神に会っても祈らない ーこの恋と呪いの続きをー
10
「――なあ。お前の願いって、何だったんだ?」
「え?」
唐突な問いに、『彼』が目を瞠った。『彼』の問いに答えることなく、明らかに話を変えたわたしに驚いたのだろう。
「……ずっと、それが聞きたかったんだ」
『彼』の眼差しに怯えることなく、真っ直ぐに『彼』を見つめて、わたしは言った。
昔も今も、ずっと知りたかった『彼』の最後の願い。
何度も繰り返し思い出した――前の世界での最期の時にまで脳裏をよぎったその願いを、ようやくわたしは聞くことが出来るのだ。
それが、この人生の終わりに、どれほどの意味を持つか、きっと『彼』には分からないだろう。
「それは……」
今度は、『彼』がわたしから視線を外した。そのことに驚きながら、わたしは思わず口にしていた。「やましいことでもあるのか」と。
少し困ったような顔をして、『彼』が小首を傾げた。
「いえ。ただ、ここで話すようなことではありませんので……。場所を変えませんか?」
「…………」
『彼』の提案に、わたしは思わず泣きそうに顔を歪めてしまった。
「ジェナ様?」
「っ……」
完全にその表情を見られてしまったことは分かっていたが、精一杯俯いて顔を隠して、わたしは首を横に振った。
「――悪いが、そんな時間はない」
「ああ……どこかにご旅行ですか?」
わたしのボストンバッグを見た『彼』が、そんな印象を抱くのは当然のことだっただろう。
だが……。
「では、次にお会いする時にしましょう。お戻りはいつですか?」
「っ!!」
『ツギニ、オアイスルトキニ……』
――その言葉に、何かが千切れた。
「…………来ない」
「え?」
「そんな日は、来ないっ!!」
声を荒げると同時に、込み上げてきた涙も土の上に落ちたが、もうそんなことを気にすることは出来なかった。
刹那、わたしはボストンバッグから手を離して、『彼』の胸ぐらに掴みかかっていた。
「あの日と同じだっ! わたしがお前とっ、次に出会える日はっ、来ない、んだ……っ」
突然の暴挙に呆然としている『彼』の瞳を下から睨みつけて、わたしは『彼』の白いYシャツを掴む手に力を込めた。
少しは苦しいのか、眉間に皺を寄せた『彼』が、わたしの両手をそっと引き剥がす。大して力を要さずに片手で外したわたしの両手を掴んだまま、『彼』は静かに聞いた。
「それはどういう意味ですか?」
「っ……」
わたしを見下ろす『彼』の黒い瞳に、少しだけ慌てた色が見える。空いた左手でわたしの涙の跡を辿り、そっと拭われて、わたしは思わず俯いて目を閉じた。
どうして『彼』は、こうも簡単にわたしに触れることが出来るのだろう。
昔の『彼』は、大きくなったわたしに一切触れることはなかった。だから『彼』が造作もなくわたしに触れていることが、『彼』が『彼』ではないことの証明にもわたしには思えた。
そうして、それと同時に、『彼』には今、大切な人がいることも思い出した。
――思い出して、しまった。
「……忘れろ」
「は?」
「何でもない。良いから、忘れろ。――願いも、もう聞いてはやらない。わたしとここで出逢ったことも……昔のことも……すべて……、すべてを忘れろよ」
そうして、『彼』には、この世界で幸せに生きて欲しい。
わたしのことなど、もうどうでも良い。
今日が最後の1日であるわたしにとっては、『彼』と最後に逢えたことだけで、もう本当に充分過ぎるほどだ。
『彼』に逢えて、『彼』がわたしを覚えていてくれて、これ以上何を望むことが出来るというのか。
わたしのことより、明日以降もずっと生きていく『彼』の幸せを大切にしたい。
わたしの罪を――あの国の行く末を、『彼』が知る必要はないだろう。知ったところで、何が出来るわけでもないのだから。悪戯に『彼』の心を惑わせて何になるというのか。
――それが、わたしの辿り着いた結論だった。
「……同じ、ですね」
「え?」
グッと、掴まれていた両手に痛いほどの力が加えられて、わたしは痛みに顔を顰めた。
「あの日と同じ笑顔ですよ。下手くそで、……しい、笑顔だ」
「えっ?」
聞き取れなかった言葉を聞き返すために、思わず顔を上げて、後悔した。
シルバーフレームの眼鏡の奥、薄く笑んだ『彼』の瞳は凍てついた輝きを見せていた。全く笑ってなどいないその瞳に囚われて、わたしは瞬きも出来ずに息を飲んだ。
「次に会える日が来ないとはどういう意味です? 貴女は何を隠しているんですか?」
「っ……」
「言いなさいっ!」
「っ!?」
強い口調で『彼』がわたしを責めた。そのことに驚いて、わたしは目を瞠る。
ギリギリと握られた手が痛くて、『彼』に怒鳴られたことにも驚いて、わたしは口を滑らせてしまった。
「仕方が、ない、じゃないかっ……わたしは、今夜……死ぬんだ……っ」
「……は?」
「明日、わたしは27歳の誕生日、なんだ……だからっ、今夜、わたしはっ……」
『彼』がわたしの手を掴む力が緩んだ途端、わたしはそのまま地面に膝を付いてしまった。
「――まだ、そんなことに囚われておいでなのですか?」
「なっ!?」
驚いているのか呆れているのか、複雑な色を含んだ『彼』の声に、わたしは瞬時にカッとなり、けれど直ぐに脱力した。
『彼』に怒りをぶつけるのはあまりにも筋違いだ。
「そうさ。わたしは愚かな人間なんだよ」
くつりと自嘲して、わたしはゆっくりと立ち上がった。
汚れてしまったロングスカートの裾を払って、先ほど落としたボストンバッグを静かに拾い、わたしは『彼』にまた、下手くそだと言われた笑顔を向ける。
「だから、忘れろ。忘れてしまえ。――じゃあな。わたしはもう行くよ」
「……ジェナ様」
「さくら」
「はい?」
「栗須、さくらだ。……お前の今の名は、聞かない」
『彼』への想いを断ち切るように、わたしは『彼』に背を向けて歩き出した。
「――貴女は、死にませんよ」
どこまでも静かな凪いだ声で、『彼』が言った。記憶にある『彼』の声より、低く深みのあるその声は、わたしの胸に染み入るようだと感じた。
何の慰めにもならないその言葉に、くつりと笑って「ありがとう」と答えると、追い掛けて来た『彼』が、わたしの右手に何かを忍ばせた。
カサリとした、それは少し厚みのある紙だった。
ーー名刺……?
手の中を見ることなく、わたしは歩く速度を早めた。
「ジェナ様。明日、そこに連絡をして下さい。何時でもどこからでも構いません」
「っ……」
連絡など、出来るはずがない。
明日には、もうわたしはこの世に居ない。
振り返らずにその場を立ち去るわたしを、『彼』はもう追い掛けては来なかった。
残酷な男だと思いながらも、わたしは名刺を捨てることはせず、ボストンバッグの小さなポケットにしまいこんだ。
そこには『彼』の、この世界での名前が書いてあるのだろう。
だが、今のわたしには、それを知ることに何の意味も見いだせなかった。
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