カラード

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キュビーとダン(10)

 ふっと目覚めると、部屋が薄暗い。

 やばい、寝過ぎた、とキュビーは頭を振って起き上がる。普段眠りは浅い方なのだが、いつの間にぐっすり眠ってしまったのだろう。腕時計の時刻は、夕方五時を過ぎている。

 振り返ると、ベッドにはキュビー以外誰もいなかった。他人の家でのうのうと午睡に入るとは、我ながらいったい何様なんだと反省する。

 ダンはどこへ行ったのだろうと、キュビーはキャップを被って立ち上がる。スマートフォンも充電ケーブルもないということは、出掛けたのだろうか。

 ―シンプルな部屋。

 広さの割りに物が少ない。大きな家具はベッドとテレビ台くらいだ。いくつかゲーム機器とそのソフトが並んでいる。それだけだ。

 ここには、ダンくらいの子供の部屋にあって然るべき、机や本棚はない。教科書は勿論、筆記具やノートなどの文房具類も。雑然さがないのは、そういう、学校に通っていれば当然増えていくような物がないからだ。

 詳しい内容は知らないが、地区の公立学校からは時折マイクの元に手紙が届いているらしい。けれどダン本人にその気がないので、学校側もこの状況に対して強行措置は取らないのだそうだ。

 以前に一度、ダンがまだBOAT INNボート・インに来て間もない頃に、小学校へ送っていったことがある。前日に学校へ電話して担任の教員に取り次いでもらい事情を説明し、適当な大きさのカバンとペンとノートを持たせ、朝八時前に校舎の入り口まで付き添い、嫌がる彼を宥めすかして教員に預けた。

 頑張れ、と送り出した。

 それから一時間と経たずにキュビーの電話が鳴った。帰りたいと言うので迎えに来てください、と。

 彼が拒否反応を起こすのは至極当然のことだろう。本来なら六歳から通っていたはずの場所。周囲の同じ年齢の子供が五年間当たり前のように繰り返してきた生活や馴染んできた環境を彼は一片いっぺんも知らない。いきなりそんな世界に放り込まれて、受け入れて適応していくのは、それなりにやる気がある者にとっても体力の要ることではないだろうか。

 帰ってきたダンに、もう絶対行かない、と言わせてしまったのは、こちらのやり方に落ち度があったかもしれないが。

 ―失敗してばかりだ。

 小さく息をつく。別の誰かなら、例えば普通の家庭・・・・・で育った人なら、もっと上手く育ててやれるのだろうか?

 ―親でもなんでもないのに。

「―……」

 カーテンを閉めて部屋を出る。

 リビングルームには一見して誰もいなかったが、明かりはいつもどおり点けっ放しだ。

 ダンの姿も見当たらず、帰るか、とキュビーが玄関に向かってリビングを横切っていると、きゃ、という女性の小さな悲鳴が聞こえた。

 思わず耳を澄ませた。

 何事だろう、と思うのと殆ど同時に、簡単に予測がつく。

「やだもうマイク、誰か来たらどうするの」

「大丈夫、みんな優しいから。だから、ねぇ、ほら、声聞きたい」

 生々しいリップ音が耳につく。女性の喘ぐ声が連なる。花や骨董も並べられている、洒落た書棚の向こうだ。よくよく目を凝らせば飾られた置物の隙間から男女の姿が見えなくもない。

 ―あぁ。

 と思う。ダンもこれを聞くんだろう、と。見るんだろう、と。

 幾度も、幾度も。訳も分からないまま。

 キュビーはあまり足音を立てないように玄関へ向かった。マイクも女性もこちらの存在には気付いていないのだろう、声が途絶えることはない。

 ―気付いていてもやめないか。

 そっとドアを閉めて部屋を出た。




「調べたんですけど、彼の母親はもう香港にはいないんです。当時彼女は十六歳の少女で、マイクとかなり仲が良かったようですが、…いまは別の男性と結婚して北京に住んでいます」

