【完結】契約書は婚姻届

霧内杳

第7話 雪が溶けるときっと花が咲く1

「……はぁーっ」

家に帰り、ばたんとベッドに寝ころぶとため息が出た。

……私はいったい、どうしたいんだろう。

自分でもわからない、雪也とよりを戻したいのか、このまま尚一郎と結婚生活を続けたいのか。

 
結局、雪也にホテルに誘われたものの、断ってそのまま帰った。

次に会うときにちゃんと返事はする、そう約束はしたものの、そもそもそんな約束をしてよかったのかすらわからない。

それに、ホテルの誘いを断ったからといっても、雪也とキスをしたことは事実。

いままでは友達と会っているだけだと自分に言い訳ができていたが、もうそれもできない。

「もし、尚一郎さんと別れたら、お父さんの工場はどうなっちゃうんだろう……」

雪也は裕福な暮らしは約束すると言っていたが、そんなことはどうでもいい。
生活に困らないほどの稼ぎがあれば問題ないし、自分だってそうなればまた、働きに出る覚悟はある。
けれど、この結婚は明夫の工場存続のためのものなのだ。

きっと、好きな人と一緒になりたいから尚一郎と別れたいと言っても、有森をはじめ、工場の人間は朋香を責めたりしないだろう。

しかし、それでオシベとの契約を切られ、工場が潰れたとなれば……罪の重さに耐えられる気がしない。

「だいたい、私は尚一郎さんのこと、どう思ってるんだろう……」

契約結婚から始まったこの関係は、戸惑うことばかりだった。

尚一郎に理由もわからず溺愛され、いまだにどうしていいのかわからない。

ただ、当初ほどの居心地の悪さはない。
むしろ、尚一郎から可愛がられるのは……嬉しい。

でも、それが好きということかと聞かれると、違う気がする。

その反面、雪也とキスして浮気したことに後ろめたさを感じるくらいには気になっている。

自分でも、よくわからない。

かといって、雪也が好きかと言われるとそれはない気がする。
確実に朋香の中では雪也とは終わっていた。
だから、キスしてもなにも感じなかった。

「どーしよー」

ぐるぐる悩んでいるうちに時間はたっていく。
そのうち、一階でロッテがワンワン鳴いている声が響いてきて、尚一郎が帰ってきたことを知らせた。
のろのろとベッドから起きあがり、一階に降りる。

「ただいま、朋香」

「……おかえりなさい」

ちゅっ、といつも通りキスをして、尚一郎は心配そうに朋香の顔を見た。

「なにかあったのかい?
元気がないようだけど」

「なんでもないですよ」

「そう?」

慌てて笑って誤魔化す。
尚一郎が小さくふふっと笑った気がした。

夕食の最中も後ろめたさから、なんとなく目を合わせられなかった。

終わって、いつものようにリビングで、膝の上に乗せられて座る。

「そういえばこのあいだ、義実家に食洗機を贈ったんだ。
家事が楽になればいいと思ってね。
朋香はもう見たんだろう?
どうだった?」

「あっ、えっと」

言えるわけがない、実家に帰ったことがないから知らないなど。

「どうしたんだい?
もしかして、サイズが合わなかったかい?
……なんてね」

頬を撫でた尚一郎の目が、すーっと細くなった。
唇は薄く笑っているのに、レンズの奥の目は少しも笑っていない。
自分に向けられる、ふれると切れそうなほど鋭利な視線に、背筋にぞくりと冷たいものが走った。

「知らないと思ってるのかい、朋香が一回も実家に帰ってないこと」

くるくると尚一郎の指先が朋香の毛先を弄ぶ。
それはいつもの可愛がるものと違って、まるで――どうやってなぶろうか、そう考えているかのようだった。

「今日も出かけていたようだけど、どこに行ってなにをしていたんだい?」

じっと尚一郎に見つめられ、蛇に睨まれた蛙のように視線を逸らせない。
じわじわと冷たい汗が滲んでくる。
喉はからからに渇き、ごくりと音を立ててつばを飲み込んだ。

「カラオケに行ってました」

「確かに、カラオケには行ったようだね。
GPSの場所はそこだった。
……でも、ひとりじゃないだろう?」

硝子玉のように、感情の見えない尚一郎の目が怖かった。
愉しそうにうっすらと笑っているのも。
静かに冷気を漂わせる尚一郎に、知らず知らず身体が震える。

「……ひとり、でした」

精一杯虚勢を張って、雪也といたことは隠す。

……けれど。

「……嘘つき」

耳元で囁かれた冷たい声に、一瞬で心臓が凍り付いて止まった。
離れた顔をおそるおそる見上げると、愉しそうに笑っている。
ばくばくと速い鼓動に、心臓は暴発しそうだった。

「こい!」

膝の上から朋香を突き落とし、引きずるように尚一郎は手を引っ張る。

「僕が知らないとでも?
朋香の携帯にはGPSをつけてあるし、ひとりで外出するようになってからは、シークレットサービスだってつけてある」

「や、やだ!」

嫌がっても手首を痛いくらいに掴んだまま引き摺って尚一郎は階段を上がり、バン! と乱暴に朋香の部屋のドアを開けた。
部屋の中に入り思いっきり朋香をベッドに突き飛ばす。

