神に会っても祈らない ーこの恋と呪いの続きをー

藍舟

悪夢 ―その後の『彼女』と『彼』―

 ずうるりと、身体が下へ下へと呑み込まれていくのに、ただ身を任せた。
 口に鼻に耳にドロリと入り込んだ泥が、わたしの最期の呼吸を奪っていく。
 ただただ苦しくて、さっきまで想っていた『彼』のことも、もう忘れた……。

 ――ここなら誰にも、亡骸すら見つかることはない。

 そうして選んだ底なし沼の深い闇に、わたしは人知れず沈んで果てた。
 ああ、ここは、なんて昏いんだろう。
 なんて苦しくて痛くて寒くて熱くて、淋しくて、なんて……。
 ーー自身の呻き声で、わたしは目覚めた。
 いつの間にか溢れていた涙がシーツを濡らしていることに気が付いても、それを拭うために動くことは、まだ出来なかった。
 ああ、身体がひどく冷たくて重い。
 あの夢を見た後は、いつだってそうだ。
 あれは、何度となく繰り返し見た、夢。
 今日より前、最後にあの夢を見た時には、わたしはまだ26歳で、間もなく訪れる最期の日の準備をさせられているのだと、ただ信じて疑っていなかった。
 それなのに。
 わたしに最期の日は来なかったというのに、わたしはまだ、あの夢を見るのか……。
 そんなことを思って落胆している自分を、笑うしかない。
 浅い呼吸を繰り返して、ばくばくと早鐘を打つ胸に手を当てていると、ふと、冷えきっていた身体が、どうしてだか背中から温かくなって来たことに、わたしは気が付いた。
 わたしを包み込むようなその温もりに縋りたくて、夢うつつのままくるりと向きを変えて、その温かなものにしがみつく。
 まだ、息が苦しい。
 あれは夢だと分かってはいても、この息苦しさは現実のものだ。
 この胸に刻まれた女神の刻印は呪いではないと、『彼』が教えてくれたのに。そうして、あの国の明るい未来も、垣間見せてもらったのに。
 だがそれで、全てが無かったことになるわけではない。
 結局、わたしの記憶が全て消えてしまうようなことがない限り、わたしはあの夢をいつまでも見続けなければならないのだろう。
 本来なら一生に一度しか経験することのない、終わりの記憶。そう、あの、死の記憶を。
 印象の強すぎる衝撃的なあの記憶は、きっとわたしの魂に焼き付いてしまっているのだろう。
 これが罰でも呪いでもなく、わたしがどれほど苛まれたとしても、欠片ほどもあの国の民たちへの償いにはならないとしても。
 わたしを裁くものは何もなく、この夢に誰かの悪意は微塵もないのだとしても、だ。
 ――わたしを苦しめているのは、情けない話だが、わたし自身に他ならない。
 そこまで分かっているのに……。
 愚か過ぎる自分を、笑うことすら馬鹿らしい。

「……っ」

 痛いのは、心だ。身体よりも悲鳴をあげているのは。
 償いの方法を失って、わたしの心はまだ彷徨っている。わたしはこれからどうやって、見捨ててしまった民たちへ許しを乞えば良いのだろう、と。
 ――だが、答えはない。何も、ない、のだ。
 そうしてわたしは、もう王でもない。
 そう、分かっているのに。もうどうしたって取り返しのつかないことだと、頭では分かっているのに。
 たかが夢一つで、わたしの心はどうしようもないほど揺れてしまう。
 頬を伝うぬるい雫を、何かあたたかなものが追いかけて拭った。
 温かくて大きな、けれど柔らかくはない感触が、より強くわたしを包み込む。
 夢の中でわたしを飲み込んだ冷たい泥とは百八十度違うその温もりは、ゆっくりと、けれど確実に、わたしを落ち着かせてくれる。
 だがその一方で、わたしはこんな温もりに浸る権利などないはずだとも思う。こんな救いが、わたしに与えられて良いはずがないのにと……。

