忠犬コタ公物語

小鳥 薊

第1話 カヨちゃん

藤谷カヨ。
フジタニじゃなくて、フジヤと読む。
僕は難しくて漢字では書けないけれど、とにかくにも、フジヤ・カヨ。

カヨちゃん。

カヨちゃんって僕は呼ぶ。

手足が長くて、とても美しい、でも前髪だけちょっぴり癖毛のことを気にしている、綺麗な少女。

カヨに漢字はなくて、カタカナのカヨ。
僕の、コタって名前と同じ、カタカナ。
カヨちゃんのカヨ。
カヨって名前は、僕にとって特別な響きだ。
僕はそれを、他の言葉とは区別して認識できる。けれど残念なことに、カヨって言葉にできない。

どうしてか。

カヨと、その他の言葉の違いは分かる。なのに、人間じゃないから、僕はカヨって、人間の言葉で発音できないんだ。
どうやったって、
「ワン」
とか、
「ウー」
とか、人間には理解できないでしょう。

僕の中では、ちゃんと、カヨちゃんって呼びかけているのにさ。人間には全然理解してもらえないんだよね。

僕は、カヨとボールの違いが分かる!

それを、声に出してみたいのに、こんなに難しいことって、この世界にどれほどあるのだろう。

僕は、カヨちゃんが好きだ。おそらく世界で一等、好きだ。
ずっとずっと、たとえ僕が死んでも、カヨちゃんが死んでも、この気持ちは変わらない。

カヨちゃんっていうのは、僕の飼い主で、飼い主っていうのは、僕に寝床と食糧を与えてくれて、遊んでくれる存在である。
僕は、カヨちゃんに、あれやれ、これやれ、って言われたら文句の一つも言わないで、あんなことも、こんなことだってするんだろう。飼い主って僕にとってそんな存在。
僕は元々は、カヨちゃんとおばあの住むこの家で生まれたわけじゃない。

僕の遠い記憶、今はもう場所も思い出せなくなってしまったけれど、白い太い柱が二本そびえた門のある洋館。僕はそんな夢のような家の庭で七匹の兄弟と一緒に産まれた。
母親の顔も思い出せないのに、それだけはどうしてか記憶にある。全く、僕の生まれて初めての不思議はこれだ。

変だよね。

こんな記憶、本当に信じて馬鹿みたい。
前世の記憶とか、そっちの方が信憑性もありそう。
でも僕は、あれは僕の確かな記憶だと思っている。それだけしか、覚えていないんだもの。それを信じるしかないからね。

それからどうして僕がその洋館で育つことができなくなったのか、どうして道端に捨てられていたのかを知っている者はいない。
僕は、たった一人で道端に落ちていたそうだ。

「コタは本当に、道端に落っこちてたんだよ」
「そうだったわね」
「私が自転車漕いでるとき、奇跡的に見つけたんだよ」
「うん」
「だから、コタは私のものなの」
僕の傍らで、カヨちゃんとおばあが話している。
「引っ越しの最中だったのかな」
カヨちゃんが言う。
「そうだね、きっと」
「それできっと、誤ってコタだけ落っことしてしまったんだね」
「飼い主が、気付かなかったのね」
「きっと、コタみたいな子っこがいっぱいいたんだよ」
「こんなに小さかったら、啼けないものねえ」
二人は、僕が不幸じゃない理由を考えていたみたいだ。僕は、僕一人が捨てられたんじゃなく、誤って取り残されてしまったのだ。だから僕は決して不幸ではない。
けれども、僕はあのときカヨちゃん運命的に出会わなければ、生きていられなかったんだ。誰かに踏んづけられていたか、もしくは空腹で衰弱して死んでしまっていただろう。
カヨちゃんは、そんな僕を拾っておばあと二人で暮らす家に置いてくれた、僕の命の恩人なのだ。
おそらくそのまま天涯孤独だった僕にとって、カヨちゃんは最初、お母さんみたいな存在だった。まだ目がしっかり見えないときから、カヨちゃんの匂いを逸早く覚え、僕はミルク色の世界に、僕以外の大事な人の存在を知った。

