【完結】契約書は婚姻届

霧内杳

第1話 契約続行の条件は社長との結婚!?1

明日の会議の茶菓子はなんにしよう、若園わかぞの朋香ともかがのんびりとそんなことを考えていると、騒がしい足音ともにその知らせは舞い込んできた。

バン! 耐久性など無視して勢いよく開いたドア。
ドタバタと慌てて入ってきた男――西井にしい陽一よういちはそのままの勢いで部屋の奥にある社長の机まで詰め寄ると、ダン! と思いっきり机を叩いた。

「社長!
ちょっと小耳に挟んだんですけど!」

「……なんだ?」

とうに五十も半ばを過ぎた社長の若園明夫あきおは西井の剣幕に若干怯えていた。

「オシベ!
うちとの契約を打ち切る予定だって!」

「はっ!?」

勢いよく立ち上がった明夫に椅子が危うく倒れそうになったが、すんでのところで持ち直す。
ほっと胸をなで下ろした朋香だったが、問題はそこではない。

オシベが契約打ち切りって?

オシベというのは医療関係で幅広く展開しているオシベグループのことだ。
朋香の父である、若園明夫が経営する若園製作所はそこのグループ会社の一つ、オシベメディテックにペースメーカー専用の特殊なネジを主に卸している。

「その話は本当なのか?」

「いや、ほかの得意先で、噂として聞いたんですけど」

明夫も西井も動揺を隠し切れない。

オシベとの契約打ち切りとなると、下手すると会社は倒産の危機。

大げさな、と思うかもしれないが、オシベとの契約はそれほどに大事なものなのだ。

確かに、オシベに卸しているネジは若園製作所の売り上げを一番占めている。

が、これがなくなったところで即倒産、というほどではない。
危惧すべきはオシベに契約を切られることによって、ほかの得意先が離れていくこと。

あのオシベが契約している会社イコール、品質も経営もいいとのお墨付きも一緒。
それがなくなれば、得意先離れが起きないとは言い切れない。

「噂、なんだろ。
ただの」

「いや、それがあながち、嘘とは言い切れなくて……」

西井が聞いてきた話によると、ほかの会社で若園と同じようなネジがより安価で製造できるようになり、オシベはそちらに乗り換えるというのだ。

「同じようなネジっていったって、あれはうちにしかない技術なんだぞ」

椅子に座り直し、両肘をついて組んだ手に額をつけた明夫から、はぁーっ、大きなため息が落ちる。

若園製作所はそれこそ、社員は三十人に満たない小さな町工場だが、ネジを作る技術だけはどこにも負けないと自負している。
現に作ったネジはロケットにだって使われている。

「そうなんですけど。
俺も実物見たわけじゃないですし」

不服そうな西井だが、確かにオシベが契約を打ち切るなどという噂を聞けば冷静ではいられないだろう。

「とにかく。
オシベに確認してみる。
朋香、川澄かわすみ部長にアポイント取ってくれ」
「はい」

まさかこれがあんなことに発展しようとは、この時点で誰も想像していなかった。



朋香が父親の工場である、若園製作所で働き始めたのは致し方ない事情からだった。
つい半年ほど前、大学を卒業して四年勤めた会社を辞めたから。

別に会社に不満があったわけじゃない。
いまどきブラック企業でもなく、残業は程々、休日出勤も滅多にない。
給料もまあ不満がない程度には出ていたし、ボーナスだってあった。

会社自体には不満はなかったが、同じ会社で二つ年上の彼氏、吉田よしだ亮平りょうへいが歓迎会の翌日、新入社員の淡島あわしま桃子ももこと一緒に出社してきた。
亮平は前日と同じスーツにネクタイで、一目でなにがあったのか察しがつく。

「誤解だ」

終業後、誤解を解きたいとなぜか三人できたコーヒーショップ。
向かい合う朋香の正面に座る亮平に、隣に座る桃子は手を握ってべったりとくっついている。
これで誤解もなにもないだろう。

「俺は淡島を送っていっただけ、で」

「泊まったんだよね」

「終電なくなってたから!
でも、泊まっただけでなにも!」

「へー」

焦っている亮平が白々しくて、ずずっと冷たいアイスコーヒーを飲むとあたまがさらに冷えた。

「亮平くーん。
今日も桃子のおうちにお泊まりする?」

「ちょっ、桃子、黙ってろ」

張り付く桃子を引き剥がしてみせる亮平だが、あきらかに鼻の下が延びている。
桃子がちらりと勝ち誇った視線を投げてきて、完全に気持ちが醒めた。

こんな、男のことしかあたまにない女に引っかかる亮平も亮平だと思うし、そんな亮平を好きだった自分も莫迦だと思う。

「あー、はいはい。
おふたりでお幸せにねー」

「待て、話はまだ」

亮平はまだなにか言いたげだが、つまらない言い訳をこれ以上聞く気もなくて、無視して店を出る。

翌朝、出社と同時に、上司に退職願を出した。
亮平にも桃子にも、顔を合わせるのが嫌になるほど、嫌気が差していたから。

同僚は亮平が悪いんだから朋香が辞めることはないと止めてくれたが、聞かなかった。

考えなしで辞めたことは後悔しないでもないが、あのままふたりと同じ空気を吸っているのはやはり自分には我慢できなかったので、これでよかったのだと思う。

すぐに就職活動は始めたが、なかなか見つからない。
三ヶ月ほど過ごした頃、父親がとうとう痺れを切らした。

「おまえ、仕事は決まらないのか」

「あー、うん」

少しずつ減っていく貯金に焦りも出始めている。

こんなことならあんなつまらないことで辞めなきゃよかった、そんな後悔があたまを掠める。

「それなら俺の秘書でもしろ」

「は?」

わけがわからなくてまじまじと父親の顔を見ると、苦笑いされた。

「おまえ、秘書検定二級だっけ?
持ってただろ。
小遣い程度には給料も出してやる」

「あー」

きっと、父なりに気を使ってくれているのだと思う。
亮平とはそろそろ結婚とか考えていて、家族に紹介していた。
さらには仕事が決まらないことへの焦り。
素直に口には出さないが、父の気持ちが嬉しかった。

「わかったー」

それ以来、朋香は父親で若園製作所社長の、明夫の秘書のまねごとをしているのだ。

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