カラード
キュビーとダン(3)
それから半年、ダンはBOAT INNで時を過ごした。あのマンションの『3225号室』にはたまに服を取りに行くくらいで、殆ど帰っていない。それでも誰かから不在を案じる連絡が来ることはない。
寝泊まりはキュビーの部屋の余ったベッドでしている。李舜鳴によればダンが初日に泊まった客室は、
「一泊千ドルだよ」
「金とるのかよ」
ということで、拐かされた身としては心外だったが、支払いの請求はマイクにいったようなのでダンは特段気に留めなかった。
この船に居住及び出入りしているメンバーは、ダンやキュビー以外にもたくさんいるが、粗方覚えた。記憶力はいいので人の顔と名前を覚えるのはそう難しいことではない。
六月の香港はまだ雨季を抜けず、本日も外は雨。この天気にもかかわらず海で泳ぐ阿保な面々を窓越しに見ながら、ダンはキュビーが作業している隣でオンラインゲームに勤しむ。今日は、たぶん、盗聴機を作っている。やれと言われてできる気はしないが、以前にもその手順で製作しているのを見たことがある。
彼は時折、作業の合間に、ふと思い出したように話を振ってくる。
「ダン、昨日やった本は?」
「飽きた」
「飽き…どこまで読んだ?」
「ぅえ~~? …半分くらい」
全部、読んだけれど、全部、と答えるのは彼の思いに応えて頑張ったみたいで恥ずかしいので、そう答える。百ページくらい一晩あれば読める量だから、別に嘘をつかなくても良いのだけれど。
テーブルに突っ伏してモンスターを狩っていると、「お、結構読めてるじゃん」とキュビーが笑う。手が伸びてきて頭を撫でられそうになるので、ぱしっと突っぱねる。
「そこに続きあるから読んでいいんだぞ」
「飽きたって言ってるだろ」
「ゲームは飽きねえのになぁ?」
キュビーが悪戯っぽく笑う。
「キュビーもやる? スマホ貸してくれたらアカウント作っといてやるよ」
「やんねーよ」
あそ、と返した相槌は、きゃははは、と窓の外で弾けた明るい笑い声に相殺された。
あいつら元気だなぁと、キュビーが半ば呆れた目で外を見る。「…来衣の義足もそろそろ調整しねえと」
ふーん、と思いながら外を眺めていると、その来衣という年上の少年と目が合った。こちらに近付いてきたと思いきや、ざぱぁっと海から船に上がってくる。
ぎょっとして見ないふりをしていると、ダンダンダンと窓ガラスが叩かれた。
「うるせえ!」
キュビーが一喝するが、あまり聞こえていないのだろう、ガラス一枚隔てた向こうでまた笑い声が弾け、立て続けに強打。
確かにうるさいので、馬鹿にするついでに注意してやろう、とダンは立ち上がり窓を開けた。雨粒が吹き込んで頬や手を濡らす。
「お前らうるせえよ」
「お前も来いよ!」
「は?」
濡れた来衣の手がしっかとダンの手首をつかんだ。
「ちょ、えっ? は? ―」
彼は軽々とダンの身体を抱え、ぴょんっと船の縁から海水の中に飛び込む。ヒ、と声にならない絶叫が喉の奥で潰れ、目前に迫る濁った海面の水がザブ、と盛大に音を立てて割れた。
水が、冷たさが、一瞬で世界を変える。
あまりの早業にキュビーが慌てて窓辺に駆け寄り、
「こらぁ! 来衣!! あぶねえだろ、心臓とまるかもしれねんだぞ!」
「あははっすまんすまん!」
「あとで拳骨だからな!」
「げ」
つーか、閉めてけ、と窓を閉め、キュビーは部屋の奥に戻る。
ようやく己の身の置かれた状況を呑みこんで、ダンが来衣に殴りかかる。
「つ、めた、おい、ふざけんなよっ!」
「遊ぼうぜ!」
「どうやってだよ!」
「お前泳げる? 離して大丈夫?」
「離すなバカ! 絶対離すなよ!」
来衣にしがみつくダンに、周囲一同が笑う。腹立たしいので来衣の金髪を鷲掴みにして引っ張る。
「イデデデ!」
雨滴が水面に小さな波紋を作る。海水で濡れた髪に雨が追い討ちをかけていく。
生まれてこの方、泳いだことなどない。プールにも海にも行ったことがない。身体に水が触れるのはシャワーのときだけだ。
とにもかくにも、口に入った海水が異常に塩辛いのと、びしゃびしゃになった服が身体に貼りつくのが気持ち悪いということだけは思い知った。
