夏の仮睡

小鳥 薊

第3話カナタ

久しぶりの長い休暇が取れ、滅多なことがないと帰らなくなっていた実家へ帰省した。
父は、定年を控えた穏やかな日々を、一人でどう過ごしているのだろう――最近になってあの中年の背中に、何となく物哀しさを覚えてしまう泉カナタは、自分とよく似たその男の姿に、数十年後の自分を重ねてしまう悪い癖をどうにもやめられず、考えないように毎日を多忙にして過ごしていた。
若く、精力漲る今の時代は、密やかに通過し、家族を持つのかどうか知らぬが、どちらにせよ心が満たされていたと感じるのはほんの一瞬で、人生の大半は喪失感と空虚感が占める。
人は、何かを得るときの満足感よりも何かを失ったときの喪失感の方が、ひどく尾を引き心を支配することをカナタは知っている。
父はいつでも何処か満たされていないと、カナタは物心ついた頃から感じていた。
それがなぜか聞いたことがないから分からない。
カナタの母親が早くに亡くなったことが起因しているのか――だとしたら、カナタだって他人から見るとやはりどこか満たされていない風に見えているのだろうか。


父、カイトには、実家へ向かう前に、電話を一本入れておいた。
父は、コールが鳴り受話器を取るまでに暫く時間が掛る。それは昔からであった。とる気がそもそもないからなのか、いつももたつくのだ。留守番電話に切り替わってしまうことはしょっちゅうで、今回もそうだった。
それにしても悪怯れた様子は少しもなく、何事もなかったかのように一定のテンションで、もしもし、とだけ言う。
父はカナタの用件を二つ返事で受け入れた。
「ああ、そうか、わかった。晩飯はどうするんだ、」
「いや、いい。ノブ達と会うんだ。」
「母さんの墓参り、行くだろう。少しはゆっくりできるのか。」
「うん、四日くらい、のんびりしようと思ってる。」
実家に長らく滞在することは、カナタにとっては珍しいことである。
それでも、母の墓参りには毎年故郷へ足を運んだが、どれも日帰りだった。
今回は、たまたま友人との約束が重なったことと、これといって予定も埋まっていなかったのだ。
彼女とは数ヶ月前に別れた。原因は些細なことだったが、仕事に感けたカナタの責任であることは否めない。

父には、帰ることだけ伝えたかった。それだけ言って、切ろうと思った。
しかし、父は会話を打ち切る間を与えず、カナタはなかなか受話器を置くことができなかった。
低い、いい声ではある。
「カナタ。」
「何。」
「帰ってきたらお前の部屋、使うだろう。」
「ああ、部屋そのままだろ。汚くても構わないよ。寝床があれば十分。」
「いや、そうじゃない。」
言いたいことがまとまらないのか、言い出しにくいことなのか、父は口籠り、後に続く言葉が一向にない。それはカナタを少しばかり苛立たせた。空白は嫌いなのだ。
「何だよ。そろそろ出ないと、」
そういうカナタの台詞を合図に、父はようやく重い口を開き、言葉は声になった。
「ウチな、当分の間、預かっている子がいるんだ。その子が今、カナタの部屋を使っていて――。」
「え、預かっている子?」
父の、テンポが、不安定である。何か訳ありかとも思ったが、約束の時間が迫っている。無意識に寄りかかった壁を指でトントンと叩いていた。
――トントン。トン。
規則的な音は次第にアンダンテからアレグロへと、変化していく。静かな室内にはよく響き、受話器の向こうの父へも聞こえたのだろうか。
結局、父はこのタイミングで本質に触れることを避けた。
「まあいい。詳しくはこっちに来てから話すことにする。」
「わかった。俺は自分の部屋が使えなくたって、別に客間でも構わないよ。」
「そう言ってくれると助かるよ。」
受話器からは、何とも和やかな空気が漂っているようだ。それから暫く、間があった。けれど、それだけだった。
父の悪い癖だ。話の終わりに無意味な余韻を残すのだ。本当にマイペースで、困ったものだとカナタは思った。
「おい、本当に時間がないんだってば。」
「カナタ、親に向かって『おい』は、ないだろう。」
「ごめん、ごめん。じゃあ後で。」
「ああ。」
溜息と同時につい、部下に言うような口調で言ってしまった。それでも父は軽く嗜めた後も、何だか尾を引くような調子だった。
――この歳になって、淋しがりにでもなったのか。
鍵を掛けたのを二度確認し、部屋を出た。


