夏の仮睡

小鳥 薊

第7話回想

伊坂マオ。
カイトの好きな女の子の名前だ。
そしてこれは最近知ったことなのだが、マオはカイトの従兄妹にあたる。

カイトは母子家庭で育ち、父方の親族とは無縁であったため、同い年の従妹がいることなど想像もしていなかった。
きっかけは入学式の名簿を覗いていたカイトの母親が漏らした一言だった。


「あれ、この名前――もしかしたらカイトの従妹、マオちゃんかもしれないね。」

母親も確証はないと言っていたが、後々マオ本人に確認すると、やはりマオの母親とカイトの父親は兄弟だった。

奥手のカイトは、自ら女子に話し掛けていくタイプではなかったが、それでもマオとクラス編成後の割と早い段階で話が出来たのは、出席番号と座席が前後だったからである。
マオは、カイトにとって初めから気になる存在であった。
後ろからいつも眺めるマオの髪は、陽に透けると緑に光るくらい黒くて――おそらく硬くて腰のある、真っ直ぐな髪だ。
髪に隠れて見えない頸も、正面から見るとほっそりとしており、カイトとは異質の女性という生き物を、カイトはこの瞬間、マオを通して意識した。
その容姿に、カイトと同様の気持ちを、マオに抱く男子はおそらく他にもいたであろう。
プリント配布でちらりと見えるマオの横顔を直視できないカイトであったから、マオの横顔は上手くデッサンできないけれど、黒髪の後ろ姿は何度だって思い出しながら空に描くことができるだろう。

カイトは、高校では陸上一筋であり美術部ではないけれど、もともと絵を描くことも得意だった。
休み時間、マオの後ろ姿をノートの隅に落書きすることもあったが、気持悪がられると思い、始業ベルが鳴る前に、消しゴムで紙が擦り切れるまですっかり消してしまうのだ。
マオも同様に、男子と積極的に話す子ではなく、同じ地元の女子数人とグループを作り、昼休みなんかはよく席をくっ付けて弁当を食べたり、しゃべったりしている。
その輪の中で、マオはよく笑う子だった。


二カ月もすると、席替えによりマオとは遠く離れてしまい、結局それ以降もなかなかマオと席が近くになることはなかった。
その頃には、気付くと目で追っている。少しでも話がしたい。それがマオにだけ向けられる特別な感情であるということを、自身で気付いたのは初夏だった。
気付いたからといって、これといって進展はなかったが、カイトは心の中でだけ密かにマオのことを名前で呼ぶようになっていた。



入学して初めての夏は、暑かった。
始業ベルを掻き消すほどの蝉の鳴き声、カーテンから透けて見える青々とした緑の一部が、教室の窓から顔を覗かせ、まるで授業に参加しているようだった。
ワイシャツの下は汗で湿っていることが多い。
暑さに耐え兼ね下敷きで扇ぐのは良いが、手を止めると余計な熱量を発生させてしまうせいか、かえって扇ぐ前より暑く感じてしまう。
マオもそうなのだろうか。
マオのことを一たび考えると、やはり彼女の後ろ髪が恋しくなるのだが、前方のノッポの男子に遮られ、一目見ることも叶わない。
幸いなことに、掃除当番の班も実験グループも、出席番号のお陰でカイトとマオは一緒だった。
最近では、化学の授業の後、使用したフラスコを、マオが洗って、カイトが拭く係となり、少しだけマオに近付く時間が与えられたのだが、二人のぎこちない距離は縮まるでもなく、空気となってそこに存在していた。
フラスコやビーカーを手渡す指先は触れそうで触れず、もどかしい。何か話題の一つでもあればいいのだけれど、口下手なカイトの頭には話題など何も浮かんでこず、後方でお調子者のクラスメイトがおどけた声を出すたびに、二人で相槌を打って笑ったりしていた。

