私は恋をしていました。

小鳥 薊

私は恋をしていました

――午前十一時四十五分、屋上にて。

小さな雲の島がゆったりと青空を流れていく。それを仰ぎ見ながら、シロウはのんびり言う。
「あ〜あ、古文さぼっちゃったなあ。」
「お前が誘ったんだろ。」
同じく、固いコンクリートに寝転がりながらミツヒコがぼそりと呟いた。

「なあ、お前ら、最近どうなの?」
「お前らって……誰のことかしらん。」

「お前と、イチカちゃん。」
「……聞いちゃう? 口止めされてるんだから、内緒だぞ。」
「口軽っ。」
「お前だからだよ。」

(お前だから……。)
ミツヒコは、シロウの言葉をそっと反復する。

「実は、少し進展がありまして、なんと、キスというものをしてしまいました。」
シロウは、恥ずかしそうに言った。ミツヒコの知るところでは、たぶん初体験なんだろうと思う。シロウは片想いしていたときよりも輪をかけて恋愛バカになった気がする。

「へえ、やっとしたの。」
「やっと、だよ。だって、あのイチカちゃんにだぞ。お前ならできるか?」
「うーーん、どうだろ。できるんじゃね?」
「さすが、イケメンは自信が違うな。でもすんなよ! めっ!!」

そう言うと、照れるようにシロウは
「おっなか空いたーー。」
と、先に一人で行ってしまった。

(お前の、そのへらへら動く唇に、俺は触れることなんて一生できないんだよ……。)
一人残されたミツヒコは、しばらくあの遠くて近いような雲と雲が風に流れながらくっついて一つの集合体になっていく様を見つめていた。




〜〜〜〜〜〜〜〜

――午後零時三十分、屋上へ続く階段にて。

午前中の授業で、開け放った風が心地よかったので屋上に出てみることを思い立ったリッカは、昼休みのチャイムがなると、弁当箱を持って屋上へ向かった。

階段の途中、上から下りてくる人物を認識して声を掛けた。
「小坂くん、」
リッカに呼び止められ、ミツヒコは立ち止まる。
「あ、木原さん、屋上で飯食べるの?」
「うん……天気もいいし、」
「でも、けっこう風が冷たいよ。じゃあね。」
「あ、待って、小坂くん……なにかあった? 物凄い形相だよ。」

(……物凄い、形相?)


「……木原さんはさ、好きな人いる?」

「どうしたの、突然。」
「いや、なにかあったって聞いてくれたでしょ?」
「聞いたけど……、でもいるよ。」
「じゃあさ、好きなヤツが永遠に手に入らない絶望の淵に立ったら、どうする?」

リッカは考えていた。今日のミツヒコはどこかおかしい。ふざけているのか、本気なのか、自分の失恋を、今ここでミツヒコに話すべきかどうかを……。

「それでも、気持ちは自由にできないもんだよね。私は、しばらくそこで立ち尽くすと思う。……気が済んだら、歩き出すかな。」
「誰かを無性に傷つけたくなったことは、ある?」

「……あるよ。誰かも、自分も。」

リッカの言葉を聞くと、ミツヒコは少し表情を和らげて言った。
「今、木原さんに会えてよかった。ありがとう。」
ミツヒコは、リッカの次の言葉を待たずに行ってしまった。


リッカは、ミツヒコの背中を見送った後に屋上へ出た。
「うわーー、気持ちいい!」
空気が一段とおいしい。
すぐに弁当を食べようと思っていたのに、ミツヒコと話してリッカは気が変わった。
ブレザーのポケットに入れているメモ帳とボールペンを取り出して、膝の上でサラサラとなにやら書きはじめる……。


