夏の仮睡

小鳥 薊

第16話マオへの気持ち

あの夜、階段の踊り場でマオを見つけてから、もう三日になる。
カイトはあれから、ずっと醒めない夢を見ているような心地である。

「ねえ、カイト、私、迷惑じゃない?」
「どうして?」

「私の帰る場所、もうないんだもの。このままカイトの生活に関わったら、カイトの人生まで変えてしまうでしょう。」
「何言ってるんだ、マオがいてくれる方が、寂しくなくて、退屈もしなくて、僕は助かっているよ。ずっと、ここに居ればいい。」

「近所の人とか、息子さんには、何て言うの?」
「親戚の子だとか、適当に言っておくよ。」

「カイトは能天気ね。」
くすりと笑うマオの表情は複雑だった。

「僕は、本当に君に会えただけで、もうそれでいいんだ。それだけで幸せだ。」
それは、本心だった。
けれど、カイトは不安だった。
世間体の問題じゃない。そんなものは、どうにかなるのだ。偽る事もいくらだって可能だ。マオ一人を食べさせていく余裕だって、なくはない。
けれど、そんなことではないのだ。

カイトの心に引っかかっていること――。
頭の良いマオのことだ、自身もきっと感じているのだろう。
問題なのはこれからどうするのかではなく、これからが本当にあるのか、という疑問――。
二人の時間が、またあの日みたいに、まるで夏の花火のように一瞬で散り消えてしまわないか、ということだ。
永遠なんて、ないのだ。ましてやこの不確かなマオの存在――。
今は眼の前にいるマオとの、二人の時間が惜しい。

「仕事、辞めようかな。」
「どうして、だめだよ。そういうの、一番厭だ。」
「でも、少しでも君と一緒に居たい。」
「カイト、私が居なくなって、どんな人生を送ってきた? 幸せだった? そして、私がこうして現われなかったら、どういう人生を生きていくつもりだった?」
「僕は、マオが突然消えてしまって、とても寂しかったよ。一番、君に夢中になっていたときに、君が僕の中の大半を占めていたときに、君は消えてしまったのだから。心を全部、持っていかれた感覚だった。けれど、その状態では人は生きていかれないから、僕は、僕の中からマオを消すんじゃなくて、閉じ込めた。描いた未来とは違っていたけれど、十二分に幸せだったよ。結婚もして、子どもも生まれて――。今は二人とも、僕から離れてしまって、また一人になってしまったけれどね。本当は、このまま教師を続けて、定年まで働いて――何のことはない、趣味なんかも一つは見つけてそれなりに充実した日常を一人で生きて、死んでいくんだと思っていた。」
「カイト、それなら、その人生に限りなく近いところにずっといて。たとえ私が居ても、そうしていて。私のためにカイトの人生を変えないで。」

黒くて深くて、強い瞳だった。
そして、それがカイトとマオの約束となった。

どうしてマオは、そんなことを言うのか。
マオにだって幸せな人生を送る権利がある。
もしも自分の残りの寿命をマナへあげられるならそうしたい。カイトは本気でそう思うのだが、マオは、カイトに対してできるだけ透明に近い存在でいることを望んだ。
カイトがマオのために生きることを、望んではくれなかった。
それが彼女のプライドだった。




休日の午後。カイトは気分が良かった。
「こんなに晴れた休日だ。買い物へ行こう。マオの服や食べたい物、何でも良いから買いに行こう。」

思えば、あの頃二人が会うのは決まって夜の学校で、昼間に会う約束をして出掛ける仲になれるまで、二人は一緒にいられなかったのだ。


妻の遺品をマオに着せるわけにもいかず、とりあえずの三日間、マオには、息子、カナタが置いていった少しサイズの小さめなユニセックスの服を着てもらった。
マオは意外にもカジュアルなスタイルが好きだと言った。

「私、本当はこういうの着てみたかったの。」

少し緩めのジーンズに、幾何学模様のデザインが入ったTシャツ。姿見を覗き込み、少し離れ、
「これも!」
と置いてあったキャップを被ってはしゃぐマオを目前にし、自分もあの頃の自分に戻ればいい。戻れるものなら、戻ろう。

