翼が無ければ鳥でない

櫻井広大

八月二十二日  Ⅲ

 家の玄関の戸口の前には、予想通り≪アイツ≫がいた。白Tシャツの上に羽織っているシャツは、着古したせいなのか随分と色が落ち、黒と鼠色の中間の色合いをしていた。
 ガレージに母の車はなく、まだスーパーで商品の陳列をしている時間帯だった。しかし男は、ガレージに車がないのは自分を騙すための細工だと疑っているのか、そこから立ち去ろうとはせず、インターフォンを数回連打した後、戸口に背を向け爪をかじり、また連打するという不可解な行動を繰り返していた。時折、耳までかかるウェーブした長髪を触ってみたり、軽く日焼けして茶に変色したてっぺんを掻いてみたりという動作も見られたがごく稀で、二パターンの行動のみ録画したビデオが繰り返し再生されているようだった。
 友和といえば、いかにも友達を待っています、という感じで家から少し離れた位置にある電柱に寄りかかっていた。男は一度こちらを訝しげに睨んだが、ただスマホをいじっているだけだと分かると、警戒心剥き出しの目はすぐに逸れていった。彼の目はそのまま近所に住む住民や、遠くから聞こえる車のエンジン音に向けられ、過剰なまでに怯えているようにも感じられた。鋭くガン飛ばす男が玄関前で突っ立っていたら、警察に通報されるのも時間の問題だ。本人はそれが痛いほど分かるからか次第にソワソワし始め、貧乏揺すりが止まらなくなった。インターフォンを押す頻度も増えていき、視線はさらに厳しくなっていった。
 しかしそんな厳しくみえるセンサーは死角だらけだった。灯台下暗し、とでもいうのだろうか、友和が堂々とスマホのカメラで録画していても全く気づかない様子だった。録画時間は既に十分をゆうに超え、そろそろ腕の方が限界を迎えそうだ。ブレがひどく、歯を食いしばってそれを抑えようとするも改善されず、むしろじっとりとした汗を拭いたい衝動に駆られるだけだった。結局耐えきれず録画をストップさせた。
 十四分三十九秒。一部始終をすぐさま母の携帯へ、≪ヤツ発見≫というメッセージと共に送った。勤務中だと分かっていたので既読がつかないのは当然だった。≪予想的中!≫とも送ろうとしたが、気が引けて止めた。
 予想的中といえば聞こえはいいが、昨晩、ヤツから電話をかけてきたのを盗み聞きしただけだった。案件は、用途不要の一五〇〇万円のうち五〇〇万円を肩代わりすることについて。方法は、月一〇万円を封筒に入れ手渡しする。日時は明日の夕方。時刻は未定。母の険しい口調からして、内容はこんなもんだろう。勿論、母は初めから交渉に応じる気はなく、「明日は仕事だから夕方は無理」と伝えなかったのも、ヤツと鉢合わせになりたくなかったからだ。十年以上も前の元旦那、それもホームレス同然の男と会うのを嫌がるのは当たり前のことだった。それに加えて大金を貸してくれなんて来られたら、反吐が出るどころでは済まないだろう。警察に通報すれば対応はしてくれるだろうが、母も友和も警察と関わりたくなかった。いや、万が一それがヤツに伝わったら、何をしでかすか分からないから助けを求めることができない。今、近所の人が警察に通報し、男に事情聴取するなり何なりするのが一番安全かつ手っ取り早い。もう顔がバレているのだから、ヤツはここ周辺に来るのを恐れるはずだ。
 そんな友和の心境が伝わったのだろうか、それとも最悪の事態———警察のパトカーがやってくることを恐れただけなのか、男はかじっていた爪先を人差し指でやすりがけをしてから、安っぽい木造賃貸住宅が立ち並ぶ通りを走り去った。
 まだ母のLINEは既読が付かない。帰ってくるのは六時ぐらいかなと考え、男が走っていった方向とは真逆の方へ歩き出した。
 
 

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