『シロウくんへ。シロウくんがはじめて私に声を掛けてくれたときから、私はずっとシロウくんに恋をしていました。この恋は実らなくても、ちゃんとここにいます。』


短いラブレターを、一度丁寧に折りたたんだ後、もう一度開いて、びりびりと破った。リッカはそれを、屋上のフェンスに乗り出して空に降らせた――。



〜〜〜〜〜〜〜〜

――午後三時五十五分、地下鉄の構内にて。

平日だというのに、この時間帯はすでに人がごった返している。
通学が地下鉄というのは、いい加減うんざりだ。
イチカとフミは、離れないよう腕を組みながら人波をすり抜けて歩いた。
「ねえ、ねえ、イチカ。シロウくんと進展あったでしょ?」
ざわめきの中で、目一杯に声を張り上げてフミが尋ねる。
「いま、その話題?」
イチカも負けじと大声で応えた。
「だってさーー、テンション上げないとやってらんないよ。この人! うおーーって叫びたくなる。」
(野獣か!)
でも、このざわめきの方が、二人の話なんて誰も聞いていない。周りなんて気にしないで話せそうかも、とイチカもヤケクソになった。
「フミちゃんはさーー、ファーストキスってベロあり? なし? どっちだった?」
「えーー、ベロ〜?? 中学生だよ、なしに決まってんじゃん。」
「だよね。」
「……って、もしかして、シロウくんとやったの?」
「キスだけだよ!!」
「マジかーー、あのイチカがね〜!!」
「あのって、なによ。」
「あれ〜、ひょっとして、ディープなやつしちゃったの? マジ?」
「違う違う、なんていうか、ちょっと時間が長くて、変な気分になるじゃん……で、相手の舌がなんていうか歯にね……でも、わかんなくて口開けなかった!!」
「あはっ!! シロウのやつ、こじ開けようとしたのーー、サルだね。」
「なんなの、あれ、どうしたらいいのーー。」
二人は駆け足になりながらやり取りを続ける。
足取りは軽やかだ。


いつもの街並。
馴染みの店でのショッピング。
同じコースのエスカレーター。

「ねえ、フミちゃん、今の女の子見た?」
「え、どの子〜?」
「見てないか……」
「どしたあ?」
「キレイだなって……思って、」
「あんたよりキレイな子って、いる〜?」
「いやあ、またそういうこと……」

人ごみの中、今日のミツヒコのことばかり考えていたリッカは、いま自分がどこを歩いているのか、誰と擦れ違ったのか、どこまで行きたいのか……いまいちはっきりせずに歩いていた。
放課後の帰り道に、自分磨きにと寄ったショッピング街。
以前、ちらっと見ただけの、自分の恋の相手の恋人に、気付くことなく歩いていく――。

「ああいう感じの女性に、なりたいな。」
イチカは、リッカの後ろ姿を振り返って見ながら呟いた。そしてその声は、フミに届くことなく、ざわめきの中に掻き消された。



〜〜〜〜〜〜〜〜

午後十八時十五分、ある公園にて。

(あ〜、少し遅くなったけど、まだママ怒ってないよね。)
今夜は家でちょっとした約束があった。それなのに、買い物に夢中になったイチカは、そのことがすっぽり頭から抜けていた。
家路への途中、少しでも近道を選ぼうして普段と違う路地に入ったイチカは、見たことのない光景に戸惑っていた。

(あれ、迷っちゃったかも……、なにやってんだろ、私。)
母に連絡しようと決めてスマホをカバンから取り出す。カバンの中でガサゴソとやっているうちに、スマホのライトが灯り、視界が少し明るくなった。
そして、開けた視界の先には、イチカの知らない公園があった。

(ん……? あそこにいるの、ミツヒコくんじゃないかな。)
公園のすぐ傍にはバスの停留所があり、ミツヒコはそこでバスを待っているように見えた。
「ミツヒコくん!」
イチカはすぐにミツヒコに声を掛けた。
「あ、イチカちゃん。なんでここに?」
「ちょっと、道に迷っちゃって……。ここからバスに乗るの?」
「ああ、そうだよ。俺ん家、けっこう遠いんだ。」

ミツヒコは、このタイミングでイチカには会いたくはなかった。シロウとイチカのことを考えただけで、ぐちゃぐちゃの感情が湧いてくる。それを、どう処理すれば良いか、いまの自分にはわからないのだ。
なるべく平常心を装う努力をしようとミツヒコは決めた。

