わたしの怖い団地

小鳥 薊

その後の1話 口裂け女

私の実家はとある団地。
築年数もかなり古く、最近では新しい入居者も受け入れていないそうだ。

その団地を出て十数年、私は結婚し母となった。
最近、一人暮らしの母を心配して、実家の近くの賃貸マンションに越してきた。

十歳の娘はおばあちゃん子で、最近では学校帰りに一人で実家の団地に寄り道することがよくあった。


私は、引っ越してしばらく、地元の懐かしさに浸っていたが、懐かしさにも慣れてしまうと、すっかり寂れてしまったこの町と団地の有様を重ねてしまう。

実家の団地は、壁の塗装が至るところ剥がれたり黒ずんだりしてしまって、なお一層不気味さが増したコンクリート塊になった。


「ねえ、なっちゃん、ばあちゃんの団地って怖くない?」

「えーー、なんで? 怖くないよーー。」

私にとっては、過去にいろいろあった団地だが、娘は何とも感じていないようだった。

「怖いっていえば、ママ、口裂け女って知ってる?」
「懐かしいねーー。ママが小さかった頃に流行った都市伝説。マスクを外して『わたし、きれい?』って聞いてくる女の話だよね。」

「なんかね、新しい学校で今、噂になってるの。」
「……口裂け女が?」
「そう、下校途中に見たっていうお友達もいるんだよ。」
「えーー、本当かな。なっちゃんの知っている口裂け女ってどんな話なの?」
「大きなマスクをしている髪の長い女の人が、子どもに声を掛けてくるの。」

私が知っている話と大筋は一緒だ。
しかし、聞いていくと、その話には明らかな変化があった。

「その女の人、『うちに来る?』って聞いてくるんだって。」
「うちに来る? 行くって答えると、どうなるの?」
「連れて行かれて、その子の口を裂いて仲間にしちゃうんだって。」
「じゃあ、行かないって答えると?」
「マスクを外して、すごい怖い顔で追っかけてくるって。」


娘の通っている小学校は私の母校でもあるが、口裂け女の怪談は誰もが知っている話ではあるものの、実際に女を目撃したという話は聞いたことがない。

はたして、そんな女が本当にいるのだろうか。いたずら好きの誰かが自分で作った噂を広めただけかもしれない。


私と娘は、実家から自宅への帰り道を歩いていた。
母の調子は良いらしく、拵えた数種類のおかずを味見させられ、あれこれと話しているうちに帰りが遅くなってしまい、辺りは薄暗くなっていた。

実家と自宅の中間点に小学校がある。
娘は、良せばよいものを、この帰宅途中に口裂け女の話をしたものだから、校舎が見え始めると怖がり始めた。

「なっちゃん、もうそんな話、お友達としちゃだめよ。」
「うん。」


ふと目線を娘から前方へ戻すと、校門前の電柱の陰に人が立っている。
黒い、髪の長い女だ。初夏なのに、トレンチコートを羽織っている。
その女は後ろ向きで立っているため、顔は見えない。
トレンチコートからひょろっと伸びるもやしみたいな形の脚は、どこかのブランドのピンヒールを履き不自然に佇んでいる。

(なんだか、口裂け女の特徴に似ている……)

それが本当に口裂け女だろうと、なかろうと、その女の風貌は不気味だ。
コンクリートの壁に向かって微動だにしないその女との距離は、五、六メートルくらいだった。

「ママ。」
「しっ!」

娘も女に気付いたようで、私の腰にしがみついてくる。
私は、関わりたくない存在に気付かれないように、娘を落ち着かせ、女をやり過ごそうとした。

そのときだった。


女が、くるりとこちらを振り向いた。


(マ、マスクしてる……!なんなのこの人。噂は本当だったの!?)
「く、口裂け女ーー!!」
娘が堪らず叫んだ。



「口裂け女って、私のこと?」



「す、すみません。ほら、なっちゃん、謝って。」


「いいんですよ。」
女はニタッと笑った。顔の半分はマスクに隠れているが、腫れぼったい二重瞼が醜く歪んでいる。
よく見ると、黒髪は白毛が混じり、歪んだ皮膚は皺だらけで、見た目は七十近くに思えた。
それに歯がないのか、口から空気が漏れているようで、ところどころ言葉が聞き取りにくい。


「ほら、行くよ!」
私は、すぐにでもここから立ち去ろう、そう思って娘の手を引っ張り、歩き出した。
何もないならそれでいい。しかし、変質者に変わりないこの女のことを、学校にどう報告しよう、家についたらまず警察に相談してみようか。


