神に会っても祈らない ーこの恋と呪いの続きをー

藍舟

1

 駅前商店街の一角にある雑居ビルの5階。そこの半個室の中では今、カツカツという力強い鉛筆の音が響いている。
 わたしはこのカツカツという音が好きだ。この音を聞いているときほど心安らぐ時間は、他にはないと思うほどに。
 一定のリズムを刻んでいたその音が鳴りやむと、小学6年生の健太郎が大きくて賢そうな眼差しをわたしに向けた。

「さくらせんせい、これでいい?」
「はい、よく出来ました」

 間違っていた計算問題をやり直して、このページにもようやく花丸が付いた。

「よっしゃっ!」

 ニッと嬉しそうな笑顔になった健太郎につられて、わたしの頬も思わず緩む。
 健太郎の字は、決して綺麗ではない。だが、消しゴムで消すのが困難なほど力強いその字から伝わってくる、心の真っ直ぐさというのか、まだ挫折を知らない子供の強さというのか――そんな純粋なものに、わたしは憧れにも近い想いを抱く。

「今日もいい字だね」

 わたしがそう言うと、健太郎は大きく口を開けて笑った。

「そう言ってくれるの、さくらせんせいだけだ」

 健太郎の健康的な頬が、少し赤く染まっている。それに気がついて、わたしの頬はまたも緩んだ。
 健太郎には、いや、もちろん他の子供たちにも、このまま真っ直ぐに育っていってほしい。わたしはそう強く願わずにはいられない。
 わたしには、それを最後まで見守ることが叶わないから、余計にそう思ってしまうのだろう。

 ーーわたしの名前は、栗須くりすさくらという。
 大学時代に始めた塾講師のアルバイトが性にあって、大学を卒業してそのままその会社に社員として残った。
 26歳になった今は、埼玉県鳩ヶ谷はとがや市にある学習塾の塾長を任されて日々を過ごしている。
 この仕事を選んだ理由はわたしの中では明確で、子供たちの笑顔に包まれて生きる日々を、心から望んだからだ。
 そうして実際に、子供たちから向けられる純粋な笑顔に、わたしは毎日救われている。
 それに、子供たちを通して未来を感じることが出来ると、なんだか自分も一緒に未来へと行ける気がするのだ。
 そんな温かな錯覚に、ただ浸りたいだけかもしれないが……。

 ――誰に言っても信じないだろうが、また信じてほしいとも思わないが、わたしの寿命はあと半年と決まっている。
 不治の病で余命宣告を受けているということではない。ただそれは決まっていることで……。
 27歳の誕生日を迎える前日に、わたしの命は尽きる。
 物心ついた頃には、わたしはもうそのことを知っていた。それがわたしに与えられた寿命なのだと。
 そして、もう1つ。早くに両親を喪ってしまう運命であったこともまた、この国でも変えられないことだったのだろう。

 ーーわたしには、過去の記憶がある。
 本来なら前世の記憶という方が正しいのかもしれないが、そう言ってしまうにはあまりにも鮮明過ぎる記憶が、それをよしとしてくれない。それにあの国で生きていた自分とは、全く違う人生を生きているはずのわたしが、今もまだ、あの国で背負っていた運命を背負わされている。そのこともまた、前世――もう終わったこと、だと思えない要因だろう。
 そしてわたしには、どうして今もそんな運命の中にいるのか、その理由も分かっていた。
 だからわたしには、この運命を受け入れるしかないのだ。あの国でも、そうして生きていたように。

 わたしにとって、昔の記憶があるということは決して悪いことばかりではなかった。有難いことに、小・中・高と学校の授業さえ聞いていれば、わたしはほとんどの教科に対してよい成績を修めることが出来たのだから。
 お金はなくとも特等生制度を利用して大学にまで行けると分かってから、大学に行くかどうかは慎重に悩んだ。何と言ってもわたしに与えられた時間は限られている。だから懸命に探したのだ。何か、この世界でやるべきことはないのか。やらなければならないことが、何かあるはずだ。何かあるはずなのに、と。
 だが、過去にはあったはずの、やらなければならないことは、今のわたしには何もなかった。
 結局、途方にくれたまま大学に行ったお陰で、塾講師の仕事に巡り合うことが出来たのだから、わたしの選択は間違ってはいなかったのだろう。
 何故教師を目指さなかったのかと言われれば、答えは1つしか無い。わたしが望んでいたのは、出来うるかぎり子供たちの側にいることが出来て、そしてそのときが来ればひっそりと消えていくことが出来る、そんな立場だったからだ。
 残念ながら、教師ではそれは困難なことに思えた。

 ――そして今わたしは、子供たちの成長を見守りながら、穏やかな想いで、あと半年後に迫った最期の日を待っている。
 わたしがあの国を去ってからどれほどの時が流れたのかは、もう分からない。
 この世界には、あの国は存在しない。どれだけ調べても、古い文献の中にすら、あの国の姿を見出だすことは出来なかった。いや、もし実際に探し出すことが出来たとしても、もうわたしに出来ることは何もありはしないのだが。
 今はただ、この身に刻まれた罪の証を静かに見つめ、許された命の期限まで精一杯生きるだけだ。わたしには、それより他に道などないのだから。

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