夏の仮睡

小鳥 薊

第13話父と母

墓参りに行って用を全て足したら、すぐに戻るつもりだった。
しかし、不意に蘇った記憶の中の母の言葉が気になって、どうにもこのまま帰るわけにはいかなくなった。

カナタは、父に真相を問い質すことに気が進まなかった。
もし聞いたとして、カイトはどこまで話してくれる?
どんな理由があろうとも母は自殺したのだ。
年老いたカイトに、過去の辛い記憶を読み戻させて懺悔させるような真似は、本当はしたくない。
けれど、あの記憶が真実だとしたら――。
自分が他人と比べてどこか冷めていること、人の愛し方が分からなかったことも、もしかしたらあの記憶が関係しているのかもしれない。

母の言葉、死ぬ直前の母の記憶を、こんなにきれいさっぱり忘れていたなんて――。

しかし、きれいさっぱり忘れていた記憶を、どうして突然、思い出したりしたんだろう。

カナタはあのときの母のことを思った。
母は、どうして幼いカナタに打ち明けたのだろう。
ひょっとすると、カナタも連れて行こうとしたのか――それほどまでに、病んでいたのか。わからない。


(何処からどう見ても幸せな家族だったのだ。)

(あれは、本当に母さんの台詞なんだろうか。)

(母さんの声の記憶と、自分の記憶のどこかのプラグが誤って接続されたのだろうか。)


(そもそも親父の、愛した人って――。)

そんな人が、あるはずない。父は器用な性格ではないし、浮気なんてできるはずがない。それに、カナタから見ても、父の愛情は母にも自分にも確かに注がれていた。

けれど……、もしも、そんなことが起こり得るとするならば――。


瞬間、どうしてかマオの顔が浮んだ。
そして、浮んだと同時に却下した。
それこそ、あり得ない。
父は嗜好も性癖も絶対に平凡な男だ。

父とマオは遠い血縁者だ。マオに若き日のマオの母親を重ねることはあるかもしれない。
だとすると、父の愛した人はマオの母親か?――だからそんなに、マオへの眼差しが優しいのか――。
確証などない、全てカナタの想像だ。



想像の物語だ。
もしも、父の愛した人がマオの母親だとしたら、パズルのピースの一固まりが一気にすっきりと、填るには填る。
そうすると、母の浮気は淋しさを埋める手段だったのか。そうやって、父ではない別の男にいつのまにか嵌っていって――カナタを放っておいたんだろうか。
カナタのことなど、二の次だったのだろうか。

不完全な昔の記憶を辿る旅は、カナタにとっては辛いことであった。
自分の欠乏を、父の不幸を、そしてこれらが紡いでいく負の連鎖の引き金になった最初の人物は誰だ――。
そんなことを考えるのは、決して答えが出たとしても、虚しい。


(母さんは、親父を愛していた。)

(そして、親父もまた、母さんをちゃんと愛していた。)

たとえ、父とマオの母親がかつてそういう関係にあったのだとしても、結婚した後となっては、父は絶対に不実なことはしないだろう。関係は終わっていたはずだ。
カナタの母が亡くなってからだって今の今まで、女の陰など微塵もなかったのだから。

父の愛情は、誠実である。
カナタは、そういう面はカイトに似れば良かったのに、皮肉にそう思った。



しばらく車を走らせていたカナタであったが、少し休憩がしたくなったので、見えてきた喫茶店に車を止めた。
ここは、最近出来たのだろうか。前に通ったときにはこの場所に何もなかったはずだ。

店内はこじんまりとしていて、客は数えるくらいしかいなかった。
カナタはここの雰囲気が嫌いではなかった。

窓際の二人席に案内され、窓を眺めるように通路へ背を向けた恰好で座った。
案内した店員がそのまま席を離れる前に、ホットコーヒーを注文した。店員は、
「畏まりました」
と笑顔で去っていった。


陽が沈み掛けている。
歩道を、女子高生の集団が歩いている。
下校の時間なのだ。
その集団の一部が、店へと入って来た。
店員が彼女らを案内した席は、カナタが今座っている席の、テーブルを挟んで隣であった。
はっきりとは見ていないが、緑掛ったブレザーに紺のプリーツスカート――あれはおそらくカイトの母校の生徒だろう。
静かな店内、決して煩くはないが、女の子達の会話が自然と耳に入ってくる。


