翼が無ければ鳥でない

櫻井広大

八月二日  Ⅵ

 かおりと別れる時に口笛をひゅう、と吹いてやると、星の破片が風で巻き上げられたようにかおりは笑う。
 じゃあね、また来るよ。
 頭の上で軽く手をバウンドさせて踵を返すと、冷涼とまではいえない生暖かい夏風が肌を撫で、辺りの木々の枝を揺らした。
 人工的な送風にはない、柔らかな感触に包まれた友和はかおりを抱いた感覚を呼び戻し、寂しさを覚えたのか、庭から街路へ出た頃、ふと視線を横にずらした。しかし、もう、かおりの姿はどこにもなく、ただ虚しく揺れる梅の木が視界の隅で焦点を結ぶだけで、蝉声すらも忘れ去られてしまった住宅街には、ぽつぽつと明かりが灯され始めていた。
 瞼裏には一連の場面——おままごとから始まって外で汗をかいたこと、西に沈みかかった夕陽を背後に存分に浴びたかおりの笑顔とはしゃぐ声——が、一瞬間のうちに呼び起こされ、何度も再生された。
 コンクリートに転がる小石を蹴りながら、俯きがちに歩く。
 足先から伸びる長い影は、独りだった。  
 刻々と表情を変えるかおりが思い出のように遠ざかっていくのを感じた、その時だ。左手側の線路を電車が通過し、楽しかったかおりとの場面は火花の如く、弾け散った。反射的に車窓に目を遣ると、乗客がこちらの方を伺って嘲笑い、素知らぬ顔で流れ去っていった。
 車輪と銅鉄が擦れあった騒音が住宅によって跳ね返っては滞り、線路の上ではかおりの笑顔がバラバラに割れて、潰れている。それを一瞥してから、舌打ちをした。
 冗談じゃねェ、クソ野郎が。
 胃の辺りで獣に似た何者かが牙をジリジリ軋らせ、抑えきれない衝動に身を任せたら、もう、理性を失った獅子よろしく何をしでかすか分からなかった。
 行方なんぞ気にせず全力で小石を蹴り飛ばし、どこかの壁にぶつかった拍子に、これまたどこかの車のボディを凹ませ、その持ち主らしき親父が「おい、お前!」と怒鳴った瞬間、牙を収めた獅子は体毛をなびかせ、風を切り、一目散に街路の闇へと姿を消した。
 それからおおよそ二時間後、家の居間リビングにて不吉な臭いを嗅ぎ分けた友和は、月が明瞭に光る、墨を垂れ流したような闇夜の中を静かに、独り彷徨うのだった。
 不吉な臭いとはすなわちウザい実父のことで、それを忘れたいがために缶ビール二本を死ぬ勢いで飲んだ彼の手には、茶封筒が握られていた。

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