神に会っても祈らない ーこの恋と呪いの続きをー

藍舟

17

 こんなにも塾での時間が経つのが遅いと感じたのは初めてだ。いつもと変わらぬペースで、今日の授業レポートを作成する講師たちを、急かしてしまいたいと思ったのも。
 落ち着けとどれだけ言い聞かせようとしても、浮き足立ったまま時間は過ぎ、ようやくわたしは塾の戸締りまでを終えた。
 雑居ビルを出ると、そこに待っていたのは黒のフェラーリ。わたしとは縁のない高級車に躊躇ためらいなく乗ることが出来たのは、今が夜で、よく分からなかったからに他ならない。いや、たとえ昼でもわたしには車のことなど全く分かりはしないから、助手席に乗り込んでから、そのハンドルのマークで高級車だと気が付いたのは同じことだっただろう。

「お疲れ様です」
「っ……」

 隣から聞こえる声に思わず俯いた。たったそれだけで泣いてしまいそうなわたしを、『彼』に見せたくなかったのだ。
 遠い昔、何かひと仕事あるたびに『彼』の「お疲れ様です」というねぎらいの言葉に、どれほどわたしが支えられていたか、『彼』はきっと知らないだろう。
 何気ない、何てことのない言葉だ。
 それ以上でも、それ以下でもないそんな言葉さえ、わたしにとっては特別な意味を持っていた。
 だが、『彼』の一言一句を、今もなお、わたしはどこまで覚えているのかと思うと少々でなく情けない。

「食事はもう済まされましたか?」
「昼に、食べた」
「昼? それから何も食べてないんですか? いつもそんな生活ですか?」
「今日は、いつもより、終わるのが早い方だ……」

 カタコトになってしまうのは、『彼』との距離を測りかねているからだ。『彼』の言葉遣いは、遠い記憶と変わっていないようで、けれど何処かが違う。
 そもそも、記憶の中の『彼』は、わたしが成長するにつれ、わたしに全く触れなくなっていたのに、ここにいる『彼』は違うのだ。躊躇うことなくわたしに触れることの出来る『彼』のことなど、わたしは何も知らない。
 だが、『彼』に深い溜息を吐かれて、思わずビクリと身体が震えた。
 『彼』がこんな風にあからさまに溜息を吐くときは、決まってその後で長い説教を聞かされていたからだ。
 まるで条件反射のように震えたわたしを見て、『彼』がくつりと笑った。

「貴女という人は、相変わらず自己管理がなっていないようですね」
「っ!?」
「お忘れですか? 人間たるもの身体が資本だと、あれほど口を酸っぱくして申し上げていたではないですか」

 やれやれと小さく首を横に振る『彼』から、わたしはふいっと窓の外へ視線を逸らした。やっぱり説教だったことを、どこか懐かしく、そして切なく思いながら。

「――アーウィン」
「……はい」
「どうして、わたしが死なないと知っていたんだ?」

 くつりという笑い声が、わたしの問いに答えるのを拒んだ。

「……わたしをどこに連れて行く気だ?」「着けば分かりますよ。取りあえず、食事でもしましょう。ですが、私は立場上、その辺りのレストランに入るという訳にはいきませんから……少し不快かもしれませんが、ホテルのルームサービスでご勘弁いただけますか?」
「え?」
「……外で『王』だの『アーウィン』だのと話していては、私の正気も疑われかねませんからね」
「あ、ああ。そうか……そうだな。分かった、お前に任せる」

 今や一会社の社長である『彼』の言うことは、至極当然のことに思えた。
 だから全く疑いを持たず、わたしは『彼』に促されるままにホテルの一室にまで入ったのだ。
 東京湾に架かる、美しいレインボーブリッジを眼下に見下ろすことの出来るホテル。そのスイートルームに通されてもなお、わたしは『彼』に、一欠片の警戒心も抱くことはなかった。

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