カナタがまだ、家にいた頃の父は、新聞と書斎の似合う男だった。
教師をしていることもあり、家にいても背中がしゃんと伸びているような――カナタがちょっとした悪さをしても、静かに諭す姿勢を崩さない。取り乱す姿を、そういえば見たことがない。
そんな父に対して、思えばカナタは反抗する時期を一度も迎えずに、大人になった。母が、カナタが小さいときに亡くなっているせいか、親に甘えたり我儘を言える環境ではなかったのだ。かといって、不幸だとか不満とは思わなかった。そういうものだと思っていた。
カナタが高校を卒業と同時に親元を離れ、就職後も実家へ戻らなかったのは、どうしてだろう。深くは考えたことはなかったが、ただ単純に家を出てみたかった気持ちが勝った。
居心地が悪かった訳でもない。父が小さく感じたり、物哀しく見え始めたのも、実はつい最近のことである。きっかけは特になかったが、ある日突然、思ったのだ。
振り返ってみても、一般的に良い父親だったと思う。

カナタの母は病死ではなく交通事故でカナタが五歳のときに亡くなった。
交通事故ということは聞いていた。しかし、これはカナタが成人してから知った話だが、母は、父とは別に男を作り家族を捨て、家を出た先の道路でガードレールにぶつかり、即死だったという。カナタは小さかったこともあり、その事実を知らされなかった。
母がいなくなった日、リビングのテーブルには、置手紙と判の押された離婚届が置いてあったそうだ。
父は母の意思を一部の人間にしか口外せず、葬式も喪主を務め抜いた。
葬儀の記憶は断片的にしか残ってはいないが、大きな壁みたいな黒服の大人達に囲まれ心細かったカナタに、父がずっと握ってくれていた手、親戚の女性がカナタに放った言葉がくっきりと今も思い出せる。
――不憫な子。
喪服の女は確かにそう言った。


父は、母が自分から離れていっていることを、何となく気付いていた様子で、成人したカナタには、父さんにも非はあったから母さんを責めないで、夏には毎年、墓参りに行ってやってくれ――そう言った。
カナタには、その事実を未だに信じたくなかった。
少ない記憶の父母は、とても仲が良く理想の家族に思えて、自分はその中心にいるということを疑った日は一度もなかった。
たとえば、カナタがうんと小さかった頃、親子三人で近くの小さな遊園地へ行ったことがあった。
入口を入ってすぐの所に、頭の大きな〝バンビットちゃん〟という着ぐるみのキャラクターが、何十個も風船を抱えていた。カナタは臆病な子どもだったから、大げさな動きでおどけるバンビットちゃんが恐くて、風船をもらいに行けず、一つほしい――と父に強請った。
もう列に並んでしまったんだから――と後回しにされ不機嫌に観覧車に乗ると、その風船の群集はカラフルな島のようで、あそこの上を歩きたいなあ、と思った記憶がなんとなく、ある。
――結局、風船はもらったんだっけ。
覚えていない。
父にカメラを向けられると、照れくさくて、母のお腹に顔を押し付け、背中を向けている写真が、玄関にずっと飾られていたはずだ。
父がレンズ越しに切り取った世界――それは嘘のない本物の構図だろう。
あの遊園地は、母親が死んでから少しして取り壊され、今はない。
閉館のアナウンスが流れたときの、あの淋しい気持ち――父はまた来ればいいさと言ったが、カナタは、そうは思えなかった。