寝泊まりはキュビーの部屋の余ったベッドでしている。李舜鳴によればダンが初日に泊まった客室は、
「一泊千ドルだよ」
「金とるのかよ」
ということで、拐かされた身としては心外だったが、支払いの請求はマイクにいったようなのでダンは特段気に留めなかった。
この船に居住及び出入りしているメンバーは、ダンやキュビー以外にもたくさんいるが、粗方覚えた。記憶力はいいので人の顔と名前を覚えるのはそう難しいことではない。
六月の香港はまだ雨季を抜けず、本日も外は雨。この天気にもかかわらず海で泳ぐ阿保な面々を窓越しに見ながら、ダンはキュビーが作業している隣でオンラインゲームに勤しむ。今日は、たぶん、盗聴機を作っている。やれと言われてできる気はしないが、以前にもその手順で製作しているのを見たことがある。
彼は時折、作業の合間に、ふと思い出したように話を振ってくる。
「ダン、昨日やった本は?」
「飽きた」
「飽き…どこまで読んだ?」
「ぅえ~~? …半分くらい」
全部、読んだけれど、全部、と答えるのは彼の思いに応えて頑張ったみたいで恥ずかしいので、そう答える。百ページくらい一晩あれば読める量だから、別に嘘をつかなくても良いのだけれど。
テーブルに突っ伏してモンスターを狩っていると、「お、結構読めてるじゃん」とキュビーが笑う。手が伸びてきて頭を撫でられそうになるので、ぱしっと突っぱねる。
「そこに続きあるから読んでいいんだぞ」
「飽きたって言ってるだろ」
「ゲームは飽きねえのになぁ?」
キュビーが悪戯っぽく笑う。
「キュビーもやる? スマホ貸してくれたらアカウント作っといてやるよ」
「やんねーよ」
あそ、と返した相槌は、きゃははは、と窓の外で弾けた明るい笑い声に相殺された。
あいつら元気だなぁと、キュビーが半ば呆れた目で外を見る。「…来衣の義足もそろそろ調整しねえと」
ふーん、と思いながら外を眺めていると、その来衣という年上の少年と目が合った。こちらに近付いてきたと思いきや、ざぱぁっと海から船に上がってくる。
ぎょっとして見ないふりをしていると、ダンダンダンと窓ガラスが叩かれた。
「うるせえ!」
キュビーが一喝するが、あまり聞こえていないのだろう、ガラス一枚隔てた向こうでまた笑い声が弾け、立て続けに強打。
確かにうるさいので、馬鹿にするついでに注意してやろう、とダンは立ち上がり窓を開けた。雨粒が吹き込んで頬や手を濡らす。
「お前らうるせえよ」
「お前も来いよ!」
「は?」
濡れた来衣の手がしっかとダンの手首をつかんだ。
「ちょ、えっ? は? ―」
彼は軽々とダンの身体を抱え、ぴょんっと船の縁から海水の中に飛び込む。ヒ、と声にならない絶叫が喉の奥で潰れ、目前に迫る濁った海面の水がザブ、と盛大に音を立てて割れた。
水が、冷たさが、一瞬で世界を変える。
あまりの早業にキュビーが慌てて窓辺に駆け寄り、
「こらぁ! 来衣!! あぶねえだろ、心臓とまるかもしれねんだぞ!」
「あははっすまんすまん!」
「あとで拳骨だからな!」
「げ」
つーか、閉めてけ、と窓を閉め、キュビーは部屋の奥に戻る。
ようやく己の身の置かれた状況を呑みこんで、ダンが来衣に殴りかかる。
「つ、めた、おい、ふざけんなよっ!」
「遊ぼうぜ!」
「どうやってだよ!」
「お前泳げる? 離して大丈夫?」
「離すなバカ! 絶対離すなよ!」
来衣にしがみつくダンに、周囲一同が笑う。腹立たしいので来衣の金髪を鷲掴みにして引っ張る。
「イデデデ!」
雨滴が水面に小さな波紋を作る。海水で濡れた髪に雨が追い討ちをかけていく。
生まれてこの方、泳いだことなどない。プールにも海にも行ったことがない。身体に水が触れるのはシャワーのときだけだ。
とにもかくにも、口に入った海水が異常に塩辛いのと、びしゃびしゃになった服が身体に貼りつくのが気持ち悪いということだけは思い知った。
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