病と恋愛事情

遠藤良二

第31話 退院

今日は月曜日。退院の日だ。でも、あいにくの雨。まるで、俺の退院をこばむかのように本降りになっている。俺はそんなのには負けない。退院すると決めているのだ。調子だってわるくないし。

いまは午前10時まえ。母はいつごろ来るのだろう。なにも言っていなかった。もしかして、面会時刻の午後2時以降に来るつもりなのか。それなら、まだまだだ。

気になってしかたがないので、俺は実家に電話をした。7回目の呼び出し音でようやくつながった。
「もしもし、母さん」
『晃、どうしたの。2時になったら行こうと思ってたんだよ。今日退院でしょ』
案の定だ。
「退院の日は担当医にOKもらってるから何時でもいいんだよ。早く来てくれよ!」
『支払いはいつ?』
「退院するときだよ」
『あんたなにも言ってなかったじゃない。用意してないよ』
「あっ! そっかぁ。じゃあ、俺の家に行って通帳とカードを持って銀行に行ってくれ。暗証番号も教えるから」
母は面倒臭そうに、
『わかったよ』
俺は通帳のありかと、暗証番号を教えた。

母は約2時間後に俺がいる病室にやって来た。
俺はいつでも病院から出られる格好に着替えていた。
「あんた、早いわねー。かえるとなると」
「そりゃそうだよ、病院なんかにながくいたくないから」
母が立っている向こう側に看護師がいた。彼らに聞かれたくないことだったのであせった。その看護師は、
「まあ、若いかたは長期入院はいやがりますよね。自由がきかないから」
その看護師は安藤医師について回診していた女性だった。きっと60まえの看護師だろう。
かっぷくがいい。母は、
「いままで息子がお世話になりました。ありがとうございます」
と、言いながらあたまを下げていた。俺は素知らぬ振りをした。
「ほら、晃。あんたも、お礼言いなさい」
俺は、
「いままでありがとうございました」
と、しぶしぶ言った。俺としては、お金をはらって入院しているんだからそんなにペコペコする必要はないと思った。まあ、今回は母に言われたからお礼を言ったけれど。
「なんだ、言えるじゃない」
「これぐらいはな」
母は機嫌がよくなった。
「じゃあ、行くか」
と、母。
「ああ」
と、素っ気ない返事をした俺。
看護師のまえをとおるとき再度、
「ありがとうございました。と言った」
俺は無言で通り過ぎた。

病院の駐車場に出て、
「荷物はうしろに積んでね」
と、言われた。

母の黒い軽自動車の後部座席のドアを開けて、荷物を入れた。荷物はすべて俺がもっている。母は自分のバッグだけ持っていた。

俺は、助手席に乗った。母はすでに運転席に乗って俺を待っていた。
「たまには実家に来なさい」
母は言った。なので、
「このまま実家に行くか。その代わり俺の家まで送ってくれよ?」
母は、
「んー」
と、うなった。
「面倒だけどしかたないね」
それを聞いて俺はわらった。

とりあえず発車しよう、と母に言うと、
「そうだね」
そう言った。今日はおたがい機嫌がいい。めずらしい。

それから約10分後――
俺は母と一緒に実家に着いた。荷物は車に積んだままにして降りた。空を見上げると、曇っている。いまにも一雨きそうだ。まるで悪魔でも降りて来そうなどす黒い雲だ。

ひさしぶりに来た実家はちいさな一軒家で、古びてきている。本来なら、かべを塗らないといけないけれど、父は51歳で肺がんのため亡くなった。当時、俺は25歳だった。なのでいま、母は年金暮らしのため、そんな余裕はないらしい。老齢の女性がひとりで暮らしているのは夫の遺産でもないかぎり、そんなに余裕のある生活はできないだろう。しかたないことだ。親戚は、俺が業者にたのんで塗ってもらえ、支払いはおまえがはらってやれ、と酷なことをいう。俺だってそんなに余裕があるわけじゃない。冗談もほどほどにしてくれ。そう言ってやりたい。言わないけれど。

実家のなかにはいり、家具の配置はかわってなかった。昔のまま。ただ、冷蔵庫があたらしくなっている気がする。
「冷蔵庫買ったのか?」
「そうなの。先月だったかねぇ、冷えなくなっちゃって。あり金はたいて買ったの」
「現金?」
「そうよ」
「クレジットカード貸してやったのに」
母は真顔になり、
「わたしはカード払いがきらいなの! あんたも知ってるでしょ!」
「知ってはいるけど、無理すんなよ。生活していけなくなったらこまるじゃないか」
苦笑いを浮かべた母は、
「そんな、子どもでもあるまいし。やり繰りは大丈夫よ」
と、言った。俺はそれを聞いて少し安心した。俺はストーブの電源を入れた。

面会に来てくれたひとたちにお礼を言わなきゃ。そう思い、麻沙美と福原さんと勝にLINEをおくった。本文はほとんどみんなおなじ。

俺は居間に行き、テレビの向かいの床に置いてある座布団にあぐらをかいた。黒い木製のテーブルの上に上がっているテレビのリモコンを手に取り、電源を入れた。スマートフォンを見ると時刻は10:38と表示されている。
「母さん、コーヒーくれよ」
台所にいた母は
「缶コーヒーとインスタントあるよ。どっちにするの」
「缶コーヒーでいいよ。どこにある?」
シンクの下にある戸をひらいて、段ボールのなかに手を突っ込み、一本取り出した。
「微糖だよ?」
と、言いながら俺に手渡した。ふと、気付いたことがある。母がすこし小さくなったような気がする。年かな。以前はもっと大きいからだだったと思う。

俺は居間にもどり、もといた席にすわった。缶コーヒーの口を開けてひとくち飲んだ。ほろ苦くてうまい。そう思いながら飲み干した。

しばらくして、雨が降ってきた。まるで、スコールのように。

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