驚かなくちゃいけない病棟666~器具は飛び交い医師は脱ぐ~

ウバク

1 来院

紙の先で擦れた指先に赤が滲むのは人間として当たり前のことだ。だからどうということはない。
しかし、それを皮切りと知らずに放置した結果、私はいつの間にか痛みというものに酷く鈍くなったらしい。

いや、痛みだけじゃない。

笑うことを、喜ぶことを、怒ることを…泣くことを、喜怒哀楽…下手したら感情全てが削ぎ落とされてしまったことにすら気づかなかった。

何もかもに鈍感になっていたのだ。

ーーーー

「えー、よく聞いてね」
「はい」
「貴女は今、不治の精神疾患に罹患している」
「そうなんですか」

ハイスピードでこちら目掛けて衝突してきた自転車が私の頭をカチ割った後、大がかりな手術を終えた。
それで帰れるかと思ったら、何故かその後に動くベッドに縛り付けられたまま、救急車で国立大学付属の病院にまわされた。
白髪頭の小柄な先生は、深刻そうな面持ちでこちらに病名を告げる。聞いたこともない病名を。

「後天性無痛症」
「何ですか、それ」
「感覚という感覚が全て鈍くなる病だよ。現に君は不治といわれても驚きも怖がりもしなかったでしょ。それが無痛症の重度症状…君は外からの刺激に耐えすぎたんだ。もっと早く気づいてればすぐに治せたのに」
「はぁ」
「悲嘆も無し、か…相当重症だな」
「…はぁ」
「治したい?」
「いえ、特に」
「願望も消え失せてる…と……こりゃ本格的にぶちこまなきゃダメだな…ぁーあ…可哀想に」
「可哀想?」
「君には入院してもらう」
「それはできません。明日も仕事なので」
「そういう訳にはいかない。このまま君を野放しにしたら、いつ何処でうら若い女の死体ができるかわかったもんじゃないんだから」
「はぁ…じゃあ、有給とります……とれるかわかりませんが」
「とりあえず、はい、ここにサインして」

私の書いた名前以外英語の書類だった。親指に朱肉を押し付けられ、べたりとサインの横に拇印を擦りつける。
印鑑じゃなくていいのだろうか。

「これが必要書類と案内ね、あと島の地図。全部よく読んでおいてね。あ、あと移動費やら入院費は公費負担されるから、心配しないでいいよ」
「旅費?どこまで行くんですか、私」
「太平洋のど真ん中にある島だよ」
「へぇ」
「そこで、1ヶ月ほど治療してもらう」
「大がかりですね。どうして島なんかに」
「この病、そもそも罹患したケースが少なすぎて被検体が足りてないの」
「私、検体ですか」
「ごめんね、そういうこと。だから国際研究所みたいなところで研究されつつ治してもらう」
「その研究所は、精神病の?」
「いいや、万病の研究所」
「はぁ」
「あー…あと言うことあったかな」
「案内、よく読んでおきますので大丈夫です」
「あ!!あった」
「はぁ」

一人で頭を悩ませていた先生は、ぽんと手を打ってこちらをもう一度、また神妙な面持ちで覗きこむ。

「偽名、つくってもらわなきゃ」
「…偽名?」
「まぁもう俺からは何も言えないしよくわからないんだけど、とりあえずその病院ではカルテでも問診でも何でも、患者は絶対に偽名を使ってくれ、って…お偉いさんが言ってた」
「はぁ、わかりました」
「絶対にだぞ!!どんなに本当の名前を聞かれても教えちゃいけないからな!」
「はい」
「今決めちゃいなさい、偽名、何にする?」
「突然いわれると、些か悩みますね」
「じゃあもう適当に棚に並んでるカルテの中から決めちゃうか、どーれーにーしーよーうーかーなー…」

鉄砲をもうひとつおまけに打って、カ行の棚が選択される。そこから、適当に抜き取られた一枚のファイル。

「あ」
「…どうしたんですか?」
「加藤 正真」
「男性の名前ですね」
「じゃあ、その隣…あ、女の子だ」
「はぁ」
「水主 未来」
「かこ、みらい」
「…ものすっごく特徴的だね」
「覚えやすくて何よりです」
「じゃあ、今日から君は未来ちゃんだ!」
「今日からですか」
「うん、なんてったって今からヘリコプターで行ってもらうからさ、あぁ、安心してね。ご家族とか職場とかはもうこっちでどうにかしておく」
「はぁ…」