「毎回、あの、井上とかいう男と会っていたんだろう?」

「ひぃっ」

するりと頬を撫でられ、思わず小さく悲鳴が漏れる。

「それだけでも許せないのに、今日はキスまでしたんだろう?」

尚一郎の手が、朋香の両手をベッドに縫い止める。
迫ってきた顔に、拒否するように朋香が顔を逸らせると、尚一郎は片手で朋香の両手をまとめて押さえ直した。
空いた手が朋香の頬を潰すようにぎりぎりと掴み、まっすぐ尚一郎の顔を見させる。

「朋香は僕のものだ。
絶対に誰にも渡さない」

再び迫ってきた顔が怖くて、目を閉じてしまう。

重なった唇。

いつもは軽くふれるだけなのに、今日は角度を変えて深く交わろうとする。
堅く唇を閉じ、拒否していた朋香だったが、顎にかかった親指に唇を無理矢理開かされ、強引に舌をねじ込まれた。
ばたばたと暴れて抵抗しようとしても、容易に上から尚一郎に押さえ込まれてしまう。

呼吸さえ許さない乱雑なキスはひたすら苦しくて、目からは涙がこぼれ落ちた。

「はぁっ、はぁっ、……やっ、やめっ」

唇が離れ、失った酸素を求めるように呼吸をしていた朋香のブラウスを、尚一郎の手が引き裂いた。

ぶちぶちとボタンが飛んでいく。

怯える朋香にかまわずに、尚一郎はその首筋に唇を這わせる。

「や、やだぁ。
やめ、やめて、くだ、ひっく、くだ、さい……」

まるで幼子のように泣き出した朋香に、ぴたっと尚一郎の動きが止まった。
ゆっくりと顔を離し、上からつらそうな顔で朋香を見下ろしてくる。

「……朋香?」

そっと頬にふれた手に、びくりと身体を震わせてしまう。
怯えて、ひっくひっくと泣き続ける朋香に尚一郎ははぁーっと大きなため息を落とすと、身体を離した。

「ごめん、朋香」

少し離れてベッド端に座り直して、尚一郎はがっくりとうなだれた。

「ちょっとあたまに血が昇りすぎてた。
ごめんね、朋香」

こちらを窺う、泣き出しそうなその顔に、胸がずきんと痛んだ。
謝るのは尚一郎じゃない、……自分の方。

「お願いだから僕をひとりにしないで。
朋香が僕を好きになってくれなくたっていい。
でも、嫌いにならないで。
ひとりにしないで」

その寒そうな背中にそっとふれると、びくんと揺れた。
頬をつけて寄り添えば、とくんとくんと心臓の音が響く。
その音は心細そうで、心臓がぎゅうぎゅうと締め付けられる。

「ごめんなさい。
私は嘘をつきました。
尚一郎さんに内緒で、男の人と会ってました。
キスだってしました。
許して、なんて言えないけどっ……」

泣く資格なんてないのはわかってるのに、涙は勝手に流れていく。

こんなことならキスなんてしなければよかった。
尚一郎を傷つけるのが、こんなに苦しいなんて知らなかった。

でも、後悔しても遅い。
無かったことにしたくても、もうできない。

浮気されて傷ついてるのは尚一郎なのに、その顔を見ると自分が傷ついたみたいに胸がずきずきと痛む。

「ごめんなさい、ごめんなさい、もうしません、許してください……」

みっともなく、悪いことがバレて許しを乞う子供のようにわんわん泣いた。
尚一郎はさっきからずっと黙っている。

……もしかして、もしかしなくても離婚かな。

尚一郎が大事だと気付いた途端に別れるのはつらい。
でも、悪いのは自分だ。

「泣かないで、Meinマイン Schatzシャッツ

振り返った尚一郎が、そっと両手で朋香の顔を挟んだ。
ちゅっ、ちゅっ、尚一郎の唇が、朋香の涙を拭っていく。

「反省、したんだろう?
なら、もう同じ過ちを繰り返さなきゃいい」

「……はい」

ちゅっ、額に口付けを落とすと、酷く落ち込んだままの朋香に尚一郎は困ったように笑っていた。

「じゃあ、約束をしようか」

「約束、ですか?」

首を傾げると、ふふっとおかしそうに笑った尚一郎がまた、ちゅっと口付けを落としてくる。

「そう、約束。
もう嘘はつきません、って。
日本では指切り?
するんだろう?」

差し出された小指に自分の小指を絡めると、なんだかおかしくてくすりと笑いが漏れる。

「えーっと、なんだっけ」

「指切りげんまん」

レンズの奥の碧い瞳と目が合うと、おかしそうにくすりと笑った。

「そうそう。
指切りげんまん、嘘ついたら……そうだな。
朋香を一生、檻に閉じこめて、僕だけしか見られないようにしてあげる」

にっこりと笑った尚一郎は瞳の奥がぜんぜん笑ってなく、……絶対に嘘はつかない。

そう、固く誓った朋香だった。

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