アイドルとマネージャー
第1章 橋本結衣という少女
おぃおい、俺は事務所を間違えてしまったのか?と、疑いたくなるような光景だった。
かつては沢山のスタッフがいた事務所のはずだが、今は誰も座っていない。
出社していないとか、今は出払ってるなどと説明されても、誰も納得しないだろう。
何故なら、机やパソコン、本棚など、働く為に必要な道具が何一つ残ってなかったのであった。
「…離して」
「……!?す、すいません」
力強く握った所為か、マフラーが床に落ちてしまっていた。マフラーが無くなった事により、姐さんの綺麗な鎖骨が見え、思わずドキッとしてしまう。
馬鹿か!俺は…そんな事よりもだ。
「…姐さん。俺がいない一年間の間に、一体何があったんですか?」
決して、儲かっているような会社じゃないのは、分かっていた。稼ぎ頭の神姫雪以外は、無名のタレントばかりだったからだ。
我がサクラプロダクションは、千尋が18歳の時に、会社を立ち上げると言ったのがきっかけで、出来た芸能プロダクションである。
つまり、今年で5年目の若い会社。
そんな若い会社などに、入ってくる仕事は少ない。
「まさか雪が居なくなったから、収入が激減してしまって…って、そんななわけないですよね」
「…馬鹿なの?」
床に落ちたマフラーを拾った姐さんは、マフラーをハンガーにかけながら、説明をしてくれた。
「ペナルティーよ」
その言葉を聞いた俺は、固まってしまう。
「そのマヌケ顔を見る限りだと、察したようね」
ペナルティー。
他の会社や、事務所がどうかは分からないが、我が社では仕事を引き受けると、契約というものが発生する。
何の契約かを簡単に説明すると、仕事をもらううえで、不利益な事をしないという契約である。
例えばの話しだ。
通常、芸能界での仕事にはスポンサーがつく。
神姫雪にスポンサーがつく事により、神姫雪の仕事が増える。
神姫雪の仕事が増える事により、神姫雪を世間に多く知ってもらえると同時に、スポンサーも、世間に多く知ってもらえるということになる。
わかりやすく言うのであれば、WIN、WINの関係と言うべきなのだろうか。
『いつも神姫雪が着ているブランドの服って?』『〇〇だって!今度買いに行こう!』みたいな感じだ。
しかし、いい事ばかりではない。
ペナルティーとは何か?
答えは、違約金の事である。
先ほどの話しの、逆だと想像してほしい。
『神姫雪と同じ服とか、買わないよねぇ〜』などという事になれば、悪いイメージのまま、世間に知られてしまう事になり、スポンサーの利益が落ちてしまう。
だがしかし、これが不利益かと言われたらそうではないはずだ。
だってそうだろ?好き嫌いなど人それぞれであり、神姫雪の事が好きな人もいれば、嫌いな人もいるのだから。
つまり、神姫雪に落ち度はないはずである。
では何故、ペナルティーが発生してしまっているのか?それが、俺には分からなかった。
「ま、待って下さい。な、何でペナルティーが発生するんですか!」
そう聞くと、姐さんは俺の目を、真剣に見つめながら説明してくれた。
「雪が自殺したからよ」
「……!?し、しかし、それは」
「それは?何?言ってみなさいよ」
仕方がないなどと、言えるはずがなかった。
どんな理由があってもだ。
自らの命を絶つ行為は、決して許される行為ではない。
「修二がここにいるって事は、雪の母親から全てを聞いてるって事でいいのよね?」
「…はい」
「余命宣告を受けていたのは事実よ。そして私達はそれを知らなかった。けど、問題はそこじゃない。そうでしょ?」
そういう事かと、俺は理解した。
「この問題を全て、雪や母親の所為には出来ない。こちら側にも確かに落ち度があった。それでも、私達も知らなかったって事を解ってもらえたから、そんなにペナルティーは発生していないけれど、0なわけがない。いい、修二。アンタが今見ているこの光景が、現実よ」
本当に、本当に、俺は馬鹿だ。
嫌な事から逃げだし、雪を忘れたい一心で、全ての責任を千尋や結衣達のいる会社に押し付け、昼間から酒を飲んでいたような人間が、今更になってノコノコ現れ、マネージャーを続けさせてくれなどと、言えるはずがないではないか。
「他の人達は、その…リストラか?」
「本当に怒るわよ。千尋先輩が、そんな人に見えるっての?」
九段坂千尋とは、どういう人か。
幼馴染の俺が、一番良く知っている。
また、俺と千尋の高校時代の後輩である結衣も、千尋の事を良く知っている。
「色んな人に頭を下げて、全員の転職先を何とか見つけ終わったのが、つい最近の事よ」
「…姐さんは、良かったのか?」
「は?アンタ馬鹿なの?」
俺がそう言うと、橋本結衣はゴミを見るような目をしながら、ためらう事すらせずにこう言うのだ。
永久就職先はこの会社だけだ。と。
その台詞をさらりと言ってのける橋本結衣に、やはり俺は、一生この人には頭があがらないだろうと思った。
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