翼が無ければ鳥でない

櫻井広大

わたしは名前がない。あなたはだれ?

 
 西口のエスカレーターを下り、外気に肌が触れると斎藤國子はひとつ、身震いをした。この時間帯の勝田駅は、人の気配など無縁の闇だ。
 今朝。久しぶりの休みに特にやることもなく、今年のお盆休みに父の墓参りに行ってなかったことを思い出し、実家がある青森まで足を運ぶことにした。
 慣れない電車を乗り継ぎ、青森駅に到着すると、まず実家に寄った。昔ながらの瓦屋根が懐かしく感じた。「ただいま」と言いながら玄関を開けると、カビ臭さとヒノキの匂いが所在なさげに鼻をついた。奥の引き戸がガラガラ開けられたかと思うと、母が「おかえり、どうしたの?」と娘の顔をしげしげ見つめた。お父さんのお墓に行ってあげようと思って、と返すと母は「そう、上がっていく?」と尋ねたが、「ううん。お母さんの顔を見に来ただけだから」とそれを断った。帰るときに母が「今度、私も健二さんにお線香あげに行こうかしら」と私の背中に言った。
 健二。久しぶりに聞いた夫の名前に少しばかり困惑しつつ、父の墓に辿り着いた。線香の煙が目の前で揺らめき、刻印された文字が霞んで見えた。知らない人の墓石だけが、自分を見つめていた。せっかくの休みなのに辛気くさいところに来てしまったな、と思った。
 それから帰りの電車までショッピングセンターに行って食事やら買い物やら気が済むまでブラブラし、母校の小学校に寄ったりと時間を潰した。
 青森駅にて、一七時二十六分発JR奥羽本線の上り列車に乗り、新青森、上野と乗り継いだ果てに、ちょうど二十三時に勝田駅に到着したのだった。
 四十路を迎えた身には過酷な長い列車の旅に、軽く車酔いを催しながら駐車場へ向かおうとすると、どこからか声が聞こえた。しかしすぐに聞こえなくなり、疲れているんだなと再び駐車場へと足を踏み出した時だ。先程よりも力強く、か弱い泣き声が確かにあった。
 声がする方へ近づいていく。最初はどこから発せられているのか分からなかった。彼女の足が止まったのは、三階建ての駐輪場のそばに建つ電話ボックスだった。公衆電話の隣には茶色い大きめの紙袋が置いてあった。ボックス内に入り中を覗くと、タオルで包まれた生後間もない赤ちゃんが大声で泣き叫んでいた。生みの親の配慮なのだろうか、タオルが二重にも三重にもなっており、抱きかかえるとずっしりと重みを感じた。
 他にも母子手帳、保険証があり、母子手帳の表紙を見ると、「保護者の指名」の欄は修正テープで消され、「子の氏名」の欄にも同じ処置がなされてあった。しかし、それは姓の部分だけで、下の名前はお世辞にも綺麗とは言えない字で書かれてあった。
 ちらりと水色の角が見え、それを手にすると、どうやら手紙のようだった。糊はついてなかった。中身は何なのか気になったが、赤ちゃんは泣き止むことを知らなかった。
 外は完全なる闇だった。

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