忠犬コタ公物語

小鳥 薊

第8話 擦れ違い

おばあとの別れは突然やってきた。

それは或る日の朝のできごと。前日にいつも通り眠ったおばあは、それから永遠に目を覚まさなかった。
カヨちゃんが二十歳の誕生日を迎えた次の日だった。

おばあは、きっと、この日を待っていたのだと、僕は思った。
何よりも、カヨちゃんをこの世に一人きりにすることを恐れていたおばあ。僕が人間になったのは、おばあの強い祈りが、何処かに居る神さまにほんの少し届いたのかもしれないね。
おばあは、カヨちゃんが大人になるまで、彼女の心を守ってくれたのだと僕は思う。

残された僕等の余韻は、皮肉にもおばあの葬儀や手続きに追われることで浸る前に消え去った。
おばあがいなくなってから、僕等はおばあのいない毎日が当たり前の日常なのだと、思ったよりも受け入れられた。それは、おばあの死を受け入れたというのとは同義ではない。決してそうではない。
僕等はおばあが死んでこの世にもういないという事実を、どう解釈して良いものか苦悩した。
人の死というのは難しい。
おばあの死で、僕等の中の大切な何かもまた死んでしまったことに気付かない振りをして生活していた。日常は人の死なんかお構いなしに成立し、時は流れるものだ。

不思議だった。
それから暫くして、大変なことが分かった。
おばあが死んで失ったものは、僕とおばあ、カヨちゃんとおばあという二者間の繋がりに留まらなかった。
おばあの存在――。僕とカヨちゃんが赤い糸で結ばれているとしたら、おばあはその結び目だったんだ。そして、僕にとっては僕と社会との結び目でもあった。
僕は、その結び目を失くしてしまったのだ。

綻んだ端と端の結び方を僕は知らない。
僕と繋がっていたカヨちゃんの赤い糸の先端は、風に吹かれてどこか遠くへ、あっという間に行ってしまったのだった。
結び目を失くした僕の先端は、どこへ行けずに、風にも吹かれず、鉛のように、化石のように、過ごすしかなかった。

ぼく、カヨちゃん、おばあは、三点で立っていた椅子の脚だった。
一本が折れ、ごく自然に今まで立っていたのが嘘みたい。
二人が今までの場所で立っているためには相当な努力が必要だった。そんなこと、意識したことのなかった僕等にそれが、どうして耐えられる。



成人したカヨちゃんは、一年くらい前にスカウトされて入った小さなモデル事務所に所属しながら、掛け持ちでできるバイトをしている。
先日、或る有名なファッション雑誌のモデルに起用され、急に忙しなくなった。
一緒に生活しているはずなのに、ここ数日はカヨちゃんとまともに話ができていない。

カヨちゃんは、おばあが死んで何だか急に大人になってしまったような気がする。その速度が急すぎて、僕は追い付けない。

「コタ、私ね、この町から出ようと思ってるんだ」
「え」

それは突然の台詞だった。
最近のカヨちゃんは、忙しさで寝る時間が少ないみたいで、いつも眠たそうな顔をしていた。仕事が電車で一時間以上かかるから、それも負担になっているようだった。だけど、カヨちゃんがこの家から出ていくなんてこと、思ってもいなかったことだ。僕は最初、その言葉の意味がよく理解できなかった。

「私ね、これからもっと新しいことに挑戦したいの」

「うん、それは、カヨちゃんの人生だし、僕は応援するよ、でも町を出るっていうのは、この家から出ていくっていうことだよね」
「……そう」
「おばあもいなくなったこの場所に、カヨちゃんがいなくなったら、この家はどうするの?」
「それは、私も考えていた。コタは、この家出ようって言ったら、どうする?」
「僕は――。」

僕は考えた。
この家を捨てるということは、おばあとカヨちゃんとまだ犬だった頃からの僕の思い出を全部捨てていくということだ。
できれば、僕はカヨちゃんと、この家でずっと暮らしていきたい。僕は、そう言いたかった。
けれども、カヨちゃんは僕の返事を待たずに続けた。