このとき、確か、マオは言っていた――。

「こんな暑い日は、お日さまが沈むまで、ずっとこうやって洗い場で片付けやっててもいいな。」
「それ、いいね。片付け係の手は真夏の暑さなんて関係ない。良ければ混ぜてほしいな。」
「うん、泉君とこうやって片付けする時間、結構好きだな。手際もいいし、他の男子と違ってふざけないしね。」
「そうだね。あいつとだったら、とっくに終業のチャイム鳴ってるよ。」
まだふざけている後ろのクラスメイト顎で指す。
「うふふ。」
マオは鈴のように笑う子だな――そのとき初めてそう思った。
窓からは生温いが勢いのある夏風が入ってくる。


この時期に初めてあった試験で、マオがとても頭の良い女の子であるということをカイトは知った。
聡明なマオ――成績は八クラスあった学年でも上位で、答案用紙の返却の度よく担任に褒められと、その度に少し照れくさそうにしていた。
一方カイトはというと一年の時から中位で停滞している。
優等生タイプのマオにことを、皆が一目置いている雰囲気があった。


マオの髪が少し伸びた夏の終わり、学校である噂が流行った。
夜の校舎に侵入する者がおり、音楽室のピアノが鳴り響く音に警備員が駆け付けても既に人の姿はなく、結局犯人は分からず仕舞い。
暫く経って、今度は視聴覚室の扉の開閉音――扉が分厚かったので他の部屋とは区別されるのだ――に頭を抱える始末だという。
嘘か本当か、誰が言い出したかもわからない噂だったが、クラスの中には幽霊の仕業だとか騒ぐ者もいた。
仕舞には、それが学校の七不思議に置き換わり、夜の肝試しが後を絶たなくなったため、教員側は厳重な警備と生徒への処分を徹底し、程無くして噂ごと強制鎮圧を余儀なくされることとなった。
結局、本家である最初の噂の真相は掴めず、やがて誰も噂しなくなった。
生徒達の無限の興味は留まることを知らず、話題は蜻蛉の如く、儚い寿命で移り変わっていく。
学校の七不思議はテレビ番組の都市伝説へ、幽霊騒動は人気お笑いグループのネタへと、違和感なく話題が交替していった。
日々、目まぐるしく変わっていく話題、溢れかえる情報の波に、カイトは上手く乗ることができず、元々興味もなかった七不思議は、詳しい内容も知らずに学校から消えていった。



二度目の長い試験期間がやって来た。
明日の問題に必要な参考書を教室の机の中に置き忘れたカイトは、それを取り戻しに夜の学校へ向かうことにした。
一時は警備態勢も厳しかったようだが、今ではすっかり元通りだと聞いた。
カイトは校舎へ入る方法も守衛室の場所すらも知らなかったが、入口で事情を話せばすんなり中へ入れるだろうと思っていた。
暑い日だったが時間も遅かったので、薄手のパーカーを羽織り出た。
昼は蝉、夜は、鈴虫だろうか――虫が鳴いている。ここは比較的、都会だったが所々に空き地みたいのが残っており、叢から夏の声がする。
鈴虫の鳴く声は、何となく、涼しい。
歩いていると、通り掛かりの家の窓辺に風鈴が揺れている。
鈴の音も、いい。
同時にマオの笑い声を思い出していた。
今日の月は赤く、とても低い位置に在る。
月だけではない。
照らされた家々も、電柱も、かざした手さえ血のように真っ赤だ。
不思議である。校舎も赤みを帯びていた。

校門をよじ登り、校庭に入ると、見渡せる全ての教室の電気が消えていた。
世の中には何十億という人がいるのに、この空間には誰も存在していないのだ。そこに、足を踏み入れる。
正面玄関は開いていないだろう、と思い、隣り合った職員用の玄関に手を掛けると、開いた。
守衛室と思った窓口を覗いたが、警備員は居らず、巡回に行っているのか、兎に角、構わず中に入った。
ロッカーで上履きに履き替える。
(もし、途中で警備員に出くわしても、忘れ物を取りに来たと事情を話せば問題ないだろう。注意されたら謝ろう。)
それくらいにしか思っていなかった。
カイトはこういう点では肝が座っている方なのだ。