「あそこの道を真っ直ぐ行ったら、大きな通りに出られるよ。」
「あ、そうなの、ありがとう……。」

イチカは、薄暗闇に佇むミツヒコを見つめ、この横顔に恋したんだよな、と思った。そう、本当は、イチカはミツヒコのことが好きだった。
けれど、思いがけないハプニングがあり、シロウと付き合うことになったのだ。今では、シロウのことを知る毎にどんどん彼に惹かれている自分がいる。

(あのとき、私が先にミツヒコくんに告白していたら……なんて、考えてももう遅いけどね。)
今さらのことだった。イチカは別に後悔しているわけではない。それに、ミツヒコは、気のせいかもしれないが、イチカが自分に好意を持っていることを知っていてわざと避けたようなところがあった。
イチカにはその本意や真実はわからない。

「最近、シロウとはどう?」
「……うん、いい調子だよ。シロウくんから聞いてない?」

「……君は俺のことが好きなんだと思ってた。」


「え……。」


(好きだったよ……。でもなんで今さら、今になってそんなことを。)
イチカが戸惑っていたその一瞬だった。
何が自分の身に起こったのか、イチカには分かっていなかった。

「ん……んん。」

ミツヒコは、イチカに近づくなり、強引に彼女を自分の方へ引き寄せ、唇を奪った。

突然のキス。

暴力的で濃厚な口づけに、イチカはしばらく抗うことができなかった。キスの間、イチカは、はじめてミツヒコに目を奪われたときのことやはじめて声を聞いたときのこと、シロウと付き合ういきさつやそのときの言葉、先日のファーストキスのことまでを、走馬灯のように思い返していた。
イチカは、しばらくして解放された。唇を離すときは、先ほどのキスの瞬間とは打って変わって、力なげのミツヒコ……。

一度、互いに目を見遣った後、イチカはミツヒコを両手で思い切り突き飛ばした。



(なんで……。)




突き飛ばされ、地面に倒れ込んだミツヒコは、肩を震わせて泣いていた。

「シロウは、どんなキスをするの?」
「え?」
「君はどういう風に反応して返すの……?」


イチカは何も言えず、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
そのうちにミツヒコがよろけながら立ち上がり、上げた顔はもう泣いていなかった。
「ごめん……君を、俺の欲に利用して、酷いことしてごめん」
「……。」
「シロウには、言うの? なんて言う?」
それを聞いて、イチカはミツヒコをきっと睨みつけ、言った。
「ミツヒコくんは、私のこと好きじゃないみたいだね。」

「好きだよ……、君は特別な存在だ。でも、やっぱり君が憎い。」

「……どうして?」

イチカには、ミツヒコの言葉の意味が分からなかった。いつも何か秘密を抱えたようにどこか掴めないミツヒコ。それが彼の魅力でもあり、きっとイチカが惹かれた部分なのかもしれない。

「秘密だよ。」

「……ミツヒコくん、なんか別の人みたい。」
「そう?」
「……。」
「君とは秘密ばかりだ。写真の件も――。」

イチカは、いつの間にか自分の心が、ミツヒコを静観していることに気付いた。突然、あんなことをされて、本当なら怒りや恐怖の感情が湧いてくるはずなのに、今は思いがけず心が静かで、意外だった。
気のせいかもしれないけれど、ミツヒコが泣いた姿を見たからかもしれなかった。

「私、シロウくんのことが本当に好きだよ。」
「だろうな。」
「私、あなたに一目惚れして、恋をしていたの――。」
「……。」
「私が勝手に撮った写真、データ消すね。」
イチカはその場で、ケータイの中に保存されていたミツヒコの画像データを消去した。
「でも、謝るのやめた。さっきの君のしたこととでチャラにする。ばいばい。」
体は少し震えていたが、ミツヒコに悟られないように隠したまま、イチカはすぐに歩き出した。


一本道をまっすぐ進んでいくと、ミツヒコが言った通り、大きな路地にぶつかり、その道はやっとイチカも見覚えのある道だった。

唇の感触が消えない。シロウとのキスとは全然違う、呪いのようなキス。
イチカは歩きながら下唇を血が出る手前まで噛んだ。
この初恋と完全に決別することにする――。


あの、一瞬でもみっともなく泣いていた彼の涙は、相手に届くのだろうか。

彼もまた、始まらない恋をしていたのだろうか――。

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