【完結】契約書は婚姻届
第7話 雪が溶けるときっと花が咲く3
ゆっくりと髪を撫でる手に目を開けたら、尚一郎が帰ってきていた。
「……尚一郎さん」
「ごめんね、朋香。
すぐに帰ってこれなくて」
尚一郎の手がそっと眉尻の傷にふれ、涙がまたこみ上がってくる。
もう瞼が腫れるほど、散々泣いたというのに。
「これくらいのことでって、崇之に叱られて……朋香?」
「尚一郎さん、尚一郎さん……」
尚一郎に抱き付くと、涙がとうとうぽろりと落ちた。
わんわん泣いている朋香に、尚一郎は困惑している。
「私、どうしたらよかったのかな。
雪也がこのままじゃ死んじゃうってわかってて、尚一郎さんと別れるって言えなかった。
私、雪也を殺したも同じだよ。
私、私……」
「朋香……」
ぎゅっと尚一郎に抱きしめられ、少しだけ安心できた。
泣きじゃくる朋香に、尚一郎はただ黙っている。
泣いて、泣いて、泣き疲れてぼーっとなったあたまで、尚一郎にもたれ掛かる。
尚一郎は膝の上に朋香を抱き抱え、ちゅっ、ちゅっとゆっくり、あやすかのように、つむじに、額に、瞼に、口付けを落とし続けた。
「朋香が気にすることはないんだよ。
全部、あの男の責任だ」
「でも、私が、尚一郎さんと別れさえすれば、雪也は」
尚一郎のいう通り、為替取引で失敗したうえにドツボにはまったのは雪也の責任だ。
けれど、自分は雪也を死なせずにすむ方法を知っていてそれを実行できないことは、朋香を苦しめる。
「やっぱり朋香は僕が思ってた通りの人間だね。
そういうところ、好きだよ」
嬉しそうにふふっと笑い、ちゅっと唇に口付けを落とした。
「朋香はもうひとつ、あの男を救う手段があるのに全然気付いてない。
Ich liebe solchen Sie sehr viel(そんな君が愛おしい)」
尚一郎はうっとりと朋香の髪を撫で、いつもよりも少しだけ長く口付けしてくる。
しかし、朋香には尚一郎がなにを言っているのかまったく理解できないでいた。
「朋香を苦しめる奴は絶対に許さない。
あの男も、CEOも」
「尚一郎、さん?」
一瞬、尚一郎が冷たい顔をした気がした。
けれど、すぐににっこりと笑って朋香の顔を見る。
「朋香はなにも心配しなくていいよ。
全部僕が片づけてあげる。
だから、安心していまは眠って」
「……はい」
瞼に落ちた口付けに目を閉じると、今日は気持ちが処理しきれないことがあったせいか、すぐに眠気が襲ってきた。
ふれ続ける、尚一郎の唇が心地いい。
「……Dieses Mal, absolut schutzen」
決意するかのように呟かれた言葉は、よく聞き取れないうえに意味がわからなかった。
聞き返そうにも穏やかに眠りへと包まれていく。
そのまま、朋香は安心してゆっくりと夢の世界に入っていった。
雪也と最後に会った後、すぐに携帯は解約され、新しいものに変わった。
たびたび変わる携帯番号は少し困るが、これは自業自得だから仕方ない。
あのあと、雪也がどうなったのかは気になるが、尚一郎に聞いていいのかわからなかった。
「とーもか」
休日、ご機嫌でケーキを食べさせていた尚一郎だが、朋香があまり食べないものだからフォークを置いて顔をのぞき込んでくる。
あれから、自分が雪也を殺したという思いから、朋香はふさぎがちになっていた。
「ちょっとドライブに出ようか。
どこか行きたいところはないかい?
高原の牧場でおいしいソフトクリームでも食べようか。
それともまた、温泉がいいかい?
日本人は温泉が大好きだよね。
僕も気に入ってるけど」
そんな気分にはなれなくて黙って首を振ると、困ったように笑った尚一郎はちゅっと朋香に口付けを落とした。
「とにかく、出かけよう。
いいだろ?」
なぜか出かけたがる尚一郎に、渋々うなずいた。
今日は高橋の運転ではなく、尚一郎自身が運転するのだという。
「たまには僕だって、運転したいからね」
いたずらっ子のように笑って尚一郎が出したのは、ガレージに停まっていた少し年式の古いポルシェ、カイエン。
「この車はね。
母が就職祝いに買ってくれたんだ。
営業もこれで回ってたし、いまでも大事にしてる」
「……そうなんですね」
珍しい家族の話に、いつもならいろいろ聞きたくて食いつくところだが、今日はどうでもよかった。
黙っている朋香に、尚一郎も黙っている。
しばらくして、唐突に尚一郎が口を開いた。
「あの、井上って男のこと、気にしてるのかい?」
黙ってうなずくと、はぁっと小さく、尚一郎がため息を漏らした。
「あの男は朋香を酷く傷つけたからね。
取り立て屋に借金を踏み倒して逃げるつもりだって……」
「なんでそんなことするんですか!?」
「と、朋香!?