カイトの教室は三階だった。
ロッカーに近い階段を上がり教室に面した廊下が見渡せる踊り場で、カイトは一度立ち止まった。
非常灯の光が、厭な雰囲気を醸し出している。
夜の校舎は、昼とはまるで違う顔をもつ。
何もなくても薄気味悪いので、廊下に居るはずのない誰かの存在を一度でも想像してしまうと、もう駄目だ。
さっさと用件を済ませて帰ろう、そう思った。
ドアをゆっくり開け、教室の中を確認してから入る。面倒なことは嫌だったので、できることなら警備員にバレたくないので電気はもちろん付けない。
(あった。)
机に入っていた参考書を鞄に仕舞い、カイトの足は既に出口の方へ向かっていたが、目線だけが、一瞬、止まった。
(誰か、いる?まさか。)
感じたのは、気配だけだ。暗闇には何も見えない。
だけど、確かに近いところに感じる気配。聞こえない息づかいも想像できる。

見てはいけないものを、見てはいけないとわかっていながらも見てしまいたい衝動と、絶対に関わってはいけないと思う気持ちがカイトの中で混合する。
心拍数は二倍以上に加速し、結局カイトは足は止めず、その気配をなかったことにした。
廊下に出たカイトはそこで一度足を止めた。
今出た教室から、今度は確実に音がする。
そしてついに、カイトは、普段の性格と絶縁した。
その先に待つ、得体の知れない何かへ向けられた好奇心と行動力。
再び、閉めたばかりのドアを開ける。
(やっぱり、誰かいる。立ってる!)
教卓のすぐ傍に、さっきはなかった人影が黒く佇んでいる。その影は月明かりに照らされて輪郭だけがはっきりとしており、カイトはそれだけで、影の正体がすぐにわかった。
「……伊坂さん?」

全く予期せぬものと出会った。それは、お化けよりも俄かに信じられない。
「なんだ、泉くんかぁ。警備の人じゃなくてよかったー。」
マオは呑気に言った。昼間の教室にいるマオとは少し違って、快活な雰囲気だ。
「……なに、してんの?」
「だよね。……驚かせてしまってごめんなさい。」
「うん。かなりビビった。」
「……先生に、言う?」
マオは、カイトに近づいてきた。
カイトは混乱していたので、何と言っていいのか、自分がこれから何を言うのかわからなかった。まずは落ち着こう。マオにヘタレなんて思われたら恥ずかしい。
「僕は参考書、忘れたから取りにきたんだ。伊坂さんもそうでしょ?忘れ物でもしたんでしょ?言わないよ。もしバレても、怒られたりは……しない……。」
「泉君、優しいね。」
「でもさ、さっき僕が教室に入ったときは、伊坂さんどこに立ってた?」
「……教卓の中。」
「え?」
カイトは返答に困った。マオは何をしていたのか。
「君、本当に、僕の知っている伊坂マオさんだよね。」
「そうだと思うけど。」
「お化けとかじゃ、ないよね。」
「そう思う?」
マオは笑っている。
「まさか。それよりさ、伊坂さん、こんな時間に教卓の中に入って何してたの?」
「言ってもいいけど、バカにしないでね。」
「うん。」
「私ね、言うの少し恥ずかしいんだけど、けっこう真面目に小説書いてるんだ。」
「へえ、そうなんだ。」
カイトは相槌を打ったが、それはカイトが求めている答えになっていない。
「今ね、ここで書いてたの。臨場感がどうしてもほしくて、どうしても。」
少しの沈黙のあと、マオが廊下から教室の教卓を指差して言った。
「主人公がね、この中で自殺するシーンをね、書いていたの……ねえ、お願い、あまり引かないでね。」
「うん。」
こんな所で、好きな子と二人きりになれるなんて、思いもしなかったカイトは、同時にこんな展開があるとは想像すらしていなかった。
マオと二人きりで会話をするのは、初めてかもしれない。
二人は極力小さな声で会話していたが、ときおり生じる沈黙の間、時計の秒針の音が聞こえてくる。
すごく小さな音だ。
昼間の教室では埋もれている存在を、カイトは今感じている。
マオは今までずっとこれを聞いていたのだろう。