あの時。
そうだ、あの時だ。
母のことを聞いてから、父と二人きりでいることが気まずく感じることが増えていった。欠陥のある我が家――不憫とは思ってはならない、そんな気持ちがカナタの動きを邪魔するようになったのか。最近の父と会話する度に、喉まで出かかって結局口にしていない言葉がある。
それを、今、心の声で唱える。
――父さん、今までにいい人、いなかったのか。
――俺のことはいいから、再婚すればいいのに。

車を走らせ、久しぶりの我が家に到着した。考えてみれば、そう遠くない距離なのだ。

先に旧友と会う用事があったので、荷物と車を置きに寄ったのだ。家の前の歩道に車を寄せて一度止まる。
見覚えのない車が一台、停車していた。
――あれ、親父、車買ったのか。
カイトが嘗て乗っていた車は、今カナタが運転しているものだ。家を出るときに不要だからと譲り受けたのだ。それとも、来客だろうか。
不思議に思いながらもその車の隣へ停車させ、トランクの中から大きめのボストンバックを引きずりだし、勢いよく閉める。
意外にも大きな音が鳴った。
ここは住宅街だが、見渡す限り外を歩く人は確認できなかった。
ふと、こんなにも家が並ぶこの場所で、自分が世界に取り残されたような気分になる――それ位、ここは静かな場所だ。
家の鍵を探したが手元がもたついて見つからない。もしかしたらと思いドアノブを回すと、案の定、鍵は掛っていなかった。
そのままカナタは結構な重さの荷物を玄関へ押し込み、すばやくスニーカーを脱ぎ揃えていた。いつもの習慣である。
家には父がいるのだろう、けれど、カナタは、なんだかいつもの実家にいるようで全く他人の家へ無断で上がり込んだような錯覚に囚われた。
どうしてだろう。何か、変わったか――。

その瞬間。

背後で気配がした。
はっと思って振り返るが、誰もいない。
気になって階段の下から二階を覗いてみると、見えた。上から、にょきと視界に入る脚――紺色のソックスが徐々に下りてくる。脚の主は、階段の中腹、顔が露わになったところで軽くゆっくりと会釈した。

「こんにちは。」
リン、と鈴が鳴ったよう声だ。
「……こんにちは。」
連られてオウム返しとなった。
全く予想もしていなかった事態にカナタは、完全に動揺していた。
セーラー服だ。スカートから伸びる細い脚は、ほとんどが紺色に覆われているが腿から膝下まで覗く肌は真夏に似あわず驚くほどに白い。黒くて大きな瞳で、カナタを見ている。その瞳は、こちらから目を逸らすことを許さない。
これが、父が勿体ぶっていた、あの話題だったのか。

