翼が無ければ鳥でない

櫻井広大

八月二日  Ⅷ

 街灯の明るさに魅かれた小蝿らしき虫たちが群がり、影を落としながら騒いでいた。
 住宅から漏れ出す光が所々にあるのに加え、脇を通り過ぎる車のヘッドライトのおかげで友和を見失わずに尾行することができた。
 コンビニのビニール袋を左右に揺らしながらほとんど真っ直ぐ歩く友和の後ろを、気配を感づかれない程度の位置に優流はついていた。そこから察するに、目的地は既に決まっているとみえる。
 スマホで時刻を確認すると午後九時半を過ぎた頃だった。この時間帯の用事と行き先とは何か。呂律が怪しかったことから酒に酔っており、コンビニでおにぎりを買って向かう先は一体——?グラビア雑誌を投げ捨ててまで彼を追った理由はこれであった。
 時折やって来る対向車のヘッドライトが昼間の太陽を想起させるくらいに眩しく、友和は腕で目をかぶせるようにして鬱陶しそうに歩いていたが、次第にめんどくさくなったのか、何もすることはなく、こうべを垂れて闇と同化しそうな勢いだった。
 いつの間にか左手側にある営業中止中、廃墟と化したガソリンスタンドに差し掛かっており、夜では一層、その存在は吸血鬼ドラキュラが棲むブラン城の如き不穏さを演出している、と優流は思った。
 社会に貢献していた必需品の一部といえるものでも、一旦崩れ始めたら再建の余地は与えられない。豚共のように「ゴミ」の札をぶら下げて軽蔑の眼差しに耐えるか、死ぬかのどちらかだ。
「我蘇輪」の文字も明日には「ゴミ」に変わっているかもしれない。汚ねぇ泥にまみれて文字など見えなくなっているかもしれない。現在の状況がこれから先も続く保証や根拠はあるはずがない。
 明日は我が身だ、という言葉通りいつか自分も「ゴミ」のように扱われ、「豚」のように社会の溝で溺れているのかもしれない。「生きる」と「死ぬ」は紙一重なのかもしれない。顔にこべり付いた泥を払い落とそうと、首を横に振った。
 ゆっくりとゆっくりと、左右に揺れながら友和は歩いた。所々に位置する建物の明かりはあるものの、すっかり世間は寝静まったようで、二人の砂利を踏む音と、冷涼な夜風に運ばれる虫の鳴き声のみが優流の鼓膜を震わせていた。
 いつしか街灯一つも見当たらない直線状の道に辿り着き、右手には真っ黒に染まった田らしき四角形を越えた先に線路が延びていた。長年の摩擦と酸化で鉄錆色に変色したそれが、向こう側の街灯に薄っすらと照らされ、ひんやりと冷えているようだ。
 ふとしゃがみ込み、手で触れてみるとひんやり気持ちよく、掌から冷やされた血液が全身を巡り、身体の熱が線路に奪われていく。手を離してみると、当然の事ながら茶色の粉が掌を横断し、鉄の金属臭が激しく臭った、そんな想像をしてみた。
    真っ直ぐ走る道はただ昏いばかりの板で、砂利を踏む音が無ければ自分が今何の上を歩いているのかわからない程、昏過ぎた。
 右に曲がっているはずが、実感が無く、左も同様、ひたすらに訳がわからない窮地を脱げ出せないまま、友和の足は庭に生える梅の木が葉音を立てる他は、世間一般のどうてことのない家の前で静止した。
 そして手に握られている茶封筒を玄関前のポストに入れ、テラスの下の何かにコンビニの袋から取り出した小銭を入れた。
 迷いの陰すら見せない友和はすぐさま立ち上がって踵を返そうとした。優流は傍にある電柱に隠れて様子を伺っていたから、友和には気づかれなかった。
 元来た道と全く同じ街路から彼が帰っていくのを確認してから、優流はポストを覗いて、茶封筒を手にした。「今田美紀・友和」とボールペンで記されていた。
 中身を見ようとしたがテープが貼られていたので、スマホの懐中電灯機能を作動し、封筒を光にかざした。福沢諭吉が微かに浮き出た。厚さからして十数枚といったところだろうか。
 ポストに戻して、今度はテラスに向かう。
 テラスの下には幼児用の靴が置かれ、かかとの部分に五〇〇円玉一枚と一〇〇円玉二枚、計七〇〇円の小銭があった。
 なんだこれ?と呟いて帰路についた。
 空気が澄んで、過ごしやすい夜だ。
 日中のじっとりとして、全身の毛穴という毛穴が気怠く逼塞しているようなあの嫌悪感は、熱と一緒に空へ吸い込まれたかのようだ。代わりに夜空に浮かぶ星はいつになく美しかった。
 雑音がない夜中は、好きだ。しかしあと数時間もすれば、また喧騒と湿気と塵で視界はかすみ、淀んだすりガラスを貼り付けた空には容赦なく照りつける太陽が昇る。
 このまま家に帰って寝るのももったいない、と思った。かと言ってコンビニに行って再び眠そうな金欠野郎と同じ空間の中、グラビア雑誌を読むのも気が引ける。少し考えてから、やる当てもなくぼんやり徘徊するのも悪くはないな、と結論付け、友和の足跡を追うように歩き出した。
 行きでも通りかかった大島陸橋の近くまで来ると、得体の知れない冷や汗が顔の輪郭をなぞった。柱に不気味な落書きがあるからかもしれない。別の道にしようかと逃げ出しそうになった。
 その一方で、肝試しに似た冒険心と緊張が心臓の拍動を促進し、先が見えぬ暗がりを抜けた先にはオーガズムに達した後の、一皮向けた爽快感を伴っているだろうか、とワクワクしているのも事実だった。
 メーターは後者の方へオーバーヒートしそうな勢いで揺れ動いていた。
 無音のなか陸橋にぶつかる足音はよく響き、背後から迫る無人の気配すら感じさせるほどだ。鳥肌が立ち、ゾクゾクし、脊髄は悲鳴を発する一歩手前だった。
 ふいに風が吹き、耳元で息を吹きかけられたときと同じく、身を縮み込ませた。草むらが憂苦で体をねじったラオコーンよろしく踊るたびに囁き、ビクリと太ももが痙攣した。いや、痙攣したのはそれだけのせいではなかった。その奥に横たわる人体を発見したのだ。
 浮き足立つのを無理矢理抑え付けようとしたが、正気ではいられなかった。
 地面を捉えられない足を懸命に動かし、何度か転びそうになった。長くないはずの直線が、異様なまでに長く伸びていた。




 翌朝、優流はもう一度陸橋下を通った。昨夜の人体の正体は、友和だった。
 
 

 

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