けれども埋められない壁。
重々、承知である。鏡に映った二人の姿は、恋人と呼ぶにはあまりに滑稽だ。
三十五年の時を経てマオへの愛しさは今も変わらないように思う。しかし、あの頃の若々しい自分はもういない。マオを見つめるこの瞳も、三十五年分使い古したアンティークだ。
それに比べてマオは若々しく輝いている。
この感情を、どう言おう――言葉ではどうにも言い表し難い。

マオとカイトの間に生じた物理的な壁――それは、外に出て、他人の目を介せば尚一層、思い知らされる。



「ねえ、街並みは変わってしまったんでしょう。私がよく行っていたお店もなくなっちゃったんだろうな。」
「うん――行ってみる?」

久々に乗った地下鉄は混んでいた。
「地下鉄はあんまり変わらないね。」
「そうだな。」
「若い子も、たくさんいるね。」
マオは、言葉少なげだったが、嬉しそうだった。
マオは今、置いてきぼりの自分と世界との共通点を必死に探している。変わってしまった街並みの中に、不変のものを見つけると安心するみたいだ。
けれど、よくよく見ると、地下鉄だって駅の名が変更になったり、改装されたりしている。
また、同じ歳の若者だって、生きた時代が違うのだから、ファッションや嗜好が、マオとは同質のようでやはり違うのだ。不変に見えて実は不変なものなんてないということを、マオだってきっと感じているんだろう。


けれどもマオは、笑うのだ。
再び、肉体を介して風を感じ、匂いを嗅ぎ、疲労を味わう。喜びながら呼吸する。


「マオ、はぐれてはいけないから、ちゃんと後ろに付いてきて――掴まってもいいから。」
カイトの声で、今まで周りをきょろきょろしていたマオは駆け寄り、彼のショルダーバックの隅を少し、掴んだ。
手を繋ぐよりは頼りなく、触れていないよりは確かな距離を、二人は縮めもせず、歩いた。
カイトはときどき振り返っては、マオがいることを確認している。マオの、足音は静かだ。周りが賑やかすぎるだけかもしれない。


地下街は思ったよりも鮮明で、眩しい。そんなに照らすな、と思った。
擦れ違う人の波は、溺れるくらい絶え間なく押し寄せてくる。
周囲は二人をどう見るだろう――自意識過剰だろうか、カイトが思うよりほど誰も自分らには興味がないだろうか。自問自答しながら歩く。
飛び乗った車両の鏡に二人の姿がちらと眼に入る。

(ほら、まるで親子だな。)

そう思ってすぐに、鏡越しのマオと目が合った。
目が合ったマオは少し、不安げな表情をしていた。カイトの表情から何かを感じているのだろうか。
安心して、ここにいなよ――少し微笑んでマオの頭上に手の桟を作る。マオが押し潰されないようにするためだ。

マオの吐息が胸元にかかる。

カイトの目線のすぐそばマオの鼻先がある。鼻筋の綺麗なラインだ。
直視してよいものか悩んだが、他に目線のやり場がない。
そんなカイトを、マオはずっと上目遣いで見ている。
二人はまた目が合い、そうするとカイトが視線を横の方へとずらす。それを、さっきから幾度となく繰り返している――。
マオだけは、ずっと見ている……。




「最後に映画、見たいな。」
買い物を終えて、マオが言った。

近くに、古くからある小さな劇場があった。
そこは、確かマオも知っているはずである。
古びた映画館である。数年に一度、取り壊しの話が出るのだが、今のところは奇跡的に改修工事のみに納まっている。

到着すると、マオはこの映画館に入ったことはないと言った。
「何だか古くさくて懐かしい、私の時代だね。」
と笑った。

マオが選んだ映画は、甘いラブストーリーではなく、話題のアクションでもなく、静かなヒューマンものであった。
カイトには、内容はあまり入ってこなかったのだが、子どもがたくさん、出てくる話だ。