危ないよ!」
思わず腕を掴んだ朋香に、ハンドルが取られ車が大きく右に寄る。
慌てて尚一郎はハンドルを切り、車を元に戻した。
「なんで!
なんでそんなことするんですか!
これじゃ、ますます……」
……自分が雪也を死に追いやったみたいだ。
泣きたくないのに涙はぼろぼろ落ちてくる。
「嫌い!
尚一郎さんなんてだいっきらい!」
怒って朋香がそっぽを向いてしまい、尚一郎は困った顔をして運転を続けている。
高速を降りて少し走り、車は牧場の駐車場に停まった。
「降りて、朋香」
「いや。
降りません」
頑なに降りることを拒否する朋香に尚一郎は、はぁーっと大きなため息をつき、まるで荷物かなにかのように朋香を肩の上に担ぎ上げた。
「やだ、下ろして!」
「いいから。
黙ってるんだよ」
牛舎の近くで、やっと尚一郎は下ろしてくれた。
しっと人差し指で唇を押さえられ、ふてくされて一緒にそっと、中を覗く。
「掃除、終わりました!
次はなにをしたらいいですか」
「じゃあ、干し草の準備をしてくれ」
「はい!」
そこできびきびと働いていたのは――雪也、だった。
「……あれ」
「うん?
だから、牧場においしいソフトクリームを食べに行こうって言っただろ?」
意味深に、尚一郎がぱちんとウィンクした。
言葉通り、ソフトクリームを買って近くのベンチに座った。
ラフな服装にプライベート用の黒縁眼鏡だと、案外、尚一郎もこういうところが似合ってる気がする。
「あの男は朋香に感謝するべきだね」
「えっと……」
朋香自身、雪也の命を助けるようなことはなにもしていない。
首を傾げる朋香を、尚一郎は楽しそうに笑っている。
「朋香が気付かなかった、もうひとつのあの男を救う手段を実行したんだ」
「そういえば前も言ってましたけど、他にあるんですか」
「朋香はほんとに、Reizend !(可愛い)」
ソフトクリームを食べ終わった尚一郎に勢いよく抱き付かれて、食べかけの朋香のソフトクリームが落ちた。
「……ごめん。
新しいの、買ってくるよ」
「……いえ」
ばつが悪そうに目を伏せられると、なにも言えない。
「じゃあ、帰りに美味しいケーキを買おう。
それで。
……朋香はね、僕にお願いすればよかったんだよ。
あの男を助けてください、って」
「あ……」
思いもつかなかった、尚一郎にそんなお願いをするだなんて。
けれど、たとえそれを思いついていたとしても、尚一郎にお願いすることはなかった気がする。
自分の、しかも元彼の問題の解決を、尚一郎に頼むなど。
「朋香が僕にお願いしてきていたらきっと、彼を助けなかっただろうね。
でも、朋香は少しもそんなことを考えなかったみたいだし。
朋香のそういうところはほんとに愛おしくて、……なんでも願いを叶えてあげようって思ったんだよ」
ちゅっ、嬉しそうに口付けされて恥ずかしくなる。
自分は尚一郎が思っているほど、いい人間じゃない。
隠れてこそこそと男と会って、浮気して。
だからこそ、もう二度と、尚一郎を裏切るようなことはしたくない。
「そりゃさ、僕の大事な朋香をこんなに泣かせて、苦しめて、文字通り傷つけた奴なんて、死ぬよりつらい目に遭わせてやろうとは思ったけどね」
尚一郎は笑っているが、冗談に聞こえないから怖い。
それに、やろうと思ったらできそうな気がするからなおさら。
「でも、そんなことしたら、もっと朋香が苦しむからね。
だから、金輪際、朋香に近づかないことを条件に、借金は全部片づけてあげた」
ふふっ、楽しそうに尚一郎が笑う。
褒めて、褒めて。
見えない尻尾がパタパタ振られてる。
「……ありがとうございます」
少しだけ悩んで、そっと尚一郎の頬に口付けした。
途端に、尚一郎が満面の笑みになった。
見えない尻尾はうるさいくらいに振られてる。
尚一郎にしてみれば、雪也を助ける義理も、なんのメリットもない。
むしろ、朋香を誘惑した悪人。
なのに、朋香のためだと助けてくれた。
尚一郎のそういうところは好きだと思う。
「……尚一郎さん」
「ごめんね、朋香。
すぐに帰ってこれなくて」
尚一郎の手がそっと眉尻の傷にふれ、涙がまたこみ上がってくる。
もう瞼が腫れるほど、散々泣いたというのに。
「これくらいのことでって、崇之に叱られて……朋香?」