――親父のやつ、俺はてっきり小学生くらいの子を想像していたのに。
何か、言わなきゃな――そう思って、口を開こうとしたが、台詞が浮かんでこない。
黒い瞳は依然としてカナタを捉えている。夏の季節の何かの果実を連想させる濡れた唇は、少し開いて何かを言おうとしているようだ。
言うか言わぬかのタイミングで、カナタの肩を誰かにがっしりと掴まれた。
ひっ、と声は出なかったものの、そんな顔をしていただろう。
父だった。
カナタの目は、あの娘よりもきっと大きく見開いているだろう。心拍数が正常に近付き、やっと父を一瞥できた。
父は、そんなことはお構いなしという姿勢で、得意のマイペースさで話し始めた。
「早かったな。」
「ああ、急いでるんだけど、とりあえず、荷物と車、置きに寄ったんだ。」
カナタは混乱し切って、父のペースにのみ込まれた。
このタイプの人間と話していると、そのうちに口調が移ってしまうのだ。今のこの状況もこれからの展開も、面倒くさいから、もういいや――そう思った。
「そうか。ノブオたちと会うまでに、時間あるのか?」
「そんなにないな。六時には出る。」
「それじゃあ、本当に荷物を置いてすぐに出ないとな。」
「ああ、親父――、」
――いない。
カナタの場所から見える段に、女の子は居なかった。少し屈んで覗いてみたが、細い足首すら見えない。もう行ってしまったのだろう。
二階で、ぱたぱたと音がする。下へ降りて来て、話をすればよいものを――まあこれといって話すこともないだろうし、来られた方がカナタだってどぎまぎしてしまうだろうから、別に良いが――とも思った。
ショルダーバックを一先ず仏間の隅へ追いやり、仏壇へ手を合わせる。
綺麗にしているな、そんなことを思いながら、室内をぐるりと見回し、その足でソファへ浅く腰掛けた。あの玄関で感じた違和感は、この空間にはない。いつも通りのカナタが知っている空間である。さっきのは、本当に幻だったんじゃないか、という気さえしてくる。
「女の子を見たけど、」
それだけ言うと、
「なんだもう会ったのか。今は部屋に籠って何かしているみたいだったけど――。」
父は本当に能天気である。あまりの態度に腹が立ち、カナタはやはり問いつめることにした。
「――聞いてないぞ。」
カナタは睨んで言った。
「それはお前が電話を早々に切るから、説明できなかった。」
「親父、変な気を起して事件とか起こすなよ。犯罪者の息子になるのは御免だぞ。」
カナタは頭を掻きながら漏らした。
「何言ってる。あの子は父さんの、古くからの友人の子どもなんだよ。受験が終わるまでという約束で、部屋を貸している。」
「なんで親父が――」
言葉に詰まった。
父は人が良いから、何か厄介なことに巻き込まれてはいないだろうか――不安に思った。
しかし父はというと、この状況に不都合はない様子で、一体どうしてカナタがそんな態度を取るのか理解できていないようだ。
やはり不審すぎる。けれども、一体どこからどう父を問いただせばよいのか、熱くなった頭では整理できない。
砂丘に手を浸し、うごめく虫を全て捕まえていくような作業だ。
古い友人というのは何者なのか、どうして親父が預かるのか、親が看られないのはどうしてか、年頃の娘と親父が二人きりで生活することは許されるのか――。
「だいたい、その友人って親父の何だよ。うちは下宿屋じゃないんだぜ、そう易々と面倒を引き受けるなよ。それとも友人って、親父が付き合ってるとか再婚考えている人なのか。実はもうこっちに一緒に住んでいるのか。」
カナタは、咄嗟に玄関で感じた違和感を思い出した。
「そう飛躍するな。あの子は――」
「あの子は?」
「――お前の遠い親戚になる。」
「え、」
カナタが予想も付かない次元の話を次から次へとさらっと言う。
父の言うことが本当かどうか、ちゃんと調べれば分かる――けれどそんなことは骨折り損で御免だと思った。
「父さんの従妹の子どもだよ。母方の血だから、会ったことないよな。」
「親父は、その従妹と親しくしていたのかよ。俺は全然知らない。」
「本当にずっと離れていたから、彼女が突然現れたときには驚いた。けれど、父さんしか頼れないと言ってたから――」
「断れなかった――」
「ああ。でも、あの子のことは知っていたんだ。何しろ、お前や父さんと同じ高校に通っているから。」
「え――。」
そうなのだ。あの子の制服。
一瞬だったが見覚えがありもしかしたらと思っていたがやはりそうか。カナタが卒業した高校の制服だ。そのことが、ほんの少しだけ警戒心を解いた。
もう、別にどうでもよいではないか――そう思った。
父は、まるで叱られた子どものように少し小さくなって哀しげに笑っているのである。その姿がカナタにとっては辛かった。父を非難したいわけではない、そんな権利はカナタにはない。
カナタは、攻撃しすぎたことを後悔し、取り消すように明るめの口調で言った。
「もう、いいや。親父が決めたんなら、俺の口出すことじゃないし、そろそろもう行かなくちゃ。でも、俺はもっとうんと小さい子だと思っていたから――年頃の娘だと、ちょっと気まずいな。」
ちら、と二階へ目を遣る。
父も連られて視線を移しながら言った。
「二階は基本的にあの子の自由にさせていて、私は一階の仏間に寝てるんだ。お前もできれば母さんの衣裳部屋、物置になってるけど整理して使ってほしい。」
「分かったよ。ところで、その父さんの従妹って人は、今どうしてるんだ。」
「彼女は病気で――もう長くはないらしい。あの子は身寄りもなければ頼れる友人も見当たらない――受験を控えた身だし、卒業まで、通いやすいこの家に置いて人並の生活をさせてやってくれって頼まれた。」
「親父は人が良過ぎるよ、昔から――。」
短い沈黙の後、友人との約束を思い出し、これ以上の長居はやめた。
父の話は嘘くさく俄かには信じられない内容だった。
父は何かを隠している。
父自身は気付いているのだろうか。まるで鈍麻した感覚で、当たり前のように話す父を見ていると、それがどうか真実であってほしいとカナタは思った。

