神に会っても祈らない ーこの恋と呪いの続きをー

藍舟

14

 わたしが何をどう思おうが、季節はとどまることを知らずに巡っていく。
 もう関わることが出来ないと思っていた受験シーズンをもう一度経験して、生徒たちの歓喜や感謝に包まれた冬。新しい希望に満ちた子供たちの心も浮き立つ春。
 そして新緑の眩しい季節へ――。

「先生、わたし、やっぱり馬鹿なんだ……」

 昏い顔でそう言ったのは、中学2年の上原美佳子だ。
 何のことはない。試しに出した古文のテスト問題が、30点だったというだけの話なのだが、美佳子はがっかりしてしまっている。
 入塾したばかりの美佳子が授業を受けるのは、今日が初めてだというのにだ。

「まーた、そんなこと言って。上原さんは馬鹿なんかじゃないよ?」
「でも……」

 どうも今日は、俯いた美佳子の頭頂ばかりを見ている気がする。どこまで自覚があるのかは分からないが、「自分は馬鹿だ」という言葉はすでに4回目だ。
 2年生になって学校の授業について行けなくなり、集団学習塾でもクラスの進行ペースに付いて行けなくなった美佳子は、完全に自信を喪失したらしい。どうやら随分厳しい塾だったらしく、美佳子は他の子たちの前で激しく罵倒されたという。
 それを話してもらって、わたしは内心では激しく腹が立っていた。
 ろくでもない。子供の笑顔を奪うようなことをしておいて何が教育だと。

「全然大丈夫。いま分からないのは、恥ずかしいことなんかじゃないよ。そもそもね、分からないから、こうして塾に来てくれたわけじゃない?」
「そ……う、だけど」
「それにね、今日まず問題を解いてもらったのは、上原さんがどこが分からないのかを知りたかっただけだからね。点数とかどうでも良いんだよ」
「え?」
「古文はね、英語と同じだと思えば良いよ。英語は得意でしょ?」
「う、うん」
「数学も得意でしょ? 入塾のテスト、とても良かったよね」
「うん。英語と数学は、好き」

 ようやく美佳子の顔に少し笑顔が見えて、ホッとする。きっと初めての場所で緊張しているのもあるのだろう。

「数学と英語の方が苦手って人が多いよ。上原さん、全然馬鹿なんかじゃないと思わない?」
「で、でも……」

 どれほどの期間、美佳子は苦しんだのだろう。同じ歳の子供たちの前で罵られて、どれほど傷ついたことだろうか。怯えたような瞳に、その日々が見えるようだ。

「誰が何と言おうと、わたしは上原さんは馬鹿じゃないと思うよ。上原さんはそう思わない?」
「そ……そう、かも?」
「かもじゃなくて、そう、だよ」

 サラリと言ってのけると、美佳子が目を丸くした。

「で、でも、古文は」
「ああ。古文、最初から苦手意識があったんじゃないかな。今日解いてもらった問題、単語から分かってないんだな、って。だから古文は1年の教材からやってみよう?」
「え?」
「遠回りな気がするかもしれないけど、全然そんなことないよ。充分過ぎるほど間に合うから、一緒に頑張ろう?」
「……本当に間に合う?」
「うん。上原さんなら大丈夫」

 じゃあやってみる、と美佳子が頷いて、また少しだけ笑った。

「じゃあ、すぐに教材用意するから少しだけ待ってて。あ、トイレ行って来ても良いよ」
「はい」

 資料室に入って、なるべく分かりやすそうで、かつ楽しそうな教材を選択し、コピーを取る。
 恐らく、美佳子が自信を取り戻すにはもう少し時間が必要だろう。だが、美佳子はもともと素直な性格のようだから、きっと成長は早い。
 宿題に出来そうなものも併せてコピーしながら、わたしは美佳子の笑顔を思い出して微笑んだ。
 全開で笑ってくれたら、きっと可愛いだろうな。そんなことを思いながら。
 次の授業の時間になって、今、わたしの視線の先では、無事に有名中学の1年生となった健太郎が、漢字検定の試験問題に夢中になって取り組んでいる。
 つい先日、初めて黒の学ランを着た健太郎の姿を見せてもらった時に、思わず目頭が熱くなってしまったのは、わたしだけの秘密だ。
 格好良い健太郎の姿を見られたのも、わたしが生きているからだと感慨深く思ったのに、今日は少し風邪気味なのか鼻が詰まってすぴすぴ音がしていて、思わず笑みが溢れる。鼻をかめるように箱ティッシュを持ってきて、それでも健太郎がすっかり集中していると判断したわたしは、20分後に戻ると告げて席を立った。
 受付に向かうと、今の時間は中学2年の佐々木朱里を担当しているはずの木村先生が、誰かと話をしているのが見えた。
 厄介なお客相手なのか、普段は物怖じすることのない木村先生が、珍しく困っているようだ。

「木村先生? どうしましたか?」

 そっと声を掛けながら受付に顔を出して、わたしは思わず目を見張った。

「ア……」

 アーウィン。
 そう声を発しそうになったのを何とか堪えた。

「栗須先生?」

 木村先生の訝しげな声を聞いて、わたしは慌てて凝視してしまっていた『彼』から目を逸らした。

「あ、ああ。ごめんなさい。お客様のお相手はわたしがしますので、木村先生は朱里ちゃんのところに行ってあげて」
「はい。あ、でも健太郎は?」
「今、試験問題始めたばかりだから大丈夫」

 木村先生の気遣いにどこかぎこちない微笑みで答えてから、わたしは『彼』に視線を戻した。
 信じられない。何という偶然なのだろう。他でもない『彼』が、わたしの塾を訪れることがあるだなんて。

「申し訳ありませんが、ご覧のとおり今は授業中なもので15分くらいしか時間がとれないのですが。……どうぞ、応接室へご案内します」

 精一杯の営業スマイルで『彼』を応接室に案内しながら、わたしは右手と右足が一緒に出そうなほど緊張していた。

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