翼が無ければ鳥でない

櫻井広大

八月二日  Ⅳ

 腕に目を押さえつけ突っ伏した格好で寝ていたらしく、声がする梅の木の方に顔を向けると、真夏の太陽が撒き散らす閃光の粉がまだ明るさになれていないうちにチカチカと瞬き、一定量以上の光を受け入れてしまった水晶体は悲鳴を上げて、その奥の筋肉が痙攣し、かおりは反射的に顔を背けた。
 また下から自分を呼ぶ声があがる。くっきりとした二重瞼で黒眼を半ぶん覆いながら、しかめ面で再び、光で眩しい平面な街に一人佇む、梅の木に止まって騒々しく鳴く蝉に負けじと声を張る「おにいちゃん」に向けて視線を送った。
 光をまとっていたせいで服や肌の色が飛び、一瞬、人型にかたどった真っ白な紙に見えて驚いたが、針のように突き刺さる陽に慣れたころ、庭の芝と青々と茂る木葉に「おにいちゃん」が着る服の赤が加わり、その色合いはまさにクリスマスを思わせた。
 ちょうど今朝読んだサンタさんの容姿が脳裏に呼び起こされ、彼と重なったが、イメージとうまく一致せず、「おにいちゃん」はサンタさんじゃないと思った。
 彼が手を振っていたのでかおりも振り返し、すると視界の左下に吸い込まれるようにしてすいと赤が走り去り、程なくして家中に軽快な音楽が流れた。
 それを聴いたかおりは階段を降りて玄関へ直行、開放されたドアに縁取られた四角い光をバックにした「おにいちゃん」———今田友和はお邪魔します、と言って靴を脱ぎ始めた。
 腰から上半身を折り曲げ、シューズのかかとに腕を伸ばしたとき、走ってきたのだろう、汗の臭いがその場に立ち籠め、友和の口元が少し引きつったもののかおりはものともせず、ぐいと手繰り寄せて家の中へ案内した。
 玄関から伸びる廊下を経た先にある居間リビングの階段をかおりが先導する形で上り、「かおりのへや」の表札を揺らして招き入れると、友和は呆然とした表情で突っ立っていた。
 顎から喉元にかけての傾斜の角度を緩やかにしてかおりが見上げると、彼の視線はぬいぐるみの群れに注がれていた。
 彼の首元に冷風で冷やされた汗の玉がひとつ、首筋を辿って滴るところへ、襟を引っ張りそれを拭った動作は無意識と見える。かおりの背丈で届く赤いTシャツの裾を小さな指で伸ばしてやっと我に帰ったようだったからだ。
 サンタさんが好きなの?との問いに、縦に首を振って応えると、じゃあ今年のクリスマスが楽しみだね、ささやかな会話がポンと湧き出て、窓の外の蝉声に掻き消された。
 まだないんだ、かおりは確かにそう言ったが、友和には蝉声に紛れ込んで吹き飛んだ、粉塵ように微かなものでしかなく、俯きがちに下を向くかおりの頭にそっと手を載せた。
「このかみがた、いいでしょ!」
 思わず手を引っ込めて友和は目を見開いた。掌にはかおりの「耳」の感触———つむじを中心に手元の頭が回転し、その拍子に揺れた、黒い団子二つが触れたとの感触は後から遅れてやって来た。
 理由は定かではないが落ち込んでいるかと思われたので慰めようとして手を載せた、その瞬間を待ち構えていたかのような反応の速さで振り向きニコリと笑うかおりは、初めから友和に斯くして髪型に触れてもらいたいがために自然な身体の運びを計算し、それを見事にやってのけた。
 対して友和の方はひょいと誘いに食いついたのを少しばかり反省した。というのはしてやったりと全面に溢れ出させた、いたずら心の全盛期はまだまだ続くぞという予兆を含んだ二重瞼の下に隠れる眼を三日月型に湾曲させた笑顔のまま、イヒヒとかおりが声を漏らしたからだ。
 なかなかの策士のようだ、腹の中で一本取られたと呟いて、何して遊ぶかと問えば、おままごとと跳ねながら言った。
 そそくさと奥からズルズル引っ張ってきたおもちゃのコンロに火をつけ、テープで結合してある野菜を真っ二つに切り、火にかけた鍋に放り込んでいく。
 何作っているの?
 やさいすーぷ。
 甚だしくぶつ切りされた野菜で蓋が閉まらないほどに溢れ返った鍋は音がする火にかけられゴトゴトと、そのそばでは刃先が丸い包丁をトントンと、心地よいリズムが室内に流れる。
 具沢山の「やさいすーぷ」は間もなく友和の前へスプーンと共に置かれ、一口啜る動作をしてみれば、かおりが「おいしい?」。美味しいよ、と言いながら口いっぱい頬張って食べる風にかき込んでいく。
 はい、ごちそうさま。美味しかったです。
 空になったとされる鍋の野菜をかおりが指でつまみ出し、それらをテープで再び結合、包丁でまた真っ二つに、トントントントン。
 手際良く白の丸皿に盛り付けされた料理は「さらだ」らしいから笑えた。一旦胃袋を辿った食材をつまみ出し、もう一度別の料理として提供され、また胃袋へと。そういうことになるのかな、と苦笑した。
 「さらだ」に見合う食べ方は何か、近くに転がるフォークで刺すふりをすると、「おいしい?」が飛んできた。
 はむはむ。むしゃむしゃ。もうお腹いっぱいだ!別の遊びにしない?
 「ふり」には疲れた、なんて決して言えやしない。

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