なんのシーンだったか、主人公のセリフで印象に残ったセリフが、今の自分と重なる。
――貴方は、選ばなければなりません。
――私の人生を取るか、子どもたちの未来を取るか。
――貴方の過去は、私にあったのです。


字幕が絶えず流れている。
マオは中盤で、カイトの手を握ってきた。カイトもその手を、黙って握り返した。
二人は、互いにスクリーンを見つめている。

観客はまばらだった。
エンドロールまで、手を握っていた。
マオの手は最初、冷たかったが、互いの体温が解け合い、最後には少し汗で湿っていた。エンディング曲が終わると、ゆっくりと周囲が明るくなる。

「ねえカイト、目が慣れるまで、座っていましょう。」

映画を観終わった後の余韻――マオは、それが好きなのだろうか。それならば、余韻と一緒に帰ろう。
カイトは、握ったマオの手を、マオの膝に送り届けると、さあ、もうお終い――そう言うように、マオの膝をぽんと叩き、立ち上がった。


繋いだ手を離したのは、カイトだった。



正直に言おう。
年老いた今の自分にとって、マオは眩しすぎた。
あの当時、マオに対して抱いていた感情も扇情も、所有しているのは昔の自分だった。手に入れたくても、今の自分には手に入らない。
カイトは歳をとらなければならなかった。マナと釣り合う自分を持ち続けようと努力はした。
けれど、カイトにとってマオは、郷愁だ。とても愛おしい、永遠の光。

マオにとってはどうだろう。
想像してみる。
同い年の少年が、次の日から初老となっている。昨日の話の続きは、もう遠い過去のことだと言って忘れてしまった。
結婚もして子どももいる人生を歩んで、ずっと先を歩いてしまった。
話す声はどこか一緒で少し違う。

やはり滑稽だ。

けれど、彼女のことだから、それすらも受け入れて父親同然の男とまた恋に落ちるのもそれはそれで良い。落ちる覚悟があると簡単に言うのだろう――マオはそういう年頃なのだ。
そして、自分は限りなく透明であろうとし、愛する人に尽くそうと、それが自分に与えられた試練だと、マオは思っているのだろう。
カイトからすれば、そんなのは間違いだ。少女の幻想だ。そんな考えは捨てて、自分が主人公の人生を歩むべきだ。

自分のマオへの想いは、どうだろう。
マオはあの頃のままのマオだ。愛おしいと思い続けていた彼女そのものだ。疑いもせず真っ直ぐに、ただカイトだけを見ているその瞳も――まるで変わらなさ過ぎている。
カイトは、やはりマオが気の毒でならなかった。
大切にしたいと思うが、自分には、触れ方が、接し方がわからない。
せめて自分が息子くらいの歳ならば、マオと並んで釣り合うくらいの姿なら、どんなに良かっただろう。
すまないと思う。
自分は、マオの恋人にはなれない。

(君に僕の全てを捧げよう。でも君は、違うんだよ。)


自分に問いてみる。
マオを抱けるか――?

そんなことは、許されない。そんなことはできない。

――そうだ、自分は意気地なしだ。
また昔みたいにマオに恋しようなんて、馬鹿げている。そして誓った、もう恋はするまいと。そんなものは夢の中でだけと、家族を持ったときに決めたじゃないか。

こんなことを言えば、マオを傷つけるだろう。
けれど自分は、どんなことがあっても、これからの人生、マオを守って生きていくことを諦めない。そして彼女の幸せを一緒に探していこう。
だから、決して言うまい。

今のカイトだからできる、マオを守る術がある。
若かったあの頃にはできないことも、大人になった今だからできる。

(君が望むなら、死ぬまでずっとそばにいよう。)

(そして、君が望んだら喜んで身を引こう。)

(――本当に、慈しむように、心の底から愛しているよ。)



人は父性と呼ぶのだろうか――愛をラベリングするのは難しいだろう。
カイトの愛は複雑だった。カイト自身も混乱している。
かつて恋焦がれていた、美しい彼女。

マナ。


夢でずっと恋焦がれていた、永遠の少女。

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