 アーウィン。

 次第に穏やかになった呼吸とともに、わたしはこの温もりの正体に気が付いて、そうして、完全に覚醒した。
 こんな幸せを、わたしは受け入れてはならないのだと思う。わたしに相応しいのは、もっとどろどろとした、もっと救いようのない罰のはず。
 そっと瞼を開くと、目の前は一面の肌色で覆われていた。
 わたしより濃い色の、わたしより遥かに逞しいその胸板を、そっと押して離れようとして、逆にこれ以上ないほど強く抱き締められてしまった。

「……は、なせ」

 わたしに、そんな資格はない。
 つぶれたような酷い声。わたしより『彼』の方がそのことに驚いたのか、強過ぎる抱擁が簡単にほどけた。

「……っ!?」

 少しだけ離れたせいで、カーテンから射し込む朝陽に照らされた『彼』の姿を目の当たりにして、わたしは慌てて視線を逸らした。
 予想外の状況に混乱する。
 昨夜は何もしないで眠ったはずだ。
 確かに同じベッドで寝たのは間違いないが、その時にはお互いにナイトウェアも下着も着ていたはず。
 それなのにどうして今は、『彼』もわたしも裸なのだろう。

「ど、どうして裸……」

 酷い声で、真相を知っているであろう『彼』に問うと、そっと抱き寄せられて、また心地好い体温に包まれた。

「何もしなくても良いから、もう少し貴女に近付きたかったんです……」

 頭上から落とされた囁くような声に、カアッと顔が赤くなったのが分かる。けれど、わたしの頬よりももっと、わたしに触れている『彼』の身体の方が熱かった。
 ――『彼』の家で暮らし始めて、ようやく一週間が経とうとしている。
 最初はお互いに、何と呼んで良いのかすら分からないほどギクシャクしたし、昔のわたしが居た城に少し似た屋敷での、使用人のいる生活には、正直まだ戸惑っている。

「どうして泣いているのですか?」

 穏やかに問う『彼』の声。『彼』の温もりを、言葉と身体の両方で感じて、わたしは泣きそうに顔を歪めた。
 わたしがこんなにも、満たされて良いはずがない。幸せになって、良いはずがないだろう。そう、思うのに……。
 少し困ったような『彼』の黒い瞳から、目を伏せて口も噤んだ。
 ただの夢一つに、どこまで動揺しているのだと自分でも情けないと思う。
 でも、どうしようもない。どうしたら良いのかが、わからない。
 だって、こんな幸せは知らなかった。想像もしたことがなかった。
 ――だから、恐い。
 わたしを抱き締めている『彼』の手が、そっとわたしの頭を撫でた。まるで子供相手のようなその優しい感触には覚えがある。次いで掛けられた声も、不思議なほど優しく、そうして苦笑混じりのものだった。

「貴女は相変わらず、人に甘えるのが苦手ですね」
「……え?」
「その責任の一端は、貴女をお育てしたわたしにあるのでしょう。――ですが、貴女はもう、王ではないのですよ?」
「そんなこと、分かっている」
「そうですね。きっと頭では分かっていらっしゃるのでしょうが……」

 言葉は途切れても、わたしの頭を撫でる『彼』の手はそのままだ。
 わたしは子供じゃないと思いながらも、心地好いその感覚に身を任せた。

「――なんの夢を見たんですか?」

 それまでと一片も変わらない穏やかな声で問われたのに、わたしの身体は情けないほどビクリと跳ねた。

「私に話して下さいませんか?」
「……ごめ、……なさい」
「謝って欲しいわけじゃありません。何があったのかを教えていただきたいんです」
「なんでもな」
「そんなくだらない嘘が聞きたいわけでもありませんよ」
「……」