ここには、理由すら関係なくあらゆるもの達が只存在している。
そもそも、カイトたちだってそうだと、カイト自身は思っている。カイトは因果律を信じない。
自分は必要とされてここにいる、ここにいるのは因果だ。昼間の教室は、そうした存在意義を求める集団だ。
けれど、そうした業が一切排除された、時の切片みたいな空間――それがこの夜の教室だと思った。
教室は何も言わない。
そしてカイトとマオは、ひっそりとただそこに身を置くことを許された。

そのまま校舎を出て、夜道を歩いた。遠慮するマオを言い聞かせ、家の近くまで送ることにした。夢のようだが、カイトは、マオと二人並んで歩いているのだ。
窓の外を見た。
夜空は意外にも明るかった。カイトは夜空がこの世で一番暗い色だと思っていた。夜空から降り注ぐ微光に照らされた校舎、そして校舎から見るまるで窓で切り取る絵のような夜空の両者を、カイトは生まれて初めて鑑賞していた。
不思議な夜だった。

マオが小説を書いているなんて意外だった。
普段は小説を読まないカイトにとって、小説は一般人には書けないもの、と決めてかかっていた。カイトには、まるで遠い世界の話だ。
「伊坂さんって、そういう才能もあるんだね、すごいや。」
「そんなことないよ。」
「小説家、目指してるの?」
「そう、もちろん、それで生活していくなんて、今は考えていないから、普通に大学行ってお勤めもしようと思っているけれど。」
「伊坂さんの成績だったら、それこそ文字通り、普通にどこの大学でも入れちゃうんだろうな。」
「ふふ、そんなことはないよ。でも、どうせだからうんと難しい所受けようと思うよ。」
「うん、まぁ、こっちは背伸びして地方の国立かな。学校の先生になりたいから教育大狙ってる――。」
聞かれもしないのに、自然と、言ってしまった。
先にマオの告白を聞いてしまったからだろうか、カイトは今まで誰にも将来のことを相談していなかったのに――自分の中でも決め兼ねていたことなのに――重大な決心を、今、マオの前で宣言してしまったのだ。
「泉君、先生向いてると思う。私、泉君みたいな先生が担任だったら嬉しいな。」
「本当に?」
「うん。」
「伊坂さんが生徒だったら、教えることないよ。むしろ教えてほしいくらいだもの。」
「そんなことないよ」
暫く、お互い否否――と、謙虚に言い合っていた。
徐々に話題がカイトのことへ移行しつつあったので、思い出したように軌道修正し切り出した。カイトは、自分の話をするのがあまり好きではない。
「それで、さっき書いてた物語はどんな話なの?自殺って、重たい感じ?」
「自分の書いている小説の話をするのって、ちょっと恥ずかしいね。……ええとね、いじめをテーマに、自殺した女生徒の復讐、みたいな――。」
「ホラー?怖そうだね。」
「ふふ、」
鈴が鳴る。
カイトの知っているマオはほんの一部で、非凡な発想力と意外な行動力が、夜のマオには満ちていた。それは昼間のマオとはまた違った光線のような光だ。
「私のこと、変な奴だって思ったよね。実はね、夜の校舎に入ったのってこれが初めてじゃないんだ。一時噂になったし、もう止めようって決めてたの。」
「……じゃあ、今までの幽霊騒ぎの犯人って、伊坂さん?」
「うーん、正確に言うと、最初の音楽室のピアノの音は私。視聴覚室は知らない。後は、噂にはなっていないみたいだけれど、理科室にもこっそり入ったことある。」
「それも全部、小説のネタ探し?」
「そう、」
「へえ……、それにしても、警備員って間抜けだな。一度も見つかったことないんでしょ?」
「守衛さんね、勤務交替制なの。泉君、君は運が良かったのよ。木曜日だけ、いい加減な守衛さんだから夜中の身回りもめったに来ないし、守衛室にいるときだって、奥まった所でずっとテレビを見ているから、潜入もそう難しくないのよ。」
「へえ、伊坂さん、凄いな。さすが優等生なだけあるな。」
「夜の教室に忍び込むのは、優等生じゃないよね。」
そう言って、マオはくすくすと笑っていた。
「私もきっかけは泉君とおんなじ、教室に忘れ物をしちゃったのよ。そのときも今日と同じ木曜日、でも、私の場合はこっそりじゃなくて、ちゃんと守衛室の小窓から大声出して守衛さんに気付いてもらって、許可をとって入ったけどね。」
カイトはにやけながら、そうだよな、と数回頷いた。