「こないださあ、彼氏と喧嘩した。」
「別れちゃいなよ。ミユキとできてたんでしょ?」
「あり得ないよねー、友達だよ。」
「もう、修復不可能だよ。」


もう修復不可能――。


「そういえば、あのニュース見た?」
「見た見たー、なんなのあれ、こわいよね。」
「でも、犯人捕まったんでしょ。」
「死刑でしょ、絶対、死刑、」

「魔法の粉って本当にあるのかな。」
「でも、ああ毎日聞くと、呪文のように覚えちゃうものね。」
「そういえば、うちの学校の生徒でも昔に被害者がいたって噂あるよね。」
「お化けになって出るってやつ?」
「それは七不思議じゃないの、」
「そっか、七不思議のお化けってどんなのだっけ。」



話は、続いている。
席が空いていたのはカナタが入ったときだけであり、それから続けて数組の客が来店し、気付けば席はほとんど埋まっていた。
店内がざわついてきた。
話の続きが気になり耳を澄ますも、とうとう隣のテーブルに座ったカップルの会話に遮られ、女子高生たちの会話は遠く聞き取れなくなってしまった。

学校の七不思議――そういえばカナタが学生の頃も七不思議はあった。
詳しくは知らないけれど、どこにでもあるような学校の怪奇現象を集めたもので、嘘か本当か音楽室のピアノが勝手になるとか、そういうのだった気がする――後は知らない。


魔法の粉の話は、カナタも知っている。
報道を賑わしている連続婦女暴行及び殺人事件の犯人と関連しているようだが、“魔法の粉”とは、犯人の供述を引用した表現だ。

正規の名前は知らないが、物質を目に見えない状態にまで分解する薬品のようで、それを当時少年だった犯人が研究所から盗んだという話だ。
確かに、その事件はカナタが生まれるずっと前に巷を騒がせたそうである。
少年グループの中に研究員の父を持つ者がいたという噂もあるが、そもそも犯人は未だ一人も捕まっていないため、動機や入手ルート云々の前に、事件そのものが迷宮入りとなっている。
この犯人が本当に当時の少年であったなら、大変衝撃的な告白である。
普通の高校生がある日突然、とんでもない凶器を手にしたようなものだ。
地球に存在する、あらゆる物を消し去る魔法の粉――。


ニュースを初めて聞いたとき、カナタは、何処か遠くの国に原子爆弾が投下されたような精神的打撃を受けた。
魔法の粉の具体的な成分、用途等は絶対的な秘密となっており、テレビでは、廃棄物処理の薬品としてしか伝えられていない。

(本当に、物騒な世の中だ。)

壊すのはいつも人間だ。
それが、地球をも巻き込んで人間ごと、壊れていっている。
少しずつ、少しずつ、音も立てないで――。



家に着いた時間は意外に遅く、喫茶店から寄り道をしたわけではなかったのに、すでに真夏の陽はすっかり落ちていた。
父はまだ帰ってきていなかった。

玄関を開けると、ご飯の炊けた匂いと、何かは分からないが、嗅覚をくすぐるような良い香りが室内に立ち籠めていた。

(あの子、いるんだ。)

リビングを通ると、台所に向かって、何やらせっせと動いているみたいだ。
マオは物音で気付いたようで、カナタが横切る調度のタイミングで、くるっと振り返り、おかえりなさい、と言った。
「ああ。まだ制服のままなんだ、帰ってきたばかり?」
「はい、今はテスト期間だから、図書館で少し勉強してきたんです。先生も遅いみたい。」
「そう、」
「ご飯、もう少しでできるんですけど、一緒に食べますか?」
「ああ、いただくわ。何作ってるの?」
「今日は、焼き魚と煮物と、味噌汁です。」
「何か手伝うかい、俺も居候だし、」
「ええと、じゃあ、テーブルの方を――」
「わかった、片付ける、」
「ありがとうございます。」
ちらと見たマオの手際は良い。

