神に会っても祈らない ーこの恋と呪いの続きをー

藍舟

9


 習慣だった朝の散歩に出掛けることが出来るのも、これが最後だ。
 しっかり見廻らなければと思いながらも、今のわたしにはただぼんやりと公園内を歩くことで精一杯だった。
 その内に、あの日『彼』が寝ていた石垣の前を通り掛かって、わたしの足はピタリと止まった。
 ――当然そこに『彼』は居ない。

「……アーウィン」

 そっと呟くと、それだけでわたしの瞳には涙が滲んだ。

「さようなら……アーウィン、……アーウィン・ボッサラ。わたしは…………ジェナ・ポルド・ウィレンサーは、お前のことが……っ……」

 ポタリと落ちた涙が石垣に吸い込まれていく。
 ――結局、お前の願いって、何だったんだろうな……。
 昔のいのちが尽きる刹那にも、わたしは同じことを思った。
 わたしはまた、その答えを得られずに死んでいくのだ。
 死、そのものよりも、そのことが堪らなく辛い……。

「……っ」

 小さなボストンバッグの持ち手をきゅっと強く握り直して、わたしは石垣に背を向けた。
 もう行かなければ新幹線の時間に間に合わなくなる。そう分かってはいるが、なかなか足が一歩を踏み出してくれない。

「……馬鹿だな。わたしは」

 涙で濡れた頬を手の甲で拭って、1歩前へ右足を運ぶ。もう1歩、そうして勢いをつけて前へ行けば、それで歩いていけるはずなのに、3歩目を前に、またも足は止まってしまった……。
 ――最期の日は海に行くのだと、ずっと前から決めていた。
 どうして海なのだろうと自分で決めておいて不思議に思っていたが、今ならその理由がはっきりと分かる。
 あの国には、海がなかったからだ。
 わたしは今、あの国で生きていたわたしとは、違う人生を生きているのだという、せめてもの抵抗として、海を選んだのだと。
 わたしは今、ジェナではなく、栗須さくらなのだと、ずっと声を大にして叫びたかった……。
 だが、ささやかな抵抗を試みてみたところで、結局のところわたしは諦めているのだ。
 どこで死のうが結末には何の違いもない。昔の罪を背負って死ぬことに、その運命とやらに、何の価値も見出だせなくても……。
 だって、仕方がないじゃないか。
 諦める以外にどうしようもないことが、生きている限り誰にだってあるだろう。
 ――だが、『彼』への想いだけが、こんなにも諦められない。
 動かない足を叱咤するために、右手で右足の腿を軽く叩き、わたしは足を動かした。
 2歩、3歩を踏みしめて歩けることを確認出来た、その刹那――。

「――見つけたっ……」
「っ!?」

 突然背後から右の手首を誰かが掴んだ。誰か――低音のくぐもった男の声にも驚いて慌てて振り返り、わたしは言葉を失った。

「ア……」

 アーウィン。
 ……まさか、そんな。
 愕然として、わたしは膝から崩れ落ちた。そんなわたしの身体を、『彼』が難なく抱きとめる。

「大丈夫ですか?」
「っ!?」

 耳元で囁かれたその名前に、弾かれたようにわたしは身体を起こして『彼』から離れた。
 触れられた肩がひどく熱い。
 ああ、どうしよう……。
 どうしてこんなことが起こる。
 どうして……。

「――私が誰だか、お分かりですか?」

 背中から掛けられた静かな声に、わたしはただ頷いて答えた。それで通じたのか、『彼』がホッとしたように息を吐いたのが分かった。

「突然驚かせてしまって、申し訳ありません」
「……いや……いや、構わない。それより、どうして……」

 どうして、今ここにいるのか。いや、そもそもどうしてこの世界にアーウィンがいるのか。どうして昔の記憶があるのか。――どうして、あの時、わたしの命を願ってくれたのか……。
 次々と沸き上がって来た疑問の数々から、わたしがどんな表情をして振り返ったのかは自分では分からないが、『彼』は困ったような顔をして小さく笑った。
 6ヶ月前に見かけた時とは違う黒のスーツに身を包んだ『彼』は、一流商社にでも努めていそうな出来る男風だ。
 黒髪の『彼』は、以前公園で見かけていたのでそう驚くこともなかったが、あの時見ることの出来なかった黒い瞳に、今、間違いなくわたしの姿が映し出されている。そのことに、わたしは内心ではひどく狼狽えずにいられなかった。

 ――腰よりも伸びた金の髪は、『彼』の持つ強大な魔力の証。新緑のような澄んだ緑の瞳には、きっと『彼』にしか見えないものが映っているのだと、一部の貴族達の間では、何故だかひどく恐れられていた。
 あんなに綺麗な瞳の一体何が恐かったのか、あの頃のわたしには分からなかった。だが、今なら分かる気がする。今はもう、あの頃の色を失っている『彼』の瞳にさえ、愚かなわたしはどのように映っているのだろうと思うと恐い。わたしの罪を全て、この瞳には見透されているのではないだろうかと。

「っ……」

 わたしを凝視したまま動かない『彼』から、先に視線を逸らしたのはわたしの方だった。

「そんなに、見るな……」
「……何か、やましいことでもあるんですか?」
「っ!?」

 たった今、再会したばかりだというのに、まるであの国の平穏な日々の続きのように、『彼』とわたしの時が流れる。

「貴女は人の目を見て話をされる方でした」

 どこまでも凪いだ声が懐かしく、そして苦しい。

「やましい、こと……」

 ――わたしは、罪を背負っている。
 そのことを『彼』は知らない。『彼』に、胸を張って伝えられることは何もなく、『彼』に合わす顔がないほどのことをわたしはしたのだと……。
 それなのに、『彼』と出逢えたことが、『わたし』を覚えてくれていたことが、こんなにも嬉しい。
 それはどれだけやましい――いや、あさましいことだろう。
 『彼』が、自らの命を投げうってまで、わたしを生き長らえさせたのは、わたしにはやらなければならないことがあったからだ。だが、わたしにしか出来ないその役目を、わたしは自ら放棄した。そのせいで、明日を迎える前にこのいのちが尽きるなんて、きっと『彼』は想像もしていないだろう。
 きっと『彼』は、わたしのしたことを知れば、驚き、怒り、呆れるだろう。あの国の行く末を想い、嘆くかもしれない……。

「ジェナ様……?」

 わたしの返答がないことを怪訝に感じたのか、『彼』が訝しげな声を発したことを端として、わたしは再び『彼』を振り返った。
 ――どうして、今日なんだろう。
 探し続けた数ヶ月の間にはどうしても見つからなかったのに、諦めたと思った途端に、『彼』がわたしの前に現れたのは何故なんだろう。
 必然のような偶然。
 これこそ女神の悪戯なのかもしれない。

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