穢れの星

小湊拓也

穢れの星


 光り輝く百合の花が、私の身体を穿ち、切り裂いていた。
 我ら月の民は、生死とは無関係と言われている。
 言われているだけで、不死身というわけではない。このように、殺されれば死ぬ。
 そう、私は殺されたのだ。まだ辛うじて意識はあるが、もはや助かるまい。生首に胴体の一部が付着した状態で、私は床に転がっている。
 転がったまま、私は見回した。己の手足が、臓物が、滑らかに切り刻まれて散乱する死の光景。
 その真っただ中に、私の妻は佇んでいた。
 白い、優美な裸身が、光で出来た百合の花弁を立ちのぼらせている。
 彼女は私を見下ろし、微笑んでいた。
 これほど美しく、純粋で、虚ろな笑顔を、私は見た事がなかった。
 愚かな夫に対し、もはや笑って見せるしかない。
 そんな妻に、私は命乞いをした。
「……許して、くれ……どうか……」
 私の命を助けて欲しい、わけではない。私は、もはや死ぬ。
「……嫦娥を、許して欲しい……怨まないで欲しいのだ……全ては、私の罪……」
「そう、貴方はあの子を殺した」
 妻は言った。
「……何故?」
「私が……乱心を……」
「庇うのですね、彼女を。それは無駄である、と申し上げておきましょう。我が愛しの君」
 私の、2人目の妻である。
 第1夫人・嫦娥との関係は、私の見る限り良好であった。
 嫦娥の産んだ3人の娘も、このもう1人の母親によく懐いていたものだ。
 月の都の政務に疲れきった私にとって、2人の妻と3人の娘のいる平和な後宮は、慰めと安らぎの場であった。
 この第2夫人が、私の息子を産むまでは。
 待望の男児。月の都の、皇子である。ただし母親は正妃・嫦娥ではなく、この第2夫人・純狐である。
 血の繋がらぬ息子に、しかし嫦娥は娘たちと分け隔てなく愛情を注いだ。傍目には、そう見えた。
「嫦娥が……恐らくは閨で、貴方に囁いたのでしょう?」
 光の百合を、羽衣の如く揺らめかせながら、純狐は言った。
「あの子を……殺して、と……」
「断じて違う……私の一存だ……」
 嫦娥は、私の娘を3人産んだ。3人とも、美しい姫に育った。
 しかし老いる事なく今なお嫦娥は、その姫君たちよりも美しい。
 無論、蓬莱の薬の効果でもある。
 そんなものがなくとも、しかし嫦娥は美しかった。蓬莱の薬が、その美しさを永遠のものとしたのである。
 1人、嫦娥が居てくれれば、私は他に何も要らなかった。
 月の都の帝として私は、殺されない限りは途方もない年月を生きる事となる。
 その恐ろしく長い生涯において、愛する女は嫦娥1人。そう心に決めていた。
 だが私は結局、嫦娥の親友である純狐を、2人目の妻として迎える事となった。
 言い訳はしない。単に私が好色なだけだ。
 閨において、純狐は私に従順で、恥じらいながらも様々に尽くしてくれた。
 嫦娥は正反対である。尽くすのは、むしろ私の方であった。
 寝台の上で、嫦娥は私を奴隷として扱い、私から全てを搾り取った。
 そうしながら、囁くのである。
 私は悪い母親、あの子がいると不安で仕方がない……と。
 全て搾り取られている私の頭に、心に、その囁きが染み込んで来る。そんな夜が続いた。
 それだけの事だ。あの子を殺せ、などと嫦娥は一言も口にしていない。
 私が、乱心しただけなのだ。嫦娥に罪はない。
 それを言葉として発する事が、しかし私には出来なかった。
「我が愛しの君……貴方は、あの子を愛して下さいました。私を愛して下さいました」
 最後に、純狐の声が聞こえた。純狐の笑顔が見えた。
「それ以上に、貴方は……嫦娥を、愛していた……ただ、それだけの事……」
 百合の花弁が、私の頭蓋を粉砕していた。