いつもこうやって、父の帰りを待って料理をきちんと作っているんだろうか。

帰りがいつになるか分からない父抜きで、二人きりの晩飯をとり、少し、話した。
「親父っていつも遅いの?」
「はい、試験期間は特に――。」
「ふーん、」
聞くと、マオは国立大の文学部を志望しているという。滑り止めに挙げた大学も偏差値の高い名門ばかりだ。
一応、大学は出ているが知名度の低い二流大学出のカナタにとっては、素直に羨ましい気持ちがあった。
その他、同じ高校を出ているカナタは、知っている教師の名前や講義内容などの話題を出してみたが、どうにも世代が違うらしく一向に会話が噛み合わない。

そういえば――と、今日の喫茶店で聞いた女子高生の話が浮かんできた。

「あのさ、うちの学校の七不思議って今でもあるんだね、今日喫茶店で君の学校の生徒が話しているのを聞いたんだけど、」
「音楽室のピアノとか、プールのお化けとか――そういうのですか、」
「そう、俺も全部は知らないけれど、必ずクラスに知っているやつがいて、皆卒業していくのに、話だけはずっと伝わって残ってる――親父に聞いたんだけど、親父が学生のときに七不思議ができたんだって。詳しいことは聞いてないけど。」
「私ね、七不思議の種になった話、知ってますよ」
マオがにやりと笑って言った。
カナタは、身を乗り出し、
「そうなの?」
と、促した。
「あれ、半分は本当にあった話で、あとの半分はお話が七つになるよう誰かが付け足したって話です。本当にあった話の方――カナタさんは、お化けの仕業だと思う?」
「本当にあった話だって知ってるってことは、体験した人を君は知っているってこと?その人から聞いたの?」
「そう、知っているの。しかも、その体験した人――その人がお化けの正体。だから、人間の仕業でした。あ、でもあとの半分は知らないから、もしかしたら七不思議とか関係なく、本当に怪奇現象があるのかもしれないけど。」
「そうなんだ、仕掛け人がいたわけか――。それは、親父から聞いたの?」
「いえ、」
「もしかして、君のお母さん?お母さんも親父と同じ高校……だったりする?」
「……はい。」
「従妹って言ってたよね。親父は従妹のことあんまり知らないみたいな口ぶりだったけどさ……。学年被ってたこともあったのかな。」


一瞬、予感が過った。
カナタは、父とマオの母親の接点を探していたから、調度良かった。
マオは、少し黙っている。

「先生は、何か言っていたんですか?」
「いや、別に何も――。俺は親父の従妹の話、親父に聞いて初めて聞いたから。君は何か知ってたのかなって思って、」
気のせいだろうか――マオの目付きが変わった。カナタに対して慎重になっている気がした。
そういえば朝から、度々感じた違和感。自分のことなのに、尋ねるとマオは必ず、父の言うことをしきりに気にしている。
「いや、別に興味ないけどさ」
ぶっきらぼうに言ってしまった。
この雰囲気で食事を美味しくいただくことは難しい。
するとマオが突然切り出した。
「カナタさんって幾つですか?」
「二十四だけど、」
「やっぱり先生に似てるなー。先生が二十四のときって、カナタさんみたいだったのかな。」
またそれか。マオはどうしてカナタと父を似通らせようとするのか。

「うーん、わかんないけど、俺は別に親父に似ているって思わないしな。」
「私のお母さん、先生に恋をしてたんですよ」

――あ――。

カナタは、記憶の底の、幻想かもしれない母の声を再び思い出した。


――父さんには、私よりも愛した人がいたのよ。


窓が急にがたがた揺れ、風が強いことを知らせてくる。
カナタは、マオの瞳に掴まりそうだった。

(親父を、――巻き込むなよ。)


この娘は、穏やかな生活を手に入れた父の生活を攫っていく、台風の眼かもしれない。
少女から父から遠ざけるべきだ。本能がそう言っていた。

「カナタさんのこと、もっと聞きたいな。」

「楽しい話なんて、何もないよ。」
少し、突き放すように言った。
カナタは、苛立っていた。この少女は何か厄災を持ってくる……そんな予感がして、恐怖を感じ始めている自分に苛立った。