あの少女の姿は、いつまでもカナタの頭から消えなかった。
一瞬の出来事だったにもかかわらず、印象深く、魅力さえ感じた。
――だけど、所詮、子どもだ。
カナタは、もうここの住人じゃあない。ここで暮らす数日は、カナタの現実とはまた別の世界の出来事である。夏休みの、皆が想像する田舎の光景を、カナタもまた想像すればよい。
川釣り――浅瀬に石を張り小さな池簀を作って魚を泳がせた水面に浮かぶアメンボの足先の不思議。夏祭り――従兄妹と浴衣を着せられ、あっという間に一周してしまい退屈の空に上がった小さな花火、幾つか。宵闇―蚊帳の中でたまにしか会えない従兄妹との内緒話。
そういうのの一つと、思えばよい。
これから会う友人達だって、あの頃はあれが紛れもないリアルだったのに、今では皆が違う生き物のような気さえしてくる。
会う度、懐かしさが込み上げてくるが、どこかで、これは本当の自分か―という疑問が湧いてくる。答えはノーだ。あの頃の自分に似通った性質の自分は確かに存在するが、あの頃の、あのままの自分はもうどこにもいないのだ。皆、そうだろう。
あの頃は良かったなあ、と洩らす昔の自分に一番近い今の自分が、今日も顔を揃えて莫迦話をするのだろう。
カナタは、それでも本当に、ノブ達と会うことを楽しみにしていたのだ。



その日の夜、カナタが家へ帰ったのは午前一時過ぎで、部屋の一切の明かりは消えていた。そういえば、出しなにカイトから、あの娘の名前を聞いた。
伊坂マオ、という。
マオの、あの黒い瞳が、いつまでも焼き付いて離れない。
黒い瞳は、苦手だった。どこまでも空っぽの自分を見透かすような瞳――。
父はカナタに、マオの母親は従妹で友人だったと説明していたが、なんとなくであるが、父は嘗てマオの母を好きだった時期があったのではないか――そんな妄想を、酔った頭で巡らした。根拠はまるでなく、自分が探偵小説の主人公だったなら有り得る展開だろう、とほろ酔い気分で思ったまでだ。
ダイニングテーブルの上には、今夜の食事の余りがきちんとラップを掛けられ置いてあった。冷蔵庫の中身も、野菜やドリンクの種類が豊富で、一人身の男のものにしては充実していた。
カナタの知らないところで、この不可思議な二人の生活が板に付いているようだった。カナタは、生まれ育ったはずのこの家で自分の知らない時間が確りと流れていることを感じ、今となっては客人のこの身分が、妙な警戒や無意味な詮索をすることの利益はなんだろうと考えた。
答えは、なかった。
――明日は、母さんの墓参りだな。