「コタは、そうだよね。この場所を出て、都会で生活していくことはできないよね、だって犬なんだもん」
「カヨちゃん」

カヨちゃんは、僕が犬だからと理由を付けて、僕と離れたがっているのかな、とか、ちょっと思った。だって、カヨちゃんは、僕に、一緒にこの町を出よう、とは決して言わなかったから。

「コタ、私ね、コタに言わなくちゃいけないことがある」
「何?」

「私ね、コタよりも大切な人が、できちゃったの」
「え」

「もちろん、コタのことは変わらず大切だって思うよ、でも、おばあが死んで私ずっと考えていたんだ。……恋人の好きとは、違うって」

僕も、それは感じていた。
だけど、それがなんだっていうの。離れなくちゃいけない理由になるのだろうか。

「その、好きな人と、行くの?」
「……もう決めたの」
「じゃあ、僕にこの家出るのかなんて、試すようなこと言わないでよ」
変な期待、しちゃうじゃない、と僕はへへへと笑ってみせた。

「ごめん」


僕等は、そろそろ何かしら変わらなければならないのかもしれない。
壊れた心、壊れた関係性を再構築するために、前に進まなくてはならないのかもしれない。
カヨちゃんは、僕と二人きりでいると、必要以上におばあのことを思い出して辛いのかもしれない。
そういう時は、離れることも必要なのかもしれない。
僕は、何度もその、かもしれない、を繰り返し、自分に言い聞かせるようにしていた。

「――もっと、いろんな世界を見てみたいのよ」

僕は、変わらないことだって大切だって、本当のところ、思う。
だけど、カヨちゃん。君が決めた答えなら、信じて進めばいい。
僕は、僕はどうするの、とは口が裂けてもカヨちゃんに聞けなかった。
僕は、僕は何とかなるさ。犬並みの生命力でね。

「好きな人って、笹原君?」
「え」
「カヨちゃんは、笹原君とこの町を出ていくの? これから、二人で生活していくの?」
「――うん」
「そっか、彼だったらいいな、ってちょっと思ったんだ」

あいつなら、カヨちゃんのこと、本気で好きだ。カヨちゃんのことを泣かせたりしないと思う、きっと。僕は、もういいよ。

「ねえ、カヨちゃん」
「何?」
「僕等は、恋人だったんだよね?」
「――たぶんね」

「僕は、今も昔も、変わらずカヨちゃんのことが好きだよ」
「知っているわ、でも私は、コタと一緒にいても、ドキドキしたりしないのよ」
「ドキドキは、大事ダヨネ」
「コタのことはこの先、嫌いにも、これ以上好きにもならない」

カヨちゃんは遠い空でも見るように言った。
僕は、それを聞きながら、何と返そう、と考えていた。
僕のことは好きだけど、これから嫌いになることはないけれど、この先もっと好きになることがなくて、その好きの度合いを越える人ができちゃったから、僕は一番目から二番目になってしまった、ということなのだろうな。
カヨちゃんの僕への気持ちは、冷凍保存されました、そんな感じかな。
鼻の先端がむず痒い。
僕は、人差し指でぽりぽりと掻きながら、やっと次の言葉を発した。

「笹原君とは、いつから?」
「つい最近のことだよ、高校を卒業してから久々に会って、いろいろ話して――」
「笹原君とは、ドキドキするの?」
「本当は、高校のときからずっと、私は彼のことを好きだったのかもしれない」
「僕がいなかったら、付き合ってた?」
「……かも、しれないね」

「じゃあ、僕はお邪魔虫だ」
「違うよ、コタ……」

「僕は、今でもカヨちゃんのことを考えると胸が苦しくなるよ」
「……コタの好きと、私の好きは本当はずっと違っていたんだよ」
「どう違っていたんだろう、僕には分からないよ」
「私、愛情を履き違えていたんだと思う。コタとは、最初から恋愛じゃなかったんだよ」

履き違えてしまった愛情。
僕の好きと、カヨちゃんの好きにはどんな相違があって、どの部分が正解で、どの部分が間違いなのだろう。
どうしてカヨちゃんには分かるの。
僕の心を覗いた訳でもないのに、僕の好きとカヨちゃんの好きが違うって言い切れるの。