「尚一郎さん、尚一郎さん……」
尚一郎に抱き付くと、涙がとうとうぽろりと落ちた。
わんわん泣いている朋香に、尚一郎は困惑している。
「私、どうしたらよかったのかな。
雪也がこのままじゃ死んじゃうってわかってて、尚一郎さんと別れるって言えなかった。
私、雪也を殺したも同じだよ。
私、私……」
「朋香……」
ぎゅっと尚一郎に抱きしめられ、少しだけ安心できた。
泣きじゃくる朋香に、尚一郎はただ黙っている。
泣いて、泣いて、泣き疲れてぼーっとなったあたまで、尚一郎にもたれ掛かる。
尚一郎は膝の上に朋香を抱き抱え、ちゅっ、ちゅっとゆっくり、あやすかのように、つむじに、額に、瞼に、口付けを落とし続けた。
「朋香が気にすることはないんだよ。
全部、あの男の責任だ」
「でも、私が、尚一郎さんと別れさえすれば、雪也は」
尚一郎のいう通り、為替取引で失敗したうえにドツボにはまったのは雪也の責任だ。
けれど、自分は雪也を死なせずにすむ方法を知っていてそれを実行できないことは、朋香を苦しめる。
「やっぱり朋香は僕が思ってた通りの人間だね。
そういうところ、好きだよ」
嬉しそうにふふっと笑い、ちゅっと唇に口付けを落とした。
「朋香はもうひとつ、あの男を救う手段があるのに全然気付いてない。
Ich liebe solchen Sie sehr viel(そんな君が愛おしい)」
尚一郎はうっとりと朋香の髪を撫で、いつもよりも少しだけ長く口付けしてくる。
しかし、朋香には尚一郎がなにを言っているのかまったく理解できないでいた。
「朋香を苦しめる奴は絶対に許さない。
あの男も、CEOも」
「尚一郎、さん?」
一瞬、尚一郎が冷たい顔をした気がした。
けれど、すぐににっこりと笑って朋香の顔を見る。
「朋香はなにも心配しなくていいよ。
全部僕が片づけてあげる。
だから、安心していまは眠って」
「……はい」
瞼に落ちた口付けに目を閉じると、今日は気持ちが処理しきれないことがあったせいか、すぐに眠気が襲ってきた。
ふれ続ける、尚一郎の唇が心地いい。
「……Dieses Mal, absolut schutzen」
決意するかのように呟かれた言葉は、よく聞き取れないうえに意味がわからなかった。
聞き返そうにも穏やかに眠りへと包まれていく。
そのまま、朋香は安心してゆっくりと夢の世界に入っていった。
雪也と最後に会った後、すぐに携帯は解約され、新しいものに変わった。
たびたび変わる携帯番号は少し困るが、これは自業自得だから仕方ない。
あのあと、雪也がどうなったのかは気になるが、尚一郎に聞いていいのかわからなかった。
「とーもか」
休日、ご機嫌でケーキを食べさせていた尚一郎だが、朋香があまり食べないものだからフォークを置いて顔をのぞき込んでくる。
あれから、自分が雪也を殺したという思いから、朋香はふさぎがちになっていた。
「ちょっとドライブに出ようか。
どこか行きたいところはないかい?
高原の牧場でおいしいソフトクリームでも食べようか。
それともまた、温泉がいいかい?
日本人は温泉が大好きだよね。
僕も気に入ってるけど」
そんな気分にはなれなくて黙って首を振ると、困ったように笑った尚一郎はちゅっと朋香に口付けを落とした。
「とにかく、出かけよう。
いいだろ?」
なぜか出かけたがる尚一郎に、渋々うなずいた。
今日は高橋の運転ではなく、尚一郎自身が運転するのだという。
「たまには僕だって、運転したいからね」
いたずらっ子のように笑って尚一郎が出したのは、ガレージに停まっていた少し年式の古いポルシェ、カイエン。
「この車はね。
母が就職祝いに買ってくれたんだ。
営業もこれで回ってたし、いまでも大事にしてる」
「……そうなんですね」
珍しい家族の話に、いつもならいろいろ聞きたくて食いつくところだが、今日はどうでもよかった。
黙っている朋香に、尚一郎も黙っている。
しばらくして、唐突に尚一郎が口を開いた。
「あの、井上って男のこと、気にしてるのかい?」
黙ってうなずくと、はぁっと小さく、尚一郎がため息を漏らした。
「あの男は朋香を酷く傷つけたからね。
取り立て屋に借金を踏み倒して逃げるつもりだって……」
「なんでそんなことするんですか!?」
「と、朋香!?