 裸身に薄衣1枚を巻き付けただけの姿で、純狐は駆けた。
 広大な月の皇宮を、しかし駆け抜けて脱出する事など出来はしない。
 楼閣と楼閣を繋ぐ渡り回廊、庭園の片隅。どこへ行っても、武装した玉兎の部隊が駆けつけて来る。
 嫦娥、いや綿月豊姫による手配であろう。さすが抜かりはない。
 月の都の、帝が殺害されたのである。それも屍は、ほぼ原形をとどめていない。
 手配されるのは当然であった。
 職務に忠実なだけの健気な玉兎たちを、弾幕で殺傷するわけにはいかない。
 ならば逃げ回るしかないのだが何故、自分は逃げているのか。ぼんやりと、純狐は自問してみた。
 夫を愛し、息子を愛する。今まで、そのために生きてきた。
 愛すべきものは、しかし2つとも失われてしまったのだ。
 愛するために生きる事は、もはや出来ない。ならば。
「ねえ嫦娥……あの子が、月の正妃たる貴女の立場を脅かす、とでも思ってしまったの……?」
 この場にいない女性に、純狐は問いかけていた。
「愛しの君は、貴女のもの。私はそれで何の不満もなかったのに……あの方が貴女を愛でる、その片手間に時折、私を愛でてくれる。私はそれだけで満足だったけれど、貴女は許せなかったの? 私から、あの子を奪わずにいられないほど」
 愛するために生きる事が出来ない。ならば、憎むために生きるしかなかった。
「ならば私は……嫦娥よ、お前から何を奪えば良いのだろう……」
 純狐は立ち止まった。殺意の百合が立ちのぼり、全身の薄衣をあられもなく舞い上げる。
 楼閣の陰から、玉兎の一団が現れたところだった。素早く隊列を組み、こちらに銃口を向けてくる。
 さすがに綿月依姫であった。怠け者の玉兎たちを、よく調練してある。
「お前に忠実な、兵士たちでも……奪ってみようか……?」
 戦うための調練を受けた者たちならば、殺しても良かろうか。
 純狐が思った、その時。
 色とりどりの、きらびやかな光弾の嵐が吹き荒れた。純狐は何もしていない。
 皇宮の石畳が、砕け散って土もろとも噴出した。きらびやかな弾幕が、地面を粉砕していた。
 その爆風が、玉兎たちを吹っ飛ばす。
 吹っ飛んだ玉兎たちが、悲鳴を上げて右往左往している。
 何者かが、純狐の細腕を掴んで引いた。
「純狐様、こちらへ!」
「貴女は……」
 艶やかで芳しい黒髪。それと好対照をなす、白皙の愛らしい美貌。
 あの嫦娥に、清純にして天真爛漫な乙女の頃があったとしたらこうか、と思わせる美少女である。
 彼女に手を引かれ導かれるまま純狐は、楼閣と楼閣の間、路地裏のような場所を走っていた。
「この先、こっそり皇宮の外へ抜けられる道があります。永琳の目を盗んで遊びに行くのに、よく使っているんですよ」
「輝夜様……」
 月の都の姫君、蓬莱山輝夜。
 純狐にとっては、血の繋がらぬ娘、という事になるのであろうか。
「輝夜様……私は……」
「何もおっしゃらないで。何が起こったのかは掴んでいます」
「私は……貴女の、お父上を……」
 殺意の百合が、純狐の周囲で揺らめき続けている。
 この姫君を、光の花弁で背後から切り刻む事は可能であろうか。
 父親と同じ死に様を、彼女に用意してやる事は出来るのか。
(嫦娥よ、私はお前から……まずは、この娘を奪うのか……)
「見下げ果てた男です」
 先導し、無防備な背中を純狐に向かって晒しながら、輝夜は言った。
「私が始末をつけようと思っていたところ……純狐様に、先を越されてしまいました」
「輝夜様……貴女は……!」
「あの男は、私の大切な弟を殺したんですよ。生かしておけるわけ、ないでしょう?」
 ちらりと、輝夜の笑顔が振り向いてくる。
「おっとりしているようで、いざとなれば行動なさる方ですよね純狐様は。私ずっと、貴女に憧れていたんです」
「輝夜様は、あの子を……大切な弟と、呼んで下さるのですか……?」
 純狐の涙が、キラキラと後方へ流れ散った。
「血の繋がらない、あの子を……」
「照れ臭いから何度も言わせないで。あの子は私の弟、そして貴女はお母様」
 輝夜は、俯いたようだ。
「……私はね、そう思う事にしているの。あの女は嫌」
「そのような事、おっしゃってはなりません」
「だから何度も言わないって。思わせておいてよ、純狐様」
 言いつつ、輝夜は立ち止まった。
 彼女に負けず劣らず美しい少女が1人、前方に佇んでいる。
「秘密の抜け道、のつもりではないだろうな? 輝夜。まさかとは思うが」
 言葉と共に、その少女がすらりと抜刀する。
「帝を弑し奉りたる大逆人を……一体、どこへ連れて行くつもりだ」
「……依姫姉様には、お見通しと。そういうわけ」
「当然、八意様にもお見通しだ」
「ああ、それが一番恐いわ。比べれば姉様、貴女なんか全然恐くないわけで」
 妹の挑発を、綿月依姫はひとまず無視した。
「……お戻り下さい、純狐様。私たちが、出来る限りの事をいたしますから」
「私の罪を……軽くしてくれる、とでも?」
 純狐は、暗く微笑んだ。
「無理をなさらないで。貴女も、私が憎いのでしょう? お父上の仇、今すぐ弾幕で灼き砕きたいのではなくて?」
「もちろん、そんな事はさせない。純狐様は私が守る!」
 輝夜の、たおやかな繊手の舞いに合わせて、色とりどりの光弾が無数、生じて渦を巻く。そして依姫を襲う。
 渦巻く弾幕を、依姫はかわした。軽やかな回避の舞踏。
 それを追尾する形に弾幕を展開しながら、輝夜が叫ぶ。
「さあ早く逃げて、純狐様! 私なら大丈夫、依姫姉様を止めて見せるわ」
「輝夜様……」
「純狐様、私は貴女が好き! 貴女の傍にいるとね、何だか純粋な気持ちになれるの。昔からそうだったわ」
 輝夜の言葉と共に、まるで無数の宝珠をぶちまけたような弾幕の嵐が吹き荒れた。
「純粋な力が、私の中から無限に湧いて溢れ出す! そんな気分よ。純狐様を守るためなら私、依姫姉様にだって勝てる! だから心配しないで」
「輝夜……お前は今、自分が何をしているのか……まるで理解していない」
 色とりどりの光弾を、剣で弾き、受け流しながら、依姫が呻き叫ぶ。
「月の皇族ともあろう者が、子供じみた一時の感情に流されるな! その大罪人は裁かねばならぬ。正当な法の裁きを行わねばならぬ。月の都の法と秩序を損なう行動でしかないのだぞ、お前のそれは!」
「法と秩序? そんなものより私、あの子の方が大事よ。依姫姉様だって本当はそうでしょう? 私たちの中で一番、あの子を可愛がっておられたのは貴女」
「言うな……」
「あの子が、いなくなってしまった……それを、正当な法と秩序とやらで裁く事は出来るの? 答えなさい綿月依姫!」
「言うな……言うなっ、言うなああああああッッ!」
(出来ない……出来る、わけがない……)
 純狐は駆け出した。逃げ出していた。涙の煌めきを、引きずりながら。
(この娘たちの命を、奪う事など……出来るわけがなかろう? 嫦娥よ……)
 嫦娥から奪うべきものなど、こうなれば1つしかなかった。
(お前の、命……ふふっ、蓬莱人たるお前の命を、奪う……これからの私の、全てを注ぎ込むにふさわしい、無理難題よ)