「……笹原君とは、もう寝たの?」
「なんでそんなこと聞くのよ」
カヨちゃんは、少しイヤな顔をした。でも僕は、カヨちゃんをもっとイヤな気持ちにさせたかった。
どうしてだろう。僕の小さな嫉妬心からだろうか。
会話の間、僕はずっと悲しかったのに、いつしか怒りの感情が横入りしていた。
目の前のカヨちゃんが、僕を俗物みたいな目で見つめている。さっきまでは、懺悔に来た信者みたいな顔をしていたのに。

僕は、そんな愚かな質問をしてしまった後、次に出す言葉を上手く繋げることができない。何を言ったらいいのか、分からない。
カヨちゃんに嫌われたくないという気持ちはあるのに、そのための文章が、浮かんでこない。
そうしてとうとう、僕は自分のふがいなさにお手上げ状態で言った。

「カヨちゃんは、カヨちゃんの人生を生きてください」

「ごめんね、コタ」

僕は返事をしなかった。

「今はうまく言えないけど、私にとってコタは私の社会とは別世界の住人だから、私は大人になって働いていかなければならないから――コタとはもう離れなくちゃいけないの。」

僕にとってカヨちゃんは、カヨちゃんこそがこの世の全てなのに、そのカヨちゃんにとって僕はそうじゃない――矛盾を、これから僕はどうやって受け止めて生きていけばいい。生きていく必要は、あるのかな。
けれども僕は、自分で死ぬことなんてできないし。ここで生きていくことしかできない。
君を失くして生きていくためにはどうしたらいい、まずは食事、食べることだ。それから、何をすればいい。僕は、何のために生きればいい。僕は、明日のことを考え幾らか萎えた。




カヨちゃんは、次の日荷物をまとめて出ていった。
僕は、寝息を立てている振りをして、カヨちゃんが出ていくまでの様子を、耳で感じていた。
カヨちゃんは結局、僕には声を掛けないで家を出ていったんだ。別れが辛いのか、僕に後ろめたいのか。
僕は、なんだか怖くて自分からは起きていけず、カヨちゃんが声を掛けてくれるまでは寝台から出ないと決めていた。
カヨちゃんの気配が完全に消えたとき、僕は、愚かだな、そう確信してようやっと寝台から這い出た。

カヨちゃんの残り香と、おばあの線香の匂い。僕の、懐かしの匂いだ。けれどもこれからは悲しみの匂いだ。
別に、永遠の別れではない。カヨちゃんの帰る場所はここだ。

カヨちゃんは、落ち着いたら連絡します、という置手紙をテーブルの上に置いて出て行ったみたいだ。
吐息で吹き飛んでしまいそうな軽いメッセージ。僕は、それに触れることが、どうしてか分からないけれどできなかった。

一人になった家の中で、僕は今一度、考えた。
カヨちゃんって、僕にとって何だろう。
この世界で、おばあと同じくらい大事だ。
おばあを好きなままおばあは死んだから、これから僕は、おばあの亡霊みたいな思い出と一緒に、生きていくのだ。
だから、カヨちゃんとも、これからもう二度と会わなければ、それと同じように、僕は思い出だけで食べていけるはずだ。
カヨちゃんともう二度と会えなくても、僕はきっと死ぬまで馬鹿みたいにカヨちゃんのことを想っているのだろう。

もしも、カヨちゃんがこの家から去る間際、僕を呼び覚まして、もしも冷めた目つきで、もう犬に戻れば、って言っていたら、僕は魔法が解けたように、犬に戻っていたような気もする。
戻り方なんて分からない。
人間になる方法だって知らないのだから。
人間として長いこと生きてきた僕はもう、犬の言葉が分からない。人間の言葉を使うようになってから分からなくなった。
犬でもない、人間にもなり切れない不完全な姿のまま、もう、以前の僕に戻ることなんて、できないだろう。
僕はこのまま、カヨちゃんが戻らなかったら、半人前のまま一生一人で生きていくのだろう。

それでも、犬の方がまだマシだったかもしれない。
僕は本当に、これから一人で生きていかなければならない。

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