別世界の人間は自分が無力だということを知らない

奈宮伊呂波

五話 喜色満面

 夜九時。
 街は仕事終わりの社会人たちで活気を出し始める。それを窓から見下ろす私は、きっと彼らよりも低位置に住まう人間だ。だからと言って向こうに行きたいとは思わないけど。
「本当にうさぎちゃんって大学生なんだよね?」
 佐川登也と名乗った作業着を着た男が会った時と同じことを聞いてくる。彼は今日初めて会った人物だ。いつものように映画館の前で待っていると、声をかけられた。
「そうですよ。学生証見せたほうがいいですか?」
 そういうと彼は少し悩むそぶりを見せる。
「いや、いい。そういうのは見せないほうがいいと思う」
 個人情報的なことを言っているのだろう。そんなこと気にしてどうするのか。
「よし。早速お願いしようかな」
「えっと、先にシャワー浴びませんか?」
 彼の服はところどころ黒い埃がついていて、髪の毛にも汚れのようなものが付着している。さすがにこのままで触れ合うのは嫌だ。一度綺麗になってもらわないと。
「あ、そうだね。ごめん。じゃあ一緒に―――」
「それもちょっと……」
 申し訳なさそうに言ってやると彼は再び謝った。
「ちょっと待ってて」
 そう言って彼は脱衣所に向かっていった。
 扉が閉まるのを確認して私は「ふう」と息を吐く。
 一週間前のことを思い出す。あの日、私はレイナルドの言葉に身を凍らせられた。でもそれも一瞬のことで、私は席を立ちあがり、教室から慌てて逃げ出した。レイナルドは何か言おうとしてたが私は聞きたくなんてなかった。その日はそのまま家に帰って、家族と過ごした。
 次の日、学校に行ってもレイナルドはそのことには触れてこなかった。何か変な要求をされたり、クラスに広められたりしていると思ったが、そういうこともなかった。教室は普段通りの風景を私に披露していた。もっとも、演出かもしれないけど。そこは考え出してもきりがない。
 それとは別の件で、一つだけ変わったことがあった。
 些細な変化だけど、上靴が私の下駄箱が消えていたり、机の中に虫の死骸が入っていたり、トイレに入っているときに扉を叩かれたり。まあ、平たく言えばいじめが発生した。高校生にもなってなんて幼稚なんだろう。犯人はきっと可哀そうでゴミ屑みたいな人間だろう。
 誰だか予想はついているけど。むしろ状況証拠がありすぎて確信している。
 鍛川鍛造のこともあって、私の売りは一週間停止していた。今日は久々の活動だけど、以前と同じような失敗はしない。
「うさぎちゃん。上がったよ」
「わかりました! 次は私が入ってきますね」
「了解」
 お小遣いで買ったバッグを片手に脱衣所へ向かい、扉を閉める前に甘い声を出す。
「覗いちゃダメですからね」
「わ、わかった」
 図星だったのか。やっぱり男は何考えてるのかすぐわかるな。特に、こういう女慣れしてなさそうな男は。
 でも、鍛川鍛造のように無茶な要求をしてくることもある。それは私には予想できない。個人的な内情を除外して時間を共にするから、何が奇行の原因になるか知りようがないのだ。
 だから武器を買った。鞄の中には化粧セットとか、財布とか以外に異物が一つ。スタンガンだ。やっと今日家に届いた。前回は何とか逃げ切れたけど、これからも逃げ切れるとは限らない。女を金で買う下賤な男の行動は私には制御できない。これは護身用だ。
 服を脱いで、シャワー室に入る。
 頭と体を清め、行為に備える。
 一通り洗い終えると、脱衣所に戻り、体についた水分を拭き取って髪を乾かす。最後に匂いの薄い香水をつけて準備完了。
 ローブを着て部屋を出ると、いよいよ仕事のメインの始まりだ。


