【完結】契約書は婚姻届

霧内杳

第2話 玉の輿じゃないかな2

部屋に戻りスーツケースを出して身の回りのものを詰めていった。
なにを持って行っていいのかわからないが、足りないものはあとで取りに帰らせてもらえるのだろうか。

そんなことを考えると急に不安になってくる。

みんなの前では玉の輿だとか冗談めかして笑ってみせたが、不安がないわけじゃない。
反対に不安だらけだ。

でも、自分で決めたことだから。

朋香は自分に言い聞かせ、最後に家族の写真を入れてスーツケースを閉めた。


風呂から上がると仏間から話し声が聞こえる。
そっとのぞいてみると明夫が和子の写真に話しかけていた。

「ごめんな、母さん。
俺、朋香を約束通り、幸せにしてやれなかった」

写真の和子は明夫に笑いかけるばかりでなにも話さない。

「でも、朋香が押部社長と結婚するって言ってくれて、ちょっとほっとしてる。
これで工場は救われるって。
みんな、路頭に迷う心配はないって。
……父親として失格だよ」

ずずっ、僅かに鼻をすする音が聞こえた。
どうも明夫は泣いているようだ。

「洋太が怒るのもよくわかる。
朋香が冗談言って強がってるのわかってる。
でも、どうしていいのかわからない。
……わからないんだ」

和子の写真に泣いている明夫に、そっと襖を閉めた。
明夫の気持ちが痛かった。



翌朝、朋香が起きると既に洋太は家を出ていた。

せめて、最後の弁当くらい持たせたかったのに。

仲直りができないまま、家を出ることになるのかと思うと心が重い。

明夫から朋香は、今日はもうなにもしなくていいとは言われたが、勤めて三ヶ月とはいえ急に辞めることになるのだから、引き継ぎもある。
それに、なにかしていないと気が紛れない。

十時を過ぎた頃、困惑気味の事務の女性から内線がかかってきた。
『朋香さんに、その、押部社長からお電話です』

「はい」

今日、迎えに来ると言っていたので、その件だろうと電話を取ったものの。

Meinマイン Schatzシャッツ!』
 
――ガチャン。

思わず思いっきり受話器を置いていた。

昨日はなにを言われたのかわからなかったが、調べてみるとドイツ語で、英語でいうところの“マイハニー”って奴だと知ってげんなりした。

あまりに音が大きかったのか、何事かと明夫がこちらを見ている。
我に返ってまずいことをしてしまったと思ったが、すぐにまた内線が鳴り出した。

「はい」

『朋香さんに、あの、押部社長からお電話です』

「はい」

一度、今度は大きく深呼吸してからボタンを押す。

『酷いな、朋香。
いきなり切るなんて』

「すみません、なんだかとても不快なことを言われたので」

『不快なこと?
僕はなにか言ったかな?』
 
電話の向こうから楽しそうにくつくつと笑う声がする。
十も年上となると、なにを言っても簡単に手のひらの上で転がされているみたいで、腹が立つ。

「それで?
ご用件は?」

『つれないな、Mein Schatzは。
これがツンデレって奴かい?』
 
くつくつと笑い続ける尚一郎にため息しか出てこない。

『そうそう。
今晩はお義父上や弟さんはお暇かな?
みんなで食事をしたいと思うんだけど』

「父は大丈夫だと思いますが、弟は知りません。
連絡は取ってみますが」

『わかった。
じゃあ、五時頃、会社の方にお伺いするよ』
 
上機嫌なままの尚一郎とは違い、電話を切った朋香の口からは大きなため息が落ちた。

「朋香、押部社長はなんだって?」

おそるおそる、明夫が聞いてくる。
気づけば、朋香の眉間には深いしわが刻まれていた。
誤魔化すように笑って答える。

「今晩、家族で一緒に食事をしましょうって。
洋太にも連絡しとくね」

「そうか。
……朋香。
改めて礼を言う。
おまえのおかげでみんな、やっていける。
おまえを犠牲にするなんて、父親として、経営者として失格なのはわかってる。
本当にすまない」

「お父さん……」

明夫の背中が急に小さくなった気がした。



五時ぴったりに尚一郎はやってきた。

「工場に来るのは初めてですね。
もっと早く来るべきだった」

明夫の案内で工場内を見て回りながら、尚一郎はしきりに感心している。

朋香も一緒に連れ回された。
改めて説明をされると知らないことも多く、この工場を守ってよかったと思う。

尚一郎の一行が通り過ぎるたび、皆はあたまを下げるのものの、ほとんどが憎々しげに見ていた。

けれど尚一郎はそんな様子を気にする素振りは見せない。

「やはり、若園製作所さんの技術はすばらしいものです。
無理を通してよかった」

「無理、とは?」

尚一郎の言葉が引っかかった。
明夫も同じだったようで問うと、笑顔で誤魔化してきた。

「なんでもないです。
ほら、行きましょう」

強引に進む尚一郎を慌てて追いかける。
きっと気のせいだと、このときは片づけた。

お義父さんにプレゼントがあるんです、そう言われて工場を出ると、駐車場に見たことのない外車が二台停まっている。
一台は尚一郎のものだと思われるが。

「お義父さんにプレゼントです。
ぜひ、使ってください」

「えっ、あっ」

キーをその手にのせられて明夫はわたわたしている。

一介の町工場の社長には不釣り合いな、高級外車。
しかも、どこで調べたのか以前から明夫が、
「あんな車を乗り回してみたい」
と冗談混じりに言っていた車種。

「あの、こういうのは、その」

「押部社長。
こういうことは」

「いけないかな、朋香?
息子からのプレゼントなんだけど。
お義父さんは受け取っていただけませんか?」

「いえ、そんな!」

しゅん、悲しげに表情を歪ませてしまった尚一郎に、気分を害されてしまっては大変だとばかりに、大慌てで明夫が取り繕った。

「じゃ、じゃあ、お言葉に甘えて」

「ありがとうございます。
とりあえず、座ってみませんか?」

ぱっと顔を輝かせた尚一郎に、明夫は戸惑いながら受け取った鍵でドアを開け、シートに座った。

「おっ、これは」

最初はあきらかに困惑していたが、元々欲しかった車とだけあって、次第に明夫は興奮していく。

「いいですな、これは」

「お父さん」

小さな声で朋香がたしなめられ、明夫は険しい顔を作ったものの、そこには残念だとはっきりと書いてあった。

そんな明夫に朋香ははぁっと小さくため息を落とした。

「とにかく。
こんな高価なもの、いただけませんから」

「どうしてもダメかな、朋香?」

叱られた子供のようにいじけてしまった尚一郎に驚いた。
オシベの社長といえば不遜で傲慢、そんなイメージでこんな顔をするなんて想像できなかったから。

「……じゃあ、今回限りということで。
今後、こういうことは困りますから」

「今回はいいんだね」

「はい」

ぱっと俯いていた顔を上げた尚一郎は、まるで大型犬、それも細身の……ボルゾイがしっぽを振っているように見えて、思わずくすりと笑ってしまい、朋香は顔が熱くなる思いがした。

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