シャワーを浴び、寝巻が自分の部屋にあることを思い出したのは浴室を出てすぐだった。
こんな時間に二階へ上がることは出来る訳もなく、ましてや自分の部屋はマオが使っているのだから尚更だ。仕方がないのでカナタは下着のまま寝ることにした。
きちんと確認もせずに外出したが、物置となっている一階のこの部屋には布団を何とか敷くだけのスペースがあり安堵した。
入口から一番遠い襖に接して、布団が一組、丸まさって置いてある。父が用意しておいてくれたのだろう。カナタは、それを引っ張り、早々と寝る準備をした。
すぐに電気を消した。身体がくたくただったのだ。
――全部、明日だな。
ひんやりとした布団へするっと潜り込む。
熱った身体には真夏の布団でさえ、心地良いものだ。寝相の悪いカナタにとって、タオルケットは意味のないもののようにも思えたが、それでも足先から首元まで、確り収めて目を閉じた。
地元の友人達は皆、元気だった。小さな町なので小中まで一緒の友人が多く、カナタが町を離れてからも個々に連絡を取り合っている仲間も少なくない。
お盆の時期だったこともあり、地元で就職した者を含め珍しい顔も多く、久々に楽しく飲めた。
駅に近い繁華街がすっかり姿を変えており、思い出の店達の面影はなく、カナタは随分歳をとってしまったような気がした。
慣れない布団の中、身体は疲れ切っているはずなのに、カナタはなかなか眠りに付けず少し高揚した気分のまま今日挙がった話題を振り返っていた。

――そうそう、俺、結婚するんだ。
――本当か、ノブ。やっぱりお前が一番早かったな。相手はユカかあ。
――すごいな、中三からずっと付き合っていたんだもんな。
――ああ、一年に一度は女を変えていたカナタとは違うんだ。
――おい、軽い男みたいに言うなよ。
――そうだな、お前は、女にモテる顔してるから、ずるいよな。
――告白されたら、すぐ付き合うもんな。
――でも結局、長くは続かないんだよなあ。
――なんだよ、俺の悪口ばっかり。ノブだって、一度別れてるだろ。
――なんだっけ、お前の浮気だっけ。
――違う、俺は浮気なんかしないぞ。
――じゃあどうして。
――俺が、約束を累計三十回破ったから――あいつ、全部数えていたんだ。それで、三十回目にとうとう、キレられて会ってくれなくなった。
――ユカちゃん、可哀そう。
――でも、ユカは、結局自分には俺しかしないと言ってきた。
――あっそ。
――カナタは、今誰かいないの。
――俺は、当分は生涯の人なんて考えられないな。それでいいし。
――お前は、すぐに惚れて、すぐに興味をなくしちまうんだよな。
――あの、何て言ったっけ、忘れちゃったけど、可哀そうな子、いたよな。カナタのことが大好きで、無理矢理別れた後ストーカーになっちゃった女。
――ああ。


あの眼――。ストーカー女の突き刺すような眼が恐かった。最初はあの眼に惹きつけられたはずなのに。
カナタは、女の真っ直ぐな愛情表現が苦手だった。それはなぜだ。母親からの無償の愛情が自分には欠乏していたせいなのか――分からない。
理解や共感のできないそれはただの束縛であり、途端にカナタは自由な羽を折られる気分になってしまう。
たまにいるのだ――あのような眼の女。カナタの幼く不完全な部分をまるで見透かしてしまうような瞳を、カナタは恐れ、そういう女からはすぐに自分から逃げ出した。
高校のときに付き合った女にも、いた。だんだん会うことに疲弊してしまって、他に好きな女ができたことを口実に距離を置いた。そんなカナタの勝手な行為に、相手は到底納得ができるはずもなく、カナタにとっては面倒な問題に発展し、暫く悩まされた。
あの眼――もしかすると、母もそういう目をしていたのか。カナタの欠陥は、自身にもどうにもできない根深さで、カナタをそういう部分で大人にさせない。
マオの眼は少し違った。けれども同じ種とは思えない黒曜石の瞳――。


この部屋にはクーラーはなく、網戸を全開にしているのに、風を感じない。吹いていないのか――耳を澄ますと小さく、小さく、鈴虫の声がする。
熱った身体を冷やしてくれていたシーツはやがてカナタの身体と一体となり、終いには身体以上に熱を持ち、心地の悪い異質なものへと変わっていった。カナタはますます寝付けない。
こうやって布団に入って目を閉じているだけで、身体は休まる――という話をどこかで聞いたことがある。それは、この不快な状況でも当てはまるのだろうか。今は、意識が落ちる深い癒しの眠りを、カナタは望んでいるのに――。


