

「尚一郎さんってほんとに凄いんですね……」

「惚れたかい?」

「ぜん、ぜん!」

熱い顔を誤魔化すように、ジョッキに残ったビールを飲み干すとさらに熱くなった。


店を出たら連絡もしてないのに高橋の運転するアウディが近くで停まった。
どうなっているのかは気になるが、知らない方がいい気がするので、気にしないことにする。

「今日は楽しかったよ。
また、連れてきてくれるかい?
朋香お勧めのお店」

酒が入っているせいか、尚一郎は酷く上機嫌だ。

「いいですけど、あんなお店ばかりですよ?
個室じゃないですし、今日みたいに、予約できないお店だって」

「いいんだよ。
普通の日本って知りたかったし、なにより、朋香の好きなお店に連れて行ってくれるのが嬉しい」

指を絡めて握られた手が、楽しそうに上下に揺れる。

こんなに喜んでもらえるなんて思ってなかった。
嫌でも付き合ってはくれるだろうとは予想していたが。

歓迎会に誘われなかったといまだに根に持ってるみたいだから、今度はカラオケとかにも誘ってみようかなどと考えていた。


せっかく、いい気分で屋敷に帰ったのに、待っていたのは嫌な知らせ。

「本邸からの使いがございました。
明日、昼食を一緒にせよ、とのことです」

帰ったとたんに野々村に告げられてげんなりした。
また、あの祖父母に会わなきゃいけないとか。

「あー、そろそろくるとは思ってたんだよねー」

ははははっ、力なく笑うと、尚一郎はがっくりと肩を落とした。

「朋香は来なくていいよ。
僕ひとりで行くから」

いい子いい子とあたまを撫でられると悲しくなる。

本邸に行くということは、尚一郎が酷く傷つけられるということだ。

「私も行きますよ。
……なにもできないですけど」

尚一郎を傷つけられるのは嫌だ。
なにもできなくても傍にいれば、少しは痛みを負担できるかもしれない。

「朋香まで嫌な思いをする必要はないよ。
それにこれは、かなり自業自得というか……」

「尚一郎さん?」

ちらりと悪戯がバレた子供のような視線を向け、誤魔化すようにあたまを撫でてくる。
少ししてはぁっと小さくため息を漏らし、尚一郎が言いにくそうに口を開いた。

「……CEOに贈り物をしたんだよね、このあいだは僕の妻が大変お世話になりました、って」

はぁっ、と今度は朋香の口からため息が漏れる。

なんで、そんな感情を逆撫でするようなことをするんだろう。

「なにを送ったんですか」

「……ビーフジャーキー。
最高級の」

火に油を注ぐような贈り物に、頭痛がしてくる。
それでなくても歯が弱くなっている老人に、さらには高血圧を悪化させる塩気のもの。

「どうしてそんなことをするんですか!
怒らせて当然ですよ!」

「だって、このあいだの件はだいたい、CEOが悪いんじゃないか!
わざわざあんな男を探してきて!
許せるわけないだろう!」

子供のように怒っている尚一郎に頭痛はさらに酷くなった。
いい年してむくれられても困る。

「確かにあのくそじ……じゃなくてお祖父さんには腹が立ちましたけど」

「朋香いま、くそじじぃって言ったね」

揚げ足をとって、おかしそうにくすくす笑う尚一郎をギロンと睨むと、ひぃっと小さく悲鳴を上げて小さく背中を丸めてしまった。

「……はぁーっ」

大きなため息が出る。
呆れてものも言えないというか。

「とにかく。
わざわざ怒らせるようなことをしないでください。
ああいう人は相手にしないのが一番なんですから」

「……朋香、まだ怒ってるかい?」

くぅーん、そんな声が聞こえてきそうな顔で、さらには上目遣いでおそるおそる見上げられ、怒りも半減する。
つくづく自分は、わんこモードの尚一郎に弱いと思う。

「もうしないって約束してくれるんだったら、許してあげます」

「約束するよ、もうしない。
……たぶん」

「たぶんってなんですかー?」

「ひぃっ」

地を這うような朋香の声に再び小さく悲鳴を上げた尚一郎は、クッションを抱いてがたがた震えている。

はぁっ、と本日何度目かのため息を小さく落とし、朋香は苦笑いを浮かべた。

「とにかく、もうしないでくださいね。
……それに、ちょっとだけ嬉しかったのも事実ですし」

機嫌を取るようにちゅっと尚一郎の頬に口付けすると、みるみる顔が輝いていく。

「しないしない、約束するよ」

朋香をぎゅーっと抱きしめ、ちゅっ、ちゅっとキスを落とし続ける尚一郎に、またこんなことになったら面倒だから、このあいだのような墓穴を掘るようなことはできるだけ避けようと誓った朋香だった。

「【完結】契約書は婚姻届」を読んでいる人はこの作品も読んでいます

「恋愛」の人気作品

コメント

コメントを書く