…この時から、そこはかとなく前途多難であることだけは目に見えていた。でも、どうということはない。精神病なんてすぐに治る。気の持ちよう、そうだ。気の持ちようなのだ。


ーーーー

「…太平洋のド真ん中」

口からこぼしてみた。船長さんがあれだよ、と指差した先にはどこまでも広がる大洋と小さな小さな島しかない。何なんだろうか。あそこにある、あのドイツにありそうな城が病院なのだろうか。

「いやぁ、体のどこを悪くしたんだい?」
「精神病なので、どことは言え難いですね」
「あぁ…なるほど、じゃあ世話になるのは心療内科か……じゃあ、アイツだな…あー…」
「ご存じなんですか?」
「あぁ、俺たち相手ならまぁ普通の奴なんだが…アンタみたいなお嬢さんがアレに何をどう治してもらうんだか……色々と気を付けな」

船長さんはまた島を見やって、やれやれという表情を浮かべた。難儀な人なのだろうか。

「あの」
「何だい?」
「私、騙されてますか?」

ふと沸いた疑問だった。あれやこれやに流されるまま私はどんな状況におかれているのか。

「騙す?」
「本当は身体でもバラバラにされて裏社会に売られるんですか?」
「それは無いよ安心しな」
「そうですか」

じゃあいいのだが。

ーーーー

「ここを真っ直ぐ歩けば病院だ。正面玄関ならドアベルがあるから五月蝿い程に叩いてやりな」
「わかりました」
「治療頑張れよお嬢ちゃん」
「はい」

足場の悪い砂浜と岩とでできた坂。そこに大量にある難儀な案内の看板。何ヵ国語で書かれているかもわからない赤地に黒字の看板。至るところに貼り付けられたそれから日本語を探すより、青空と丘のコントラストの間にある建物を見て目指した方が早いのは自明の理だった。

「ぁ…入り口」

ドアベルがあった。あの古い奴だ、金古美色で重たいノック用金具。映画で見る、壁にかけられたリングみたいな奴。このサイズ感で城…病院内に音は届くのだろうか。届く気がしない。なるほど、五月蝿くなるほど叩けとはそういうことか。

「……いいのかな」

いいのだろう。コンコン。コンコンコン……。
段階的に強めていく。最後にはドアを破壊するのではという程の力加減で金具を叩きつけていた。

「あーあー、今開けるよったく…」
「…?」

玄関横に飾られていたセンスの無い悪魔みたいな置物が正面に向けていた首を90度回してこちらに話しかける。
口元にスピーカーがついていた。ここから話しているのか。何故時代遅れなドアなのにインターホン設備だけはしっかりしているのか、甚だ疑問である。

「そこ、足元にカーペットあるだろ、捲れ」
「はい」
「666」
「テンキー。これに入力するんですね」

カーペットの下の鉄板をスライドさせれば、中からインターホンのような数字版がでてくる。6を三回、言われた通りに押して、右下のEnterを叩けばドア金具がぶら下がっていた扉がシャッターの要領で天井に飲み込まれていった。

「ありがとうございます」
「…お前、無痛症患者か」
「はい」
「これに驚かねぇんだから察しはつく……ローゼンベルク!!外来だぞ!!」
「……返事がありませんね」
「チッ…あのバカまだ寝てやがるのか……叩き起こしに行くぞ、ついてこい」

扉の奥から現れた男は、長い廊下の先に叫びかけた。返事がないと、これ以上ないほど綺麗な舌打ちと供に歩を進めていく。彼は白髪ながら年は私と然程変わりがないように思えた。趣味だろうか、根本まできっちりと染めているのは拘りだろうか。

青い目を携えた端正な顔立ちと、しなやかな体。昔々に美術館で見た、有名建築家の彫刻にさも似たりな男の肢体は首を曲げなければ顔も見えないほどの長躯である。

…何故こうも体について叙述しているかと問われれば、彼が一切の服を纏っていない、世に言う全裸だから、としか言いようがない。


コメント

  • 御剣海鳴

    読ませていただきました!!前衛的で続きが気になります(*^^*)

    0
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