夏の仮睡

小鳥 薊

最終話ささくれ

左手の小指の感覚が消えた。
きっかけは些細なことだった。ささくれを見つけたのだ。

どうしても気になるから、もう一方の手で摘まんで引っ張った。
引っ張り出すと、それは予想以上に逆剥けていき、最初は小さな痛み、それから血液に似た赤い色の池が際限なく続くようだった。

ささくれは、まるで毛糸のセーターが解けていくかのように、つう、と剥けていく。やめた方がよかった、と自覚したときには既に手遅れだった。
小指の爪の大きさくらいに広がった赤い池は覗くと闇がどこまでも広がっているようで底が見えない。
痛みという感覚は鈍麻していた――。

少し、哀しかった。



(私の中は空っぽなんだなあ……。)


そのとき感じた。
こうやって、どんどん解れて、私はなくなるんだと理解した。
我に返った。
どうしよう。


心と身体を繋ぐものはなんだろう。
このまま解れていくとしたら、私は一体いつ身体から引き離されのだろうか。
一体いつ、身体として存在できるのだろうか。

――私という人間は、まだこうして息をして、確かに生きている。

それは、確かなことだ。鏡越しに自分を見て、安心する。
ああ、私は生きている――と。

けれども、自分の姿は、鏡を通してしか見ることができないから、もしも鏡がペテンなら……。
ああ誰か、ねえ、カイト、私を見て。
私が見えるか、ちゃんと言って教えて――そうだ、マオは、生きている、と安心させて。


砂時計がサラサラと落ちる速度で、マオという人間が、崩れ落ちている……サラサラと、音がする。

小指に口づけをして目を閉じた。
暫くの間、そのまま静かに呼吸していたが、次には小指をスカートのプリーツの中へ潜ませた。

見なかったことにしよう。

カイトには決して言うまい。心配させるといけないから……。


それから、私は、カイトに言った。

「絆創膏をちょうだい。」

恐ろしい闇を、隠してしまおう――。


「マオ、どこか、ケガでもしたのかい。」

「ううん、カイト。大丈夫なの。小指のね、ささくれが痛いだけなの。引っ張っちゃったのよ。」

「無理に引っ張ってはいけないよ。どんどん、裂けていっちゃうから。そういうのは、爪切りでパチンと切ってしまうのがいいんだよ。逆剥けた傷は、じんじんと痛むだろう。」


(ううん、痛くない。もう痛くないよ、カイト。)



カイトのくれた絆創膏は、小指には少し大きくて、空っぽの隙間を覆うには十分すぎるくらいだった。


(……カイト、ありがとう。)


「カイトは、いつでも、束の間の、極上の、甘い夢を私に与えてくれるね。」

「マオ、どうしたの。」

束の間とか、夢とか、そんな淡い言葉を使うんじゃなかった。
カイトが哀しそうな顔をしてマオを見ている。

(カイト、ごめんなさい。)
そう思ったけれど、本当のことだったから、続けて言った。



「カイト、壊れかけているの、私。」

「マナ……何言ってる?」

「私を、優しく殺してくれないかなあ。」


空が――真っ青な空が、自分めがけて堕ちてくるときの衝撃。
海かと見間違うほどの青さに押し潰されて、窒息してしまうのではないか、という錯覚に襲われる。
しかし、マオの心は驚くほど穏やかだった。唸りを上げて襲ってくる恐怖を、深海で静かに聞いていたい。

私は、自分の最期をもう覚悟していた。これから残された時間の中で自分の最期を自由に演出できるのなら、カイトに殺されたい。

(カイト、ごめんね、ごめんなさいね。)


私の今の望みとカイトが望んでいることは、きっと違うのだろう。
私は何て残酷な女なんだろう。


カイトは思いっきり泣いていた。
大きな右手が、すすり泣く彼の顔をすっぽり覆っており、指の隙間から、きらりと涙が光った。
マオのための綺麗な涙。
彼の泣き声は、マオへのレクイエム。

カイトの左手は、所在なく背広のポケットの中にある。
マオは、どうやってカイトを慰めようか迷いに迷って、しょうがないから、カイトのポケットの中へ自分の右手を忍び込ませ、彼の左手を探る旅に出た。


「カイト、ありがとう。」

見つけた左手に小指を絡ませると、マオもやっぱり少し泣いてしまった。


(カイトの左手、きちんと掴まえられているのかな。感覚がないから、いまいち分からないよ。)








〜〜〜〜〜〜〜〜


ねえ、カイト。

仕方ない。仕方のないことなんだよねえ。

私の意識は、今、ここにある。
確かに。

綺麗な身体と綺麗な心。
世間を知らない私にとっては、カイトが基準で、全てで、今、こうして幸せを噛み締められている。

――カイトが、泣いている。
頭を撫でて、泣かないでって、してあげたい。
でも、もう私の指先が見えない。
結局、カイトに殺してもらう夢は叶わなかったけど、もう暗闇はこわくない。

私の長い旅はようやく終わるんだ。
最後はやっぱり、カイトの傍がいい。


ねえ、カイト。
私が、もう見えない?

この世界って、本当に不可思議ね。


――ああ。






――私が、光っている……。

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