 口調こそ穏やかだが、根気強く夢の内容を聞き出そうとしている『彼』に、もう一度、今度は無言で首を横に振って答えた。
 言いたくない。
 わたしの――栗須さくらの弱さを、見せたくなんかない。
 『彼』が想いを寄せたジェナは、もっとずっと強かったから。
 ジェナは死ぬことを恐れなかった。それが自身の運命だと受け入れて、ただ日々を懸命に生きていた。だけど、今はこんなにも弱くて、惨めで、どうしようもなくて……。

「っ!」

 半身を起こした『彼』が、ボロボロに泣いているわたしの顔を見下ろしているのを感じて、わたしは首だけを動かして顔を背けた。

「……さくら。私達は、もうあの国のことを忘れてしまっても良いのではないでしょうか」
「え?」

 ポツリと落とされた言葉の意味に、わたしは目を見張った。

「貴女が何を一番苦しんでいるのか、多分、私には分かっていますよ。それがもう、どうしようもないことであることも」
「……」
「貴女の罪は、私の罪でもあります。どうか一人で苦しむのはお止めください」
「っ……」

 『彼』が何をどこまで分かって言ってくれているのか、わたしには計りようもない。
 それでも、『彼』の言葉に、浅ましいとは思っても、わたしは救われてしまう。
 込み上げてきた涙を、今度は身体を捻って『彼』の目から隠した。だが、小刻みに揺れてしまう身体は、わたしの状態を正確に『彼』に伝えてしまっているのだろう。
 宥めるように背中を撫でる温かい手の平を感じて、わたしは嗚咽が漏れそうになるのを懸命に堪えた。
 それなのに……。

「ほら、泣くのも、もう我慢しなくて良いんですよ」

 やすやすと『彼』に体ごと上向かされて、涙に濡れた目尻と頬に口付けられる。
 やはり子供を相手にしているかのような甘やかし方だと思うと、ボロリと溢れる涙とは裏腹に口元に笑いが滲んでしまった。

「っ、あ……甘やかし過ぎじゃ、ないか?」
「構いません。王ではない貴女なら、どれだけでも甘やかして差し上げたい」
「……そういうものか?」
「ええ。そういうものです。そう、決めました」
「……っ」

 穏やかに微笑んだ『彼』の表情を目の当たりにして、ドクンと激しく胸が高鳴る。
 ずっと主従の関係を貫き通した過去の記憶にはない、甘い笑顔。
 わたしは、アーウィンがそんな表情をする男だなんて、想像したこともなかった。
 いや、これはもしかしたら、アーウィンではなく、夏目晃だからこそ身についた表情なのかもしれない。
 アーウィンにはきっと、ここまで柔らかな微笑みは出来なかっただろう。――少なくとも、わたしは見たことがない。そうして、わたしが見たことがないということは、それがきっと事実だ……。
 ではやはり、ここにいるのはアーウィンではなく、夏目晃という36歳の男なのだ。
 わたしが今、ジェナではなく、栗須さくらであるのと同じように。

 ――忘れても、良いのだろうか……。

 アーウィンでありながらアーウィンではない『彼』と、ジェナでありながらジェナではないわたしが、今をともに生きていくために。
 もう決して戻ることの出来ないあの国のことを忘れてしまっても。
 いや、本当はもう分かっている。
 これがただの感傷で、他ならぬわたし自身が、あの国のことを忘れたくないと思っているだけなのだと。
 ――美しいあの国を、優しかった民たちを、わたしは心から愛していたから……。
 民を捨てた愚かな王を、どれほど恨んでくれても良い。
 もう決してあの国へ帰ることの出来ない王を、許してくれなくても構わない。
 届かないと分かってはいるが、わたしはただ、願おう。
 どうか、皆が幸せでありますように。
 決して理不尽な運命に屈することのないようにと。
 女神にではなく、民たちを想ってわたしは祈ろう。
 ――そうして、わたしは忘れることにする。
 この温かな腕の中で、ほんの少し甘えることを覚えるのと引き換えに……。

「晃さん……。ジェナの最期の日の話を、しても良いか?」

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