 神の刃が無数、輝夜を取り囲み、だが即座に砕け散った。
 きらびやかな光弾の嵐が、全ての刃を粉砕していた。
「くっ……ならば、火雷神……!」
 依姫は、剣を振るった。
 炎の龍が生じ、輝夜を襲う。だが。
「ねえ、教えて依姫姉様……貴女が守りたいものは、何?」
 炎と炎が、ぶつかり合っていた。
 燃え盛る宝珠、のような火球がいくつも生じて旋回し、輝夜を防護している。
「貴女のおっしゃる法と秩序は、月の民を守るためのものではないわ。結局あの女1人だけを守るもの。姉様だって本当は、そう思っているんでしょう?」
 炎の宝珠が、炎の龍を粉砕していた。
 まばゆく舞い散る火の粉をまとわりつかせながら、輝夜は語る。
「心に怯むところなく、月の民を守るためならば……例えば月の都に問答無用の侵略者でも現れたなら、依姫姉様は無双の強さを発揮するでしょう。でも、あの女を守るためではね。嫌々ながら守る、そんな戦いに八百万の神様が本当の力を貸してくれると思う?」
「純狐様が……逃げて、しまったぞ……」
 依姫は、そう言うしかなかった。
「あの方は、いずれ復讐を実行する……月の都に、大いなる災いをもたらすぞ……わかっているのか輝夜……」
「そうなったら、純狐様とは私が戦う。正々堂々の弾幕勝負よ」
 炎の煌めきをまといながら、輝夜は微笑んだ。
 母が、炎の中で微笑んでいる。依姫は、そう錯覚した。
 本人は嫌悪している。憎悪している、とすら言える。だが、と依姫は思う。
 あの母親の血を最も濃く受け継いでいるのは、この妹であると。
 光が、降って来た。流星……いや、違う。
 弾幕であった。
 流星雨のような弾幕が、どこかから飛来して依姫を襲う。輝夜を襲う。月の姫君2人を、もろともに撃ち砕かんとする。
「危ない……姉様、避けてーっ!」
 輝夜が突っ込んで来る。依姫は、突き飛ばされていた。
 2人をまとめて撃ち殺すはずの弾幕を、輝夜が1人で受けていた。
 皇宮の石畳が、広範囲に渡って砕け散り舞い上がる。
 その破壊の中、輝夜の細身は辛うじて原形をとどめているように見えた。