 ◆ ◆ ◆


 窓の外は一時間前と何ら変わりがない。
「うさぎちゃん。あんまり気持ちよくなかった?」
 佐川は煙草をふかせて、言った。
「いえ、そんなことないですよ?」
「そうかい。ならいいんだが」
 実際、佐川は上手だった。女慣れしてなさそうなくせに行為だけはやたらと上手でこっちも必死になってしまった。いつもなら、べたべたに男に甘えていくけどそれすらもできなかった。だから、そう見えてしまったのだろう。
「何か、不満でしたか?」
「いやね。ちょっと乗り気じゃないのかなって思って」
 そう言われて、はっとする。私はいつも、ここに来るときは自分に「ここは天国のような夢の世界だよ」と言い聞かせている。その方が受けがいいし、自分も受け入れやすかった。慣れてきたとはいっても、見知らぬ男に一糸纏わぬ姿を見せるのは少し抵抗がある。
 それが、鍛川鍛造に狂わせられた。
 抵抗感が増加している。これっていいことなの、と疑問が生じている。それにレイナルドのせいでもある。もし、レイナルドが誰かに私のことをバラしたら私は罰を受ける。それに怯えている。
「そんなことないですよ。楽しかったです」
「そっか。あ、これお礼ね」
 そう言って佐川は何枚かのお札を私に渡した。
 それを合図に私たちは外に出る準備をした。服を着て、鞄を持って。佐川に清算を任せて、それが終わるとドアの自動ロックが解除された。
 エレベーターを下って、外に出ると外気が冷えた私の体をさらに冷やした。無関係な空気がべたべたと張り付く。この空気は誰にも興味がないくせに、誰にも興味を強要してくる。
 その空気が、私と佐川が別れようとする直前にやってきた。
「船川さん。こんなところで奇遇だね」
 何度も練習してきたかのような声は金髪が誰よりも目立つ転校生、レイナルド・ジョンソンだった。
「レイナルド……」
 なんでこいつがここに。ここは学校の最寄から三駅離れてるんだぞ。でかい街とは言っても都市の中心じゃないし、どちらかというと飲み屋とか繁華街が多い大人向けの街だ。それに、ここはラブホテルが密集しているエリアだ。こんなところにこいつが用があるとは思えない。
「えっと、知り合い? 制服着てるけど」
「この娘と同じ学校の者です」
 レイナルドがそういうと、佐川の顔がみるみる青くなっていった。
「そうかい。じゃ、じゃあ僕はこれで」
「ちょっと待ておっさん」
 そそくさと踵を返そうとする佐川がびくりと足を止める。
「金輪際この娘に関わるな。いいな?」
「も、もちろん」
 高校生相手に怯えながら佐川は去っていった。高校の制服を着たレイナルドが私と同級生と言った、ということは自分は高校生に手を出したということになる。知らぬこととはいえ世間はそんなこと考慮しない。佐川の態度も当たり前のものだ。
「さて、船川さん」
 金髪が夜の街灯に照らされる。反射はまばらなはずなのに的確に私の目を攻撃する。ゆっくりと私に振り返り、レイナルドは言う。
「ああいうこと、もうやめなよ。理由はどうあれ、ああいう形で集めたお金に価値なんてない。船川さんがすり減っていくだけだ。だから、やめたほうがいい」
 諭すように、レイナルドは言う。
「やめる気はない。大体あんたに指図される筋合いなんてない」
「そりゃ、筋合いはないけど。そもそも未成年淫行も売春も犯罪だし」
「知ってるよそれぐらい」
「それならやめよう。それともやめられない理由があるの? 僕に教えてよ。助けになるかもしれない」
 レイナルドは笑顔で言った。
 いい奴だ、と思った。根本的にいいやつだ。暖かい家庭で生まれて、何の問題もなく育って、日々に疑問を抱くこともなく、まっすぐに成長してきたやつの笑顔だ。レイナルドには金髪と碧眼がよく似合う。彼の華やかな心は外見にまで影響を与えている。
 私は学校では一人だ。中学を卒業して以来友達ができなかった。今では嫌がらせにもあっている。そんな生活に飽きて私はこういうことをするようになった。
 それと同時に、私は待っていたのかもしれない。私を助けてくれるやつを。



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