マオは毎回、潜入のときは生徒玄関の一番端、職員玄関及び守衛室から一番遠くて視界に入らない所のドアをこっそり開けて入るそうだ。この警備員はよく、その一箇所だけ鍵を掛け忘れる――いくら慣れたマオでも、そう何度も守衛室の真横を通ったりはしないそうだ。従って、今回のカイトの潜入は、かなり大胆な行動だったと言える。
カイトは、参考になります――とマオに言った。

マオは、夜中の教室の持つ不思議な雰囲気に惹かれ、自分の小説の舞台にしたいと考えた。夜の校舎は毎回違った顔を覗かせ、それはマオの創作意欲を駆り立て、また欠乏するとまるで中毒のように、インスピレーションを求めて何度かここに足を運んでいたそうだ。



――暗くて静かで、不思議な世界。
そこに、ピアノを響かせれば、マオの中でどんな物語が生まれるのだろう。
理科室で普段は見られないような実験器具や薬品を眺めながら、マオの空想の世界の住人はどう動き出すのだろう。
さっきまで薄気味悪いと決めていた校舎も、今のマオの魔法で、カイトにとってそんなに怖い場所と感じるようになった。
やがて解けてしまう魔法――さっき教室で見た月はいつの間にか随分遠くへといってしまっていた。月光に照らされた二人――果たしてこれは本当に現実だろうかとカイトは思った。
朝、目が覚めて、いつものように学校にいる自分を想像してみる。
二人とも昨夜のことなんてまるでなかったかのように、日常が只いつも通りに過ぎていく。昼間の二人は話さない。教室で名前を聞く度、廊下ですれ違う度、二人ともあの一時を思い出す――そのときは二人一緒ではなく別々だ。そういう秘密も、またいいだろう。
こうしてカイトとマオは、このひょんな出来事から、共有の秘密を持った。
カイトは、マオとのこの秘密を出来ることならずっと持ち続けたかった。けれど、マオは言っていた。

――もう止めようと思っていた。

この子と、できればこのまま秘密を共有したい。

突然、マオは悪戯っ子のように微笑んで言った。
「今、思いついた。来週の木曜日、今日と同じ午前零時に、泉君、学校に来れない?」
「また、小説のネタ?」
「そう。夜のプールで、恋人たちの秘密のデート。うん、やってみたい。」
「デートって、伊坂さんと僕が?」
「どんなことが起きるか、楽しみ。」
カイトはこの瞬間、マオの意外な一面を独占している。頭の回転の速い子特有の、瞬時の展開の切り替えと表情の変化が見ていて楽しい。

その日は、それで別れた。
マオの家はカイトの家への帰り道の途中にあり、学校からはそう離れていなかった。家の前まで見送り、また明日――合言葉のように交わした。
マオはカイトへ背を向け、忍び足で家へと入っていった。
一人になったカイトは、ぽつり、ぽつりと外灯が照らすアスファルトを踏みながら、夜の月を追い越そうと歩いたが、結局どこまで行っても平行線のまま、家に着いた。
家の中は静まり返っており、カイトは部屋へ向かう際、纏った衣服を脱ぎ捨て、洗濯機へ放り投げた。
寝巻に着替えたカイトは、頭を勉強モードに切り替えることができず、持ってきた日本史の参考書をぱらぱらと捲る。
延々と羅列された文字とカラフルなイラスト。さて、どう頭に叩き込もう。


マオは、夜のプールと、最後にもう一つ、行きたい場所があると言った。
その場所は次回までのお楽しみと言って、カイトには教えてくれなかったが、カイトと一緒にその二カ所へ行くことができたら、夜の校舎への侵入は本当にもう終わりにすると言った。
カイトには、せっかくのマオとの秘密のデート。始まる前から期限付きにはしてほしくなかったが、もう少し、マオとの距離が縮まったら、昼間のデートに誘えばよいか、と思った。
勉強机に落ち着いても、結局マオのことばかり考えてしまい、終いには机に突っ伏して寝てしまったようである。
早朝の烏の声で目覚めたカイトは、カイトの下敷きとなりくしゃくしゃになったノートを、寝ぼけたまま暫く見つめ、今日の試験の結果はあきらめることにした。