 優美な人影が1つ、露台に佇んでいる。皇宮のどこかを、見据えているようである。
 部屋の中から、綿月豊姫は声をかけた。
「気のせい、でしょうか……私には貴女が今、輝夜ではなく依姫を狙ったように見えてしまいましたが」
「依姫を狙ったのよ」
 露台上からどこかを見つめながら、母は言った。
「そうすれば、輝夜は自分から当たりに来てくれるわ。何とも、わかりやすい娘」
「……まさか貴女が直接、手をお下しになるとは意外でした」
 豊姫は露台に出て、母と並んだ。
「御自分の手を汚す事なく……あの子を、それに陛下をも死に至らしめ、純狐様を失脚に追い込んだ御方が」
「ふふっ……昔からそう。純狐はね、本当にわかりやすい子。思った通りの事を、してくれたわ」
「輝夜までもが亡き者となった今、もはや貴女の権勢を脅かす者はおりません。我が世の春ですわね、母上」
「私を脅かす者……いるわよ? ここに」
「……私が、貴女に反旗を翻すとでも?」
 豊姫は扇子を広げ、綺麗な口元を隠した。
 そんな事をしても、この母に対しては、何も隠せはしないのだ。
「この度の貴女のなさりよう、私としても思うところ無いわけではありませんが……思うだけにしておきましょう。母上、いえ嫦娥様。貴女は月の民にとって、無くてはならぬ御方です」
 父である先帝は、優しさだけが取り柄のような人物で、まあ飾り物としてはそこそこ役に立っていたのだろうか。
 月の治世が保たれていたのは正妃・嫦娥ただ1人の手腕によるもの。それは月の民の、誰の目にも明らかであった。
「お互いにね、綿月豊姫」
 母の笑顔が、ちらりと向けられてくる。
 美しい。豊姫は、そう思うしかなかった。禍々しいほどに、この母は美しい。
「貴女は私の片腕……共に、月の都を治めましょう」
「御意……」
 美しさに圧されるように、豊姫は一礼した。


 保育器の中で、1人の赤ん坊が寝息を立てている。
 美少女に育つであろうと明らかにわかる、気品ある女の赤児。
 綿月依姫が、息を呑んでいる。
「これは……輝夜、なのですか八意様……」
「原形を失いかけていた輝夜の肉体が、赤児として再構成されたところよ」
 八意永琳は、説明をした。
「月の姫君としての記憶、私が叩き込んだ知識教養と弾幕戦の技術……全て思い出すまで成長し直してもらう事になるわね、この子には」
「八意様……貴女は、まさか輝夜に……」
「蓬莱の薬を処方したわ。輝夜を救うには、それしかなかった」
 言い訳だ、と永琳は思う。
 自分は、またしても罪を犯した。この世に、2人目の蓬莱人を生み出してしまったのだ。
「成長し直すまで……月の都で、無事に生き延びるのは難しいでしょうけど」
「月の都は……嫦娥によって完全に、掌握されてしまいました」
 依姫が、俯き加減に言った。
「八意様が、このような手を打たれる事も」
「お見通し、でしょうね嫦娥様は。輝夜は、狙われる事になる」
 無論、蓬莱人を殺す事は出来ない。とは言え、赤ん坊のうちに捕らえられてしまえば死んだに等しい。
 赤ん坊のまま時を止め、どこかに封印する。あるいは手元に置いたまま、ただひたすら殺し続ける。
 嫦娥ならば、そのくらいの事はする。
 俯いていた依姫が、顔を上げた。
「私が、輝夜を守ります!」
「おやめなさい。正面切って嫦娥様を敵に回す事になるのよ」
「嫦娥……ッ! 何故、何故なのですか八意様……!」
 涙を流しながら、依姫は怒り狂っている。
「穢れ無き月の都に何故、あのような……穢れそのものの如き存在が……っ!」
「……そうね。月人たちが穢れと呼ぶものを、あの方は全て備えておられる……」
 月の民には、嫦娥という存在が必要不可欠。
 その思いは永琳の中で、今なお不変である。最初の蓬莱人を生み出した事に、だから後悔はない。
「……輝夜には、地上へ避難してもらいましょう」
「……今、何とおっしゃったのですか八意様……」
「蓬莱の薬を服用したる者は重罪、地上へ追放……形骸化して久しい法律ではあるけれど、使わせてもらうわ。豊姫が上手く取り計らってくれるでしょう」
 言いつつ永琳は、保育器をそっと撫でた。
「少しの間……お別れね、輝夜」

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