「待って!!」
突然の女の呼びかけに、足が止まってしまった。
「……な、なんですか?」

「なっちゃんっていうの、可愛いね」
そう言って近寄ってくる女から遠ざけるように娘を自分の後ろに回す。
女は続けた。
「私もこんな子、ほしいな。」

「……。」

「ほしいな。」

「……。」


「ねえ、なっちゃん、おばちゃんの子になる?」
「なに言ってるんですか!」
「んん?このマスクが気になるの?」
「こっちに来ないでください、警察を、呼びますよ!」
「本当に、口裂け女だと思うーー?」

そう言って、女はマスクを外した……。



私の知っている口裂け女って、どんな話だっけ……。
「わたし、キレイ?」と聞いて何をするんだっけ……。

ああ、そうだ、ハサミ。
ハサミで口を切られるとか、そういう感じだっけ……。


でもあれはただの都市伝説。
この目の前の女は口裂け女を真似しているだけ。だってあれは作り話だもの。



「キャーーー!!」

娘が叫んでいる。
口が裂けていれば口裂け女と呼んでいいなら、この女は『口裂け女』だった。
マスクを外した女の口は、明らかに作為的に大きく、真っ赤な口紅でそれを誇張してもいた。
ニターッと笑うその口には、予想通り歯が一本もなく、それが一層、顎の輪郭を際立たせていた。
不気味なメイクに不気味な言動。
どうしてこの女は、こんなことをしているのか……。
私は、目の前の女が怪物ではないと確信できるが、得体の知れない不審者であることに変わりはなかった。


私は、娘の手を引っ張って全速力で走ろうとした。
しかし、娘との歩幅が合わずにすぐにもたついてしまう。


――カッカッカッカっカッカ……――

女が追いかけてきている!

「ママーー、もう走れない!い、いやだー!!」
一瞬で、娘が重くなった。
女が娘のもう一方の手を引っ張ったのである。

「む、娘をはなせーー!」
私は無我夢中で、その女を突き飛ばした。

女は、地面にうずくまって唸っており、私はその隙に娘を抱きかかえてその場から走り去った。

「ひどいじゃない……みちゃ……。」
女が何か言ったが、私は気にしている余裕などなかった。


しばらく走り、校舎も見えない住宅街まで来た。
ここで初めて後ろを向く、女は付いてきていない。


あの女は、なんだったんだろう……。
手がまだ震えていたが、まず警察に連絡しよう。

私は、警察に事情を話しながら、呆然としている娘の背を見て凍りついた。

「……どうしました?」
「ちょっと待ってください!」

そのまま娘に駆け寄る。
「なっちゃん、大丈夫? 痛いところない?」
「……痛くないよ。」

娘のトレーナーが破れていた。
まるでハサミやナイフで切り裂かれたようにぱっくりと……。

幸いなことに刃物は素肌までは到達しておらず、娘は無傷だったものの、私たちはひどいショックでしばらくは外出も車でしかしなかった。



それから、不審人物への対策が強化されるようになって、口裂け女の噂をする子どももいなくなったらしい。
口裂け女は噂で、そんな怪物はいない。けれども、その噂の元となった人物は確かに存在したと、私は認めざるを得ない。

そして、その後、ひょんなことから私はこの物語の意外な事実を知ることとなる。



それは事件から二年後の、同じく夏だった。
中学生になった娘が、母の実家の団地に住む小学生から聞いた話を私に話した。
「ねえ、ママ。……口裂け女のこと、覚えてる?」

「どうしたの? もしかして、また見たの?」
「ううん、違う。今日ね、聞いたんだけど、小学校で『ハサミ女』っていうのが噂になってて、それがね、あのときの女に特徴が似ているんだ……。」

ここ最近は不審人物の情報も近所では聞かず、安心していたというのに――。

娘は続ける。
「髪の毛はぼさぼさで、トレンチコートも着てないんだけど、フリルの付いたワンピースに踵の高いヒールを履いてるんだって。」

そこで私は、どこか既視感を覚えた。なぜだろう。

「その女ね、下校中の子どもに言うんだって。『かわいいね』とか『うちに来る?』とか。」
「それで?」
「断るとハサミを振り回して追いかけてくるっていう話。」
「……あの女かな……だったら警察に知らせないと!」
「ちょっと待って、続きがまだあるの。ハサミ女がね、『サトミちゃん』って子を探してるんだって。」


――サトミちゃん……。




「ママの名前って、『サトミ』だよね……。」








「理美ちゃーん。」

「理美ちゃーん、かわいいね。」

私の頭の中で、その女の声がリフレインする。



あれは、完全に狂ってしまった‘サユリさん’ではなかっただろうか――。

あのとき、女は――。

「……ひどいじゃない、理美ちゃんって、言ったんだ……。」









          

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