「私、カナタさんに会えるのを楽しみにしていたんです。カナタさんとお話してみたかった。」
「実際に会ったら、つまんない男だったろ。」
「そんなことない。想像以上の人。お父さんのことを好いていて、――でも少し冷たい人。」
マオはしたたかに笑い、カナタもまた、ふっ、と笑い声が漏れた。
「冷たい人か。よく言われる。君に冷たくした覚えはないけど、君はエスパーかな。」
「冷たいって、他人にじゃなくて、自分にって意味です。でも、私は好きにはならないタイプね。」
「よくわからんけど、……俺だって、女子高生なんて扱い方知らんし、対象外。」
それを聞いて怒るか拗ねるかの反応が返ってくると思っていたのだが、マオはにこにこ笑っていた。
なんだか拍子抜けしてしまったカナタは、この際だから父のことをマオから聞けるだけ聞き出そうと思った。

「父と君のお母さん……二人は、恋人同士だったこと、あるんだろうか。」
「恋人同士には、なれなかった。」
「そうなの、」
「……。」
「親父は、君のお母さんの見舞いに行ったの?」
「……はい。いつ死んでしまってもおかしくない状態だから、先生は本当に誠実に対応してれています。」

(そうか、会いに行ってるんだ。)


「俺、親父のこと、全然知らなかった。」

父はそんなに器用な男ではないし、カナタから見ても誠実な男であったから、マオの母との間に何があったのかは知らないが、少なくとも、カナタが生まれて今までずっと、カナタの母とカナタのことを精一杯愛していたと思う。
そこに、マオの母の入ってくる隙間はない。――カナタ達の家族は、幸せだった。


(母さん、幸せだったじゃあないか。)


「大人は、相手のことを大切に思うばっかりに、自分の思いを相手が望みそうな言葉へ変換してから、伝えるんですよね。人間は完璧じゃないから、たまに変換を間違えたりもして思いがけず互いに苦しむ――変換なんていらないのに、そのまま伝えてほしいこともあるのに――。」
「マオちゃん、年上の彼氏でもいるの?なんか、揉めたの?」
「例え話です。」
マオは言った。
父みたいな優しい人間は、例え話の人物みたいに、そうやって損をするんじゃなかろうか。少なくともカナタはそういうタイプじゃない。

「沈黙は、ときに一番辛い仕打ちです。知らされないことも、ときにとても哀しいことです。」

(マオちゃん、失恋したんだな。きっと。)

(それにしてもマオちゃんって、ちょっと面倒くさい子かもなー。)
などと呑気にカナタは思った。

今夜のマオは、どうしたんだろう。どうしてそんなことを言うのだろう。
食事を済ませた細い手は、飲み掛けのコップを手にし、続けて言った。

「さっきの、七不思議の話なんですけど、発端の人は、別に七不思議を作ろうとか思ってお化けの振りをした訳じゃなく、間違われたんです。その人は、夜の学校に忍び込んで遊んでいたの――。」

それにしても、そんなに、詳しいのっておかしくないか。まさか、その人とは、マオの母親なんじゃないだろうかとカナタは疑った。



「ねえ、カナタさん。夜の学校に行きませんか――。」

「え?」


時間は八時を越えていた。
父と、すれ違いになるかもしれない。
こんな遅くに若い娘を連れだすなんて――しかも預かりものの大事な娘だ。バレたら父に咎められるだろう。
カナタは躊躇っていたが、マオはそんなことお構いなしに、さっさと食器を片している。

「先生にバレちゃったら、先生を迎えに行ったって言えばいいわ。」
「君って意外と大胆……というか型破りだな。」
「そうですか? あ、それよりも良い口実が見つかった。」
完全にこの少女のペースに飲まれている。

「教室にね、参考書を忘れたの。明日の試験に必要な、大事なものなの。カナタさん、学校まで連れて行ってくれませんか?」
そう言い終えるとマオはしたたかに笑った。



せっかくの休暇に楽しみの一つもないなんて、何だかつまらないし、可愛い子とデートができるのだ。
まあ良いか、そう思った。
一見真面目だが、悪戯好きそうなこの瞳に振り回されぬよう、気をつけなければならない。自分は大人なのだから。

「本当に、参考書忘れたんだよな、親父にもそう言えよ。」
「やった、じゃあ少し待ってね、食器洗って、先生の分のご飯、用意してから出たい。」

ぱたぱた。
スリッパの音を立てながら、動きまわる。
その音に背を向けて、カナタは車へと向かった。





〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

水辺での、話をしよう。

「プールへ、行こう。」

誘ったのはマオだ。
あれは遠い昔――。
それとも、今起きていること――。



――真実は、何処にある。

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