翼が無ければ鳥でない

櫻井広大

八月二十二日  Ⅱ

 かおり特製プラスチックハンバーグを食って、居間リビングで録画してあったかおりのお気に入りの教育番組を観て、スナック菓子と冷えた麦茶を堪能していると帰る時刻に差し掛かっていた。
 また今日も一日が過ぎていく。かおりと遊んだ日ならではのその感慨は特別だ。大人と比べて成長の度合いが違いすぎるかおりと生活の一部を共有したせいだろう。かおりの一日には、大人が何日間にわたって経験する発見や驚きを何倍にも濃縮し、ありとあらゆるモノが学習すべき要素として満ちている。同じ一分を過ごしていても、かおりの一分は大人にとっての数十分と同等の、もしくはそれ以上の価値があるのだ。
 どれほどくだらなく時間を消費しても明日があるさと軽視する大人の一日とは異なる代物の、明日では補うことのできない貴重な一日をかおりと共に生きたのだから、友和にとっての今日も貴重であるはずだ。そう振り返ってみれば人生の目的っていうやつは自分のために生きるよりも、かおりのために生きるとした方が意味があるのかもしれない。
 別れ際にしては幾分か気持ちが楽になり、かおりが促さないこともあって外では遊ばなかった。いつものように軽い口笛を披露するとかおりが喜び、友和は帰りなくないという心境をより強くするのが常だったが、今日はなぜか違う。いや、帰りたくないという本心はあるものの、気分的な負担は軽症だった。
 この気分は映画を見終わった後、算段通りカフェで批評しあって、帰り道に何気ない風を装って「付き合おう」とユリカに告白したあの日の気分に近い。得体の知れない、ただそれだけが確かな何かが吹っ切れたせいか、ユリカを思い出したせいかは分からなかった。あるいはかおりの誕生日を明日に控えた今日、改めてある覚悟を決めたせいかもしれない。ユリカを守れなかった分、今度こそかおりだけは守るという覚悟は、しかし、自信のないものだった。
 ニ回目のリストカットをし、ユリカが友和に泣きついてきた時「自分が守るんだ」と覚悟を決めたその一週間後、包帯の下の薄い皮に果物ナイフを向け、ユリカは死んだからだ。覚悟を決めた直後に、大事な人を失ってしまうのだろうか、という不安に襲われるからだ。人づてに聞いた、ユリカのほとばしった鮮血が白い天井をドス黒い赤で染め、滴り落ちている光景がうっすらと蘇ったのが呼び水となり、友和の手で頭をポンポンされているかおりがいることに安堵して、家路を急いだ。
 濃厚な卵黄をそのまま空に浮かばせたような陽を見ると、昼と夕との差が顕著になってきたな、と実感する。日中の残暑は申し訳程度に和らいだだけだが、それでも熱帯夜はめっきり減り、半袖では肌寒いくらいだ。
 自転車にまたがり三台並ばせたまま友和の脇を小学生がかすめていった。ギア変速がない自転車なのか、三人とも頼りないチェーンを盛大に回転させて、誰が速いか競い合っているようだった。ペダルの回転数の割には加速が緩やかで、抜きん出ている者がいない代わりに遅れを取っている者もいない。仲良く一直線の平衡を保ったまま、陸橋下の角を左へ曲がって消えた。
 思い返せば小学生時代に遊んだ相手は優流しかいなかった。一つ年下の彼とはよく馬が合い、桜が咲く陽気な日も、太陽が照りつける猛暑日も、地面の木の葉が年老いていく寂寥の日も、呼吸をする度に肺に突き刺さる冷気を感じる日も、とにかく走り回れるだけ走った覚えがある。春夏秋冬と季節の場面が変わっても隣にいる人間は変わらなかった。しかし不思議と飽きというものはなく、食卓に白米がついてくるのと同様、無くては微妙な気分になる、そんな関係性。友和が中学に上がるのを境に遊ぶのを卒業したが、完全に関係を断ち切ってはいなかった。一月あたり一回の頻度でLINEやら電話やらで会話する程度だが。
 頭蓋にある一本の糸が何らかの振動で揺れ動き、友和ははっ、と我に帰った。傍を走る電車がその糸を揺らしたのだと同時に理解し、それにしても過去の顔が次々と走馬灯となって現れるのはなぜか、と思った。俺も歳を取ったな、と柄でもないセリフが糸の下に溜まる浅瀬の湖から湧き出た。しかしそれをすんでのところで口にするのを我慢し、クサいセリフは湖底へ沈んでいった。
 そういえば陸橋下で目覚めた二週間ほど前の頭蓋の湖はアルコールで氾濫していたな、と今度はまだマシなことを思った。アルコール漬けとなった脳味噌はさすがに喰えたもんじゃない。勝手に脳味噌は喋り出すは、意識は飛びそうになるは、頭痛で吐きそうになるは、カヤちゃんは見れなくなるは。
 独り言をいう度に脳味噌は誰かに乗っ取られ、腐っていく。一方で独りでに口から飛び出しそうになる言葉を無理に押さえつけると、その言葉が湖底に沈殿され、もう既にそこは雑多な思考の残骸でいっぱいだった。そのおかげか、こめかみの辺りは重くて濁っている気がしてやまない。はて、どちらが被害を最小限に留めることができるか、いや、無理に決まっている。どちらを選んでも回復する見込みなどなし、行き先は地獄か。誰が連れていってくれる?自分か?いや、≪アイツ≫だ———。

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