危ないよ!」
思わず腕を掴んだ朋香に、ハンドルが取られ車が大きく右に寄る。
慌てて尚一郎はハンドルを切り、車を元に戻した。
「なんで!
なんでそんなことするんですか!
これじゃ、ますます……」
……自分が雪也を死に追いやったみたいだ。
泣きたくないのに涙はぼろぼろ落ちてくる。
「嫌い!
尚一郎さんなんてだいっきらい!」
怒って朋香がそっぽを向いてしまい、尚一郎は困った顔をして運転を続けている。
高速を降りて少し走り、車は牧場の駐車場に停まった。
「降りて、朋香」
「いや。
降りません」
頑なに降りることを拒否する朋香に尚一郎は、はぁーっと大きなため息をつき、まるで荷物かなにかのように朋香を肩の上に担ぎ上げた。
「やだ、下ろして!」
「いいから。
黙ってるんだよ」
牛舎の近くで、やっと尚一郎は下ろしてくれた。
しっと人差し指で唇を押さえられ、ふてくされて一緒にそっと、中を覗く。
「掃除、終わりました!
次はなにをしたらいいですか」
「じゃあ、干し草の準備をしてくれ」
「はい!」
そこできびきびと働いていたのは――雪也、だった。
「……あれ」
「うん?
だから、牧場においしいソフトクリームを食べに行こうって言っただろ?」
意味深に、尚一郎がぱちんとウィンクした。
言葉通り、ソフトクリームを買って近くのベンチに座った。
ラフな服装にプライベート用の黒縁眼鏡だと、案外、尚一郎もこういうところが似合ってる気がする。
「あの男は朋香に感謝するべきだね」
「えっと……」
朋香自身、雪也の命を助けるようなことはなにもしていない。
首を傾げる朋香を、尚一郎は楽しそうに笑っている。
「朋香が気付かなかった、もうひとつのあの男を救う手段を実行したんだ」
「そういえば前も言ってましたけど、他にあるんですか」
「朋香はほんとに、Reizend !(可愛い)」
ソフトクリームを食べ終わった尚一郎に勢いよく抱き付かれて、食べかけの朋香のソフトクリームが落ちた。
「……ごめん。
新しいの、買ってくるよ」
「……いえ」
ばつが悪そうに目を伏せられると、なにも言えない。
「じゃあ、帰りに美味しいケーキを買おう。
それで。
……朋香はね、僕にお願いすればよかったんだよ。
あの男を助けてください、って」
「あ……」
思いもつかなかった、尚一郎にそんなお願いをするだなんて。
けれど、たとえそれを思いついていたとしても、尚一郎にお願いすることはなかった気がする。
自分の、しかも元彼の問題の解決を、尚一郎に頼むなど。
「朋香が僕にお願いしてきていたらきっと、彼を助けなかっただろうね。
でも、朋香は少しもそんなことを考えなかったみたいだし。
朋香のそういうところはほんとに愛おしくて、……なんでも願いを叶えてあげようって思ったんだよ」
ちゅっ、嬉しそうに口付けされて恥ずかしくなる。
自分は尚一郎が思っているほど、いい人間じゃない。
隠れてこそこそと男と会って、浮気して。
だからこそ、もう二度と、尚一郎を裏切るようなことはしたくない。
「そりゃさ、僕の大事な朋香をこんなに泣かせて、苦しめて、文字通り傷つけた奴なんて、死ぬよりつらい目に遭わせてやろうとは思ったけどね」
尚一郎は笑っているが、冗談に聞こえないから怖い。
それに、やろうと思ったらできそうな気がするからなおさら。
「でも、そんなことしたら、もっと朋香が苦しむからね。
だから、金輪際、朋香に近づかないことを条件に、借金は全部片づけてあげた」
ふふっ、楽しそうに尚一郎が笑う。
褒めて、褒めて。
見えない尻尾がパタパタ振られてる。
「……ありがとうございます」
少しだけ悩んで、そっと尚一郎の頬に口付けした。
途端に、尚一郎が満面の笑みになった。
見えない尻尾はうるさいくらいに振られてる。
尚一郎にしてみれば、雪也を助ける義理も、なんのメリットもない。
むしろ、朋香を誘惑した悪人。
なのに、朋香のためだと助けてくれた。
尚一郎のそういうところは好きだと思う。
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