友人達持ち上がった話。興味深い内容だった。

――最近、気になるニュース、知ってるか。

ノブの言う、気になるニュース――それは、次のようなものだ。カナタももちろん、こちらに来る前にネットニュースで見たから概要は知っていた。ノブは掘り下げて説明してくれた。

数十年前より温暖化現象や環境汚染が深刻化し、現代では制度や生活が、そう大きくではないが変化した。
例えばゴミの問題。
現在、収拾された家庭ゴミの埋め立て、焼却は一切行っておらず、一部を宇宙投棄、そしてほとんどを空中分散してしまう方法を政府は推奨し一般的になっている。
ただ、昨今、宇宙への投棄は数年で急激に増えた地球への隕石墜落の原因となっているとNASAの報告があり、後者に一本化されていく方向で動いている。
その内容の詳細は一切公開されていない。
危険度が極めて高く、ゴミ処理の施設を設ける地域は区別されている。また、一般人に情報が漏れると犯罪に利用される可能性もあり、職員すら公言を厳しく制限されており、まるでスパイや秘密結社のようだ。
ともかく、今でこそ主流となったこの方法が、まだ試作段階であった頃、ある事件が起こっていた。それはカナタが生まれるもっと前の話だ。
そんなに昔の事件がどうして今になって表沙汰になり脚光を浴びたかというと、最近、連続婦女暴行及び殺人事件の容疑で捕まった犯人が、この数十年前の事件にも関与していると自供したことに始まる。
その真相は、証拠がないために明らかになっておらず依然として取り調べが続いているが、犯人の供述はこうである。

数十年前の、開発地区に少年グループが侵入し、ある物を盗んだ。それは、企画段階にあった危険な薬品――あらゆる物質を粒子レベルにまで一瞬で分解し無害といわれるあるパルスへ性質を変化させ、言葉通り空中分散させてしまうものである。
現在では、第一級取扱危険物に指定され、その形態も特殊な装置による管理下で取り扱い方法が確立されたが、当時は未解明な部分も大きく、欠陥もあった。
その薬品は当初、粉末状をしていたという噂も出たが、当時の報道も奥歯に物の詰まったような報告ばかりで、庶民の納得のいく内容ではなかった。
内容が不明瞭であったことと、その後に関連事件が起きなかったこともあり、次第に事件の真相を含めた全ての噂が消えてしまったという。
そして、最近捕まったこの犯人は、自分が当時の少年グループの一員であったことは明かしているが、その頃から今に至るまでの彼の性犯行と薬品の関連性はないと主張した。
盗んだ薬品の行方に関しては、少量であったためすぐになくなってしまいもう手元には残っておらず、容器も捨ててしまったと強調した。当時、薬品を何に使ったのか、動機や共犯者も含め、依然として取り調べが続いている。

――都市伝説?
――はは、そうだな。だけど、知っているか、あの当時の研究所があった開発地区って、実はこの町だったって噂だぞ。
――そうなのか。
――そうか。
――何でもこの世から消せる魔法の粉を自分だけが手に入れたら、何を消す。
――もし、その話が本当だとしたら、そいつは何に使ったのかな。
――俺なら、大量のエロ本かな。当時はこっそり買って山道とか夜中に少し離れた区画のゴミ捨て場とかに全部捨ててたからな。
――何か他にないのかよ。


――何か他に――。


心地よい眠気に襲われる中、カナタは想像の中の犯人がやはり想像の顔をして、手にした凶器ともいえる魔法の粉を乱用する光景を想像していた。
まずは手近な不要なもの、それから道端の雑草や小さな虫――それからどうしても恨み殺してやりたい奴――。
恐ろしいことを、想像してしまった。想像の中の犯人の顔は、いつしかカナタの顔になっていた。その時点であれは、もう夢だったのかもしれない。
目覚めたときは身体中汗だらけで、少し息も荒かった。うなされていたのかもしれない。
とにかく、目覚めは最悪だった。

          

「夏の仮睡」を読んでいる人はこの作品も読んでいます

「恋愛」の人気作品

コメント

コメントを書く