試験はやはり、いつも以上に散々な結果だった。
カイトは、順位を十番も落っことした。
けれどもマオは、いつもと変わらずほとんどの教科で上位におり、担任に名前を呼ばれたりもしていた。あの時間を共有していた二人なのに、この差は何だろうとカイトは疑問に思った。
教室ではマオと二人きりになるきっかけをいまだに一度も掴めずに、いつも通りの日常が穏やかに過ぎていった。
日が経つに連れて、あの夜の出来事も鮮明さを失ってくる。カイトは、それが残念で、魔法が完全に解けてしまう前に、早く次の木曜日がやってくるのを願った。
あの夜の賑やかなマオを見てから、昼間の教室で会うマオを見る目がいくらか変化した。
カイトの距離からでも、友人とふざけ合うマオ、どこか抜けているマオが、ちらりと見ることができたのだ。カイトが想像していた以上に、マオは普通の女の子だった。
勉強が出来て、誰からも好かれて、ときに驚くくらいの好奇心と行動力を持った美しい人――。


約束の前日――水曜の放課後だった。
結局、日常の中では、マオとあの夜のことや明日のことも話す機会は巡ってこなかった。できれば、自然に会話ができればよかったけれど――カイトは、せめて明日のことだけでもマオに確認しようと、マオを探したが、教室にマオは居なかった。玄関まで行ってみたが、会うこともできず、とうとう下駄箱まで来てしまった。
(明日にするか。)
屈んで靴を履き替えていたカイトだったが、突然、後ろからトンと誰かに突かれた。
「明日、忘れないでね。」
首筋に、微かに石鹸の香りがする。
耳元で囁いたのはマオだった。
マオは、カイトを玄関で待ち伏せていたようで、それだけ言って、バイバイ、と教室へ戻っていった。
カイトは、マオに突かれた右肩がいつまでも気になった。マオの言動が、まるで壊れかけのオーディオのように脳内で何度も繰り返し再生されていた。



木曜日、午前零時のプール場で、カイトはマオと急激に距離を縮めることになるが、今にして思えば、二人の時間は、単発的に、そして劇的に進展を迎える――テレビドラマのようなものだった。
カイトは時々夢を見た。
夢の中で、これは全てマオの書いた物語の中ではないかと錯覚し、否そうじゃない――と、そんなことを思って目を覚ます。

マオとの別れは、思いがけずにやってきて、カイトは自分が望んだ未来を彼女と一緒に過ごすことができなかった。
だからだろうか、マオと交わした会話、行った場所、表情や声が、ひとつひとつが今でも鮮明だ。時が経っても変わらない。
マオの、密度の高い声――それに反応するカイトの過敏な感覚器官――。
(君専用の感覚は、今でも変わらないのにね――。)
カイトの過敏な感覚は、結局ずっと使わず仕舞いになってしまった。
マオが消えてからの人生、カイトは人並に結婚し、子どもも授かって真っ当な人生を送ることができた。幸福であったし、決して空虚だったとも思わない。
人をもっと愛したかったり、人にも愛されたいと思って生きた。
だけど、マオを、完全に忘れることなんてカイトには出来なかった。
マオ以上に愛おしい存在は、結局なかった。
自分を愛してくれる人達へのせめてもの罪滅ぼしに、カイトは夢の中でだけマオを想うことに決めた。
現実世界には、決して出さず、あの当時のマオを、永遠に、夢の中で愛し続けた。
それが贖罪になると思っていた。けれど、そんなカイトのエゴイズムが、自分を愛してくれる人を傷つけ、家庭を壊す結果となってしまったのだ。
マオを残して、カイトは、こうして五十過ぎの中年となった。
カイトの夢の中では、永遠にマオは十七歳――。

マオが最後に行きたいと言った場所――。


カイトは、結局、一緒に行くことができなかった、その場所は――。

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