カヨちゃん。

僕の大切な人。
彼女がいないと僕は生きてかれない。
洋館で育つはずだった僕が見ている幸せな夢。夢で見た神さま。

僕のちっぽけな世界には、僕とカヨちゃんと、ときどきおばあと、それだけが存在していた。
僕が少し成長しても、僕とカヨちゃんの決定的違いを知らなかった。
僕はただ僕で、カヨちゃんはカヨちゃんで、僕とカヨちゃんではないのがおばあで、まさか僕とカヨちゃんの見た目とか、種とか、遺伝子情報とか、そういうのが全く別物の存在っていう事実は、そのときの僕には知らなくても良いことだったのかもしれない。僕には皆目どうでも良いこと――。

それでも、少しは、変だなって思うことがあった。
不思議だったのは、僕は数年もしないうちに、植物の幹みたいにすくすくと成長していったのに、カヨちゃんはそんなに大きくはならなかったってことだ。

どうしてかな。
僕の体だけ、時間の流れが早いんだ。
僕は、このことに気付いたときに初めて、僕とカヨちゃんが違う生き物だっていうのを知った。
でもね、僕には確かにそれは衝撃だったけれど、ちっとも厭だとは思わなかった。だって、カヨちゃん、君に早く近付ける。この美しい少女と同じものの見方というものを身に付けたい。カヨちゃんが感じていることの意味を、同じように感じて、この世に起こる全ての事象を共有し、共感したい。

僕にとって、お母さんみたいな存在だったカヨちゃんにはお母さんがいない。それどころかお父さんも彼女が小さかったときにこの世を去ってしまったという。カヨちゃんを育てているのは、彼女の母方の祖母、おばあだ。
僕がここに来て三年、カヨちゃんが中学に通うようになって、それまでは元気だったおばあが、ちょっとしたことで体調を崩すようになった。

「さっちゃんがさ、夏休みにさっちゃんのパパとクラスの子、何人かを誘ってキャンプに行く計画を立てていてね、私も誘ってくれたんだけど、おばあを置いてなんて行けないよねえ」
おばあの寝室から離れた台所で、カヨちゃんはそう僕に言ったことがある。
僕は、カヨちゃんに返答できないから、黙って聞いていた。
「コタもいるし、まあいっか、」
カヨちゃんは片脚をぶらぶらさせながら、弾むように言った。
なかなかお湯が湧かなくて、カヨちゃんは相変わらず、ぶらぶらと足を動かし続ける。
僕も、尻尾を振ってみる。左右に振って、ときどき、その尻尾をカヨちゃんの脚に絡ませながら、ポットのお湯がしゅんしゅん言うのを待っている。ポットはなかなか鳴らないけれど、僕はこの時間が永遠に続いてもいいと思う。
そうやって、カヨちゃんとの時間を過ごした。
たぶん、カヨちゃんと一番一緒に過ごした時代だ。

カヨって響き、カヨちゃんっていうのは、僕にとって特別な存在なんだ。
そのことを、声に出して、僕は思いっきり叫ぶ。

カヨちゃん、好きだー!
って叫ぶ。
でも、やっぱり、一向に、
ワン!
なんだよね。
ワン、ワン!
別バージョンもあるけどね。カヨちゃんには伝わらないんだよ。

僕は犬コロで、カヨちゃんとは出来が違っていて、それでも別にいいんだけれど、カヨちゃんに、僕が彼女のことを大好きだっていうことを、言葉にして伝えられないことが、僕の一番の悩みだ。
数年前はお母さん。それから今は友だちみたいな、兄弟みたいな、大切な女の子。
カヨちゃんは可愛らしい。もうすぐ、美しく成長して誰もが振り返るような女性になるのだろう。
そのとき、僕は、カヨちゃんにとってどんな存在になっているのだろう。そのとき、僕にとっても、カヨちゃんはどんな存在になるのだろう。
僕の好きなカヨちゃん。
僕は、カヨちゃんとこれからも一緒にいられればそれだけでいい。それで十分。
僕はいつか、命尽きる前に絶対に、カヨちゃんに伝わる言葉で、
カヨちゃん!
って、大声で叫んでみせる。

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