神に会っても祈らない ーこの恋と呪いの続きをー

藍舟

25


 誰もが戦慄せんりつしたあの夜が明けて、わたしは最大の謎とともに、あの世界に残された。
 そう、『彼』の居ない、あの世界に……。
 民たちは、女神の気まぐれから自分たちを救ったのはわたしだと、一欠片も疑うことなく信じていた。
 そうして、ただ一人消えてしまった『彼』のことを、勝手気ままに噂した。
 「きっと欲にまみれた願いを抱いたに違いない」と。
 ――そうじゃない。
 『彼』は、そんな男じゃなかった。
 そうじゃないんだと、どれほど叫びたかったことだろう。
 だが、それを言うわけにはいかなかった。
 わたしが嘘を吐いていたのだと、まだ動揺の残る民たちに伝えることは、更なる混乱を招くことだと分かっていたからだ。
 確かに、この豊かな国を残すように願ったのはわたしだが、わたしの命を願ったのは『彼』だ。
 そうして、わたしにはもう、女神の声が聞こえなくなっていた。
 わたしが如何いかに無力で、愚かで、情けない王であるかを、わたしの他には誰も知らなかった……。
 ーーどうして『彼』は、わたしの命を願ったのだろう。
 嫌いだったわたしの命を……。
 何よりも大切な自分のいのちを投げうってまで、どうしてわたしを助けてくれたのか。
 答えは1つしか、思い浮かばなかった。
 『彼』は、この国の存続を願ったのだろう。
 国の歴史は、女神の歴史——そして王家の歴史だ。
 王家の絶えたこの国の行末は、誰にも想像がつかない。それを『彼』は憂いたのだろうと。
 だが、もしかしたらと思ったことが、もう1つある。
 わたしの婚約者候補の筆頭でもあった『彼』は、わたしの7歳年上で――それはつまり、あの日の翌日17歳になるはずだったわたしと結婚したとして、たった2年ほどの余命が確定してしまうということだった。当時は『彼』以外の婚約者候補など居ないも同然だったから、それはほぼ決まっていたといってもいい。
 嫌いな女と結婚されられて、子供を成すことまで強要される。あまつさえ、そのせいで己の寿命を縮めることになるのだ。
 それは、『彼』にとってどれほどの苦痛だっただろう。
 もしかしたら『彼』は、望んで命を絶ったのかもしれない。
 思えば、その可能性に気が付いた時から、わたしはわたしの代で王家の血を絶やすことを考え始めたのだろう。

『どうして嘆かないんですか?』
『どうして怒らないんですか?』
『可笑しいと思わないんですか?』

 数え切れないほど繰り返された、『彼』の疑問。

『嘆いても仕方がないだろう』
『怒っている時間が勿体無いさ』
『可笑しいなどと思ったこともない』

 ——だって、諦めた方が楽だったんだ。
 わたしが、死への恐怖を持たなかったと言えば、それは嘘になる。
 だが、母が眠るように旅立った刹那、「ふふふっ」という嬉しそうな女神の笑い声を耳にして、幼いわたしは悟ったんだ。「ああ、そういうものか」と。
 クスクスと続く女神の笑い声を、わたしは母の葬儀の間中、ずっと聞いていた。
 わたしにしか聞こえないその声を聞きながら、わたしの心はどんどん凍えていったのだと思う。
 だが、『彼』の想いが後者なら、『彼』は早まったのだ。
 『彼』に直接伝えたことはなかったが、わたしは『彼』とは結婚しないつもりでいたのだから。
 わたしは、その時が来たら、リューガか、適当な他の誰かを選ぶつもりだった。
 理由なんて決まっている。『彼』には、側にいて欲しかったからだ。わたしの最期の日まで、『彼』にはただ、わたしの側に居てほしかった。
 そうすることで、わたしはきっと、母のように穏やかな想いでこの世を去ることが出来る。そう、思っていたのに……。

 ――わたしの知る限り、『彼』が転移の術を使ったのは、たった一度だけ。わたしが7歳の時だった。
 死の淵にいた母にどうしても最期に見せてあげたかった花が、季節が悪くて間に合わないと聞いて、ひどく落胆していたわたしの目前に、キラキラした金の光を背負った『彼』が、突如現れたのだ。そうして、その手には、諦めていた黄色の小さな花があった。

「どうぞ、これを」

 そっとわたしの方に差し出されたその黄色い花を、わたしはすぐに受け取ることが出来なかった。何が起こったのか、理解出来なかったからだ。
 人払いをしていたので、母とわたししかその力を目にした者はいなかったが、それがすごい能力であることは、わたしにも分かった。

「……まあ、そんな力もあったのね。まるで神さまみたい」

 囁くほどの声で母が紡いだ言葉を、『彼』はひどく傷付いたような顔で「いいえ」と言葉少なに否定した。
 母から俯きがちに逸らされたその表情は、きっとわたしにしか見えていなかっただろう。
 母の言葉に対して、あまりにも場違いに思えた『彼』の態度に、わたしはひどく違和感を感じた。すごいとしか思えない魔術師の能力を、『彼』が疎んじているように見えたからだ。
 だが、その表情を一瞬で消して、『彼』はわたしを母の側に行くように促した。

「お早く……」

 そっと背を押されて、儚げに微笑んだ母の前に立つと、わたしの胸の中に浮かんだ『彼』への疑問は、すぐに消えてしまった。
 母に残された時間は、余りにも少なかったからだ。わたしは母の側に跪き、『彼』から受け取った黄色の小さな花を母の視界へと差し出した。
 それから少しして、母は満ち足りた表情で、苦しむことなく旅立った。ただ、わたし一人に見守られて……。
 父の最期をわたしは覚えていないが、きっと父も母と同じように安らかに旅立ったのだろう。
 そしてまた、わたしも例外ではないのだと、あの時にわたしは、自分の運命をより実感したのだ。国の平穏のために、そして全ての民のために、わたしもまた、27歳の誕生日前日に、眠るように旅立つのだと。
 『お前には、わたしの最期を見守って欲しい』と、もしもわたしが『彼』にその想いを伝えることが出来ていたら、『彼』は『いのち』を投げ出さずに済んだのかもしれない。
 今更遅いと思いながらも、後悔は尽きなかった。

『どうして嘆かないんですか?』
『どうして怒らないんですか?』
『可笑しいと思わないんですか?』

 ――『彼』はもう居ないのに、『彼』の遺してくれた言葉の数々が、わたしの生き様を決めてくれる。

 どうしてなんだ?
 女神はどうして、こんな選択をさせたんだ?
 なぜ、『彼』の『いのち』が奪われなくてはならなかった? 
 民たちはもう、残酷な女神の仕打ちを忘れ、普段通りの生活に戻っている。女神の悪戯に、運命に、初めて怒りを覚えたわたしだけが、あの日に取り残されたまま。
 わたしのような思いを、『彼』のような思いを、もう誰にもさせてなるものか。
 この国の王家の呪いは、わたしが断ち切ってみせると、そう思った。
 ――もうわたしは、女神になど何も祈らない。
 そして、わたしは、わたしのやるべきことを心に決めたのだ。
 それが、決して『彼』の望んだ結末ではないことを知りながら……。

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