 李舜鳴リ・シュンメイは言った。

 キュビーは複雑な顔で彼女の話を聞きながら、夕食の炒飯チャーハンを掬う。掬うが、口に運ぶ気が起きない。

「そのあとは、以前に報告したとおり…マイクが言うには、世話は殆どヘルパーか、そのとき出入りしていた女性にさせていて。ほぼネグレクト状態で育った、で間違いないでしょうね」

「―まぁ、そうだよなぁ。あの感じじゃぁ…」

「深刻に、心に傷を負っている。当人が自覚してる以上に」

 李舜鳴は声を落とし、スープを飲み干す。キュビーもようやく、掬った炒飯を口に押し込む。

 ふたりはBOAT INN内、ラタンの間仕切りに囲われたいつもの作業場で、ともに夕飯を食べながらあまり食の進まない話をしていた。

「…なんで施設に預けなかったんだろうな」

 結果、それが幸か不幸かは別として、キュビーは疑問だったことを口に出す。

「さぁ…恐らくは当初その選択肢を知らなかっただけだと思います。出生届も出していなかったくらいですから。それはこの前提出させましたけど」

「……」

「あとは、あまり考えたくないですけど、マスコットのように思ってたんじゃないですかね。見た目だけは、あの子、金髪碧眼の童顔ってそれだけで壁画の天使みたいでしょ。実際、マイクがあの部屋に連れてくる女性の中には、彼を猫可愛がりする人もいたようだから」

「……」

「―あの子が、女性を軽蔑してるのは、そういうところからなんでしょうね。わたしに向ける目とあなたやフォンさんに向ける目は、全く違うもの」

 ―猫可愛がり。

 程度の差こそあれ、いい気分にはならないだろう。

「……想像したくねぇ」

 はぁ、とキュビーは蓮華れんげを置いて一度水を飲んだ。

「まぁ、きついですよね。本当に愛されたい人から愛されないのって。わたしはそういう経験をしたことがないから、想像することしかできないですが」

「―同じく」

 李舜鳴もひと口水を飲んで、それから黙々と炒飯を口に運ぶ。キュビーも彼女に倣って、繰り返し炒飯を掬った。




***




 ぽち、ぽちぽち。ベッドの上、充電コードを繋いだスマートフォンの画面で、素早くチャットを返していく。

《Mian37:だめ、誰か来ちゃう》

《FalconV:かわいい》

《FalconV:さわるのやめちゃだめだよ》

《Mian37:や》

《Mian37:やだ、意地悪しないで》

 言葉を文面にする。

 いつもマイクと一緒にいる女性が口走ることをそのまま文字に起こすと、大抵、相手はその気になる。それだけで、何十分、何時間とチャットルームを延長してくれる。その時間分がポイントとなって、自分で作った口座に金が振り込まれる。

 簡単だ。

「―いい加減寝ろダン。一時だぞ」

 狭い部屋にキュビーが戻ってくる。

 BOAT INNボート・インの二階、ここは数少ない個室の一室で、元来彼の部屋だ。

 シャワーを浴びてきたのだろう、キュビーは濡れたタオルをハンガーにかけて、反対側のベッドに腰掛ける。

 ダンが無視していると、追い討ちが来る。

「ダン」

「んー。もう終わる」

「ほんとだな?」

「んー」

「先寝るぞ」

「んー」

 適当に返す。彼の会話の相手をしたところで、金が入ってくるわけではない。

 ベッドヘッドの灯りを消して、キュビーは蒲団を被ったようだ。

 金は、マイクからもらったクレジットカードさえあれば生活するには十分なのだが、ゲームで最大限課金をしようとするとどうしても足りなくなる。だからこうして小遣い稼ぎに精を出しているのだ。

 いつだか、キュビーは〝足りてる〟と言ったけれど、ダンには正直理解できない。いくらあっても、金は、あればあるだけ使える。足りることなんてない。

 チャットが一段落したので、ダンはほかに割りのいい小遣い稼ぎはないだろうかと、特殊なブラウザでディープウェブに潜る。一般の検索エンジンでは、ダンが稼げる割のいい事案はなかなか引っかからないのだ。




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