神に会っても祈らない ーこの恋と呪いの続きをー
7
逃げなければ。
どうして咄嗟にそう思ったのかは分からない。
ただ、真っ先にそう思ったのに、ガクガクと震える身体が言うことを聞かなかった。
信じられない。
まさか、この世界で……、――埼玉県鳩ヶ谷市で、アーウィンに出会うことがあるだなんて。
そんなこと、信じられるはずがない。
もしかしたら、これも女神の悪戯だとでも言うのだろうか……。
突然のことに混乱し過ぎている自分を、とにかく冷静に戻したくて、這うほどのスピードでようやく立ち上がり、後退さろうとしたわたしの身体は、不意に強い力で抱き寄せられた。
「っ!!」
「……ミナ?」
「っ!?」
まだ酔いが残っているのか、『彼』の声は気だるく、甘えているような響きがあった。
――ミナって、誰だ?
しかし、そんなことを考えられたのはほんの一瞬のこと。気が付いた時には『彼』に後頭部を抱え込まれて、わたしは『彼』の口付けを受けていた。
「っ!!」
あまりのことに、抵抗することすら忘れた。ただ口唇が触れているだけの接吻に、どうしようもないほど心が震える。
過去の記憶の中で、どれだけ望んでも指一本触れることすら許されなかった『彼』の口付け……。温かくて柔らかいその口唇の感触に、無意識に涙が溢れた。
アーウィン。アーウィン。アーウィン。
とめどなく沸き上がってくるのは、隠し通すしかなかった『彼』への恋情だ。あの世界を去ってなお、忘れることの出来なかった強すぎる想い……。
「……っ」
寝ている『彼』に引き寄せられたせいで、地面に膝をつくような体勢で『彼』に口付けられながら、わたしはそっと瞼を閉じた。
短くすっきりと整えられた黒髪、シルバーフレームの眼鏡、仕立ての良いスーツ……。かつては24歳でしかなかった『彼』が、今ではもう30歳を超えているであろうその姿を――『彼』でありながら『彼』ではないその姿を、見ないフリをしたかった。
アーウィンも整った顔をしていたが、今わたしに口付けている『彼』は、アーウィンよりも歳を経ているせいなのか、端正なその顔に色気のようなものが滲んでいるように思えた。
「っ!」
ヒヤリと微かに触れた眼鏡のフレームの感触に、わたしは我に返った。
――わたしは、何をしているのだろう。
ようやく巡りあえた『彼』は、『今』を生きているのだ。いつまでも、何もかも、過去に囚われたままのわたしとは違って……。
そうして、わたしは、ミナではない。
その事実が、今のわたしには、あまりにも重かった。
『彼』が目を覚ました時に、わたしが『彼』のミナではないことに気が付いてしまったら……、『わたし』に気が付いてしまったなら、『彼』は一体どんな顔をするのだろう。
『彼』は今、アーウィンではないし、アーウィンの記憶があるかさえ分からない。『彼』にとって、わたしはただの見知らぬ女でしかないかもしれないのだ。
その事実に、ゾクリと背筋が凍り付くような気がした。
刹那、わたしは『彼』を半ば突き飛ばすように自分の身体から引き剥がし、その場から脱兎のごとく逃げ出していた。
――石垣の上から落ちたせいで、ようやく目を覚ました『彼』が、わたしの背中を凝視していたことに気が付くこともなく……。
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