神に会っても祈らない ーこの恋と呪いの続きをー

藍舟

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「さくら先生、この後カラオケでも行かない?」

 爽やかな笑顔で、塾の入り口にあるカウンターの向かいから、村松むらまつ翔太しょうたが声を掛けて来た。
 講師の1人で、数学や英語を教えることを得意とする大学3年生の翔太は、明るい茶色のふわふわした髪と人好きのする笑顔が可愛いと、生徒はもちろん、お母さんたちにも人気が高い。
 翔太は現在、うちの塾での売れっ子講師ナンバーワンだ。

「カラオケ? うーん、ごめん。まだ仕事が残っているから。みんなで楽しんで来て」

 塾長として講師たちとは友好的な関係を築こうとしてはいるが、一定の距離を保ちたいとも思っているから、誘われた飲み会などに参加することはほとんどない。そもそも行き先がカラオケでは、ろくに歌を知らないわたしに参加出来るはずもなかったが。
 それに実際、生徒や講師たちが帰った後こそ、やることは多いのだ。

「ええ? また? みんなとかどうでも良いから、2人で行きたいんだけど……」

 拗ねたような顔でもごもごと不思議なことを言われて、わたしは思わずくつりと笑ってしまった。

「翔太くん? ごめんね、先生はまだ忙しいの」
「!!」

 今では呼ぶことのない下の名前でわざと呼ぶと、翔太はみるみる真っ赤になってしまった。
 翔太が高校生の頃、この塾の生徒だった時から、わたしは彼を知っている。どちらかと言えば背の低い方だった翔太も、今では見上げなければならないほどすくすくと成長した。女性の講師などに熱い眼差しを送られているのもよく見かけるようになって、本当に大きく育ったなと嬉しく思っている。
 思い返せば、出会ってすぐの頃から、翔太はわたしと2人で出掛けたいと言ってくれていた。ずっと恋人の気配すら無いわたしのことを気遣ってくれていた、いや、今もなお、気遣ってくれているのだろう。翔太は本当に心根の優しい子だ。

「いつまで……なんだよ……」
「え?」

 書類に目線を戻していたわたしの耳には、翔太が何を言ったのかがよく聞き取れずに聞き返した。

「いや、なんでも……じゃ、また明日。さくら先生、ちゃんと休んでよね」
「うん、ありがとう。お疲れ様でした」
「お疲れっ、した」

 最後まで、何だかもごもごと言いながら帰っていく翔太の背を見送って、わたしは再び書類に視線を落とした。

「さてと」

 各授業後に講師たちが書いたレポートを確認し、生徒たちの出席情報に目を通してから、東京本部に今日の日報をメール送信して業務は終了とした。
 受験シーズンも終わり、今は生徒数も授業数も少ない季節だ。
 次の試験の頃にはもう自分は居ないのだからと、次の塾長のために作り始めた受験のための引継ぎ資料も、今日の作業でとりあえず一段落ついてしまった。あとは、この塾を去る日までに起きたことを毎日補足していけば良いだろう。
 ひと仕事終わったことにホッとしながらも、心のどこかで寂しいと思う気持ちをわたしは溜息一つで押し殺した。

 ーー寂しいだなんて、今更でしょ。

 知り合いのいない地元から離れた大学を選んだのも自分なら、大学でも友人を作ることを避けたのも自分。来るべき最期の日に向かって、着々と準備を進めて来たのは、他でもないわたし自身だ。
 最低限の生活必需品だけしかないささやかなアパート暮らしも、後片付けをしてくれる誰かに、出来る限り迷惑を掛けないため。
 ここまで自分の意志で用意しておいて寂しいだなんて、我ながら本当に呆れた話だ。
 日付が変わるギリギリの時間。塾長になってからは、そのくらいの時間に塾を出るのが当たり前になっている。帰り道にあるコンビニへと向かいながら、仕事も一段落ついたことだし、明日からはもう少し早く家に帰ろうと心に誓った。
 早く帰ったところで誰が待っているわけでもないが、1人の空間にいる時間を増やし、人との関わりを緩やかに絶っていくこともまた、最期の日に向けたわたしの準備の一つとなるだろう。

 家から職場までは、わずか徒歩15分の距離だ。
 電車に乗ることもないこの街に住むことを選んだのは、なるべく多くの時間を塾の――子供たちの側で、過ごしたかったからに他ならない。生徒の住むこの街で一緒に暮らすことが、わたしにとっては当たり前のことだった。
 あと半年。それだけの期間を、生徒の笑顔を見守りながら過ごすことが出来る。それはわたしにとってなによりも幸福なことだ。
 今のわたしに、これ以上何を望むことが出来るというのだろう。

 ――そう、思っていた。
 そのわずか2日後、本当に偶然、『彼』に出逢ってしまうまでは……。

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