わたしの怖い団地

小鳥 薊

第7話アーメン

私は、生まれたときからこの古い団地に住んでいる。
そして、ここには今まで不思議な体験談や奇妙な住人との出会いがいくつもあった。
この度、社会人として就職が決まり、この団地を出ることになったため、それらの体験を振り返ってみようと思った次第である。
今回もまた、少し怖い住人の話だ。

その住人は、私と同じ玄関の二階部分、仮に421号室とする部屋に一人暮らしをしている老婆で、身寄りのない生活保護者の清藤さんという人だった。
清藤さんは、今はもうこの団地には住んでおらず、確か去年の秋頃にどこかの施設へ入居したと聞いた。
私は、小学生の頃は毎日といっていいほど、学校帰りは団地の前の公園で夕飯まで遊んでいたので、ごくたまに清藤さんを見かけることがあった。
その様子の不気味さは、今まで紹介した住人の中でも群を抜いており、絶対に近寄りたくないと思った。一緒に遊ぶ子たちでさえ、清藤さんを避けているのが見え見えで、私達はみな、「触らぬ神に祟りなし」という言葉のとおり、ふざけて口に出すことすら憚っていた。

清藤さんは、まず、容貌が亡霊のようだった。
センター分けにした白髪まじりの髪の毛を後ろで一つに束ねているが、全体的にパサついており、昔話に登場する山姥みたいだ。そして、歩き方は足のない幽霊のように極端に上下運動が少なくて不気味だし、表情は能面のようだった。
そして清藤さんの奇妙な行動として、外から帰ってくると必ず、玄関に入る前に、出入口のところで一旦立ち止まり、何やら
「ぶつぶつぶつ……。」
と呟くのだった。
公園からうかがって見ても、何と言っているのか聞こえないし、小さな口の動きからも読み取ることは難しい。
清藤さんは、不気味ではあるものの、私達が日常目にする行動は本当にそれだけだったので、特に気にしなければ実害もない。

そんな清藤さんは、冬になると10ℓの灯油ポリタンクを両手にぶら下げて団地に戻ってくる。そのときの格好も、冬だというのに薄着に突っ掛けで、雪の積もるこの地域ではまず考えられない軽装である。
おそらく近所のコンビニから調達してくるのだろう。とはいえ、老人にはきつそうなポリタンクを眉一つ動かさずに運ぶ清藤さんの姿は、さすがに私達の間でも話題になった。

「お母さん、清藤さんってわかるでしょう?」
「下の階のおばあちゃんでしょ。変わっているよね、あの人。」
私は、食器を洗う母の背中に清藤さんのことを話しかけた。
「あのさ、あの人、いつも玄関の下で何かぶつぶつ言って立ち止まるの知ってる?」
「うん、何て言っているんだろうね。」
「お母さんもわからないよね。」
母は、首を傾げる仕草をし、食器を洗う手を動かし続けている。
「清藤さんといえば……、ポリタンク。」
私が、そう口にすると、母はたちまち思い出したかのようにこちらを振り返り、濡れた手をエプロンでさっと拭くと、私と向かい合ってテーブル席に腰を下ろした。何か話したげである。
「あのね、お母さん自治会費の集金で清藤さんのお宅を訪ねるんだけど、あの人きまって出てこないのよね。それで会長さんへ相談して保護課の人に電話で清藤さんのこと聞いてもらったの。そうしたらね、」
「うん……。」
「保護課の人も、インターホンを押しても一向に出なくて、でもドアは開いていたみたいなの。それで中に入ったら、陽も暮れかけていたのに電気も付けないで真っ暗な部屋の中に、清藤さんが立っていたんですって。話し掛けると、返答は何かしらあるみたいで、聞いてみると冬なのに電気も水道もガスも止まったままになっていたって。その中で、あの人ずっと生活していたみたい。」
「え!……でも、じゃあポリタンクの灯油って何に必要なのかな。ストーブって電気ないと使えないよね。」
「……怖いわよねえ。」
「怖いよ。」

弟とホラー映画を見たある日の夜、私は清藤さんが灯油タンクを頭から被り、焼身自殺をして団地が家事になる悪夢を見た。
なんという夢だ。
その夢を見てから一層、清藤さんが不気味に思えてならなかった。

清藤さんは、保護課の人に何か支援をしてもらったのだろうか。今もまだ暗闇で生活しているのだろうか。わからないが、それから冬が終わり、春を迎え、そしてまた冬が来ても、彼女の行動は一貫して変わらなかった。

ある日、私はたまたま玄関の階段を下りて外出する途中、玄関内で清藤さんと擦れ違った。会釈しても、いつも何の反応も示さない清藤さん。
清藤さんはたった今、玄関に入る前にする立ちっぱなしの儀式を始めようとしているところだった。
私は、少しゆっくり歩き、様子をうかがっていた。


(……聖書かも。)
そう思った。私はクリスチャンではないので、聖書は詳しくわからないが、おそらく清藤さんがいつもぶつぶつ呟いているのは聖書の一節だ。

私は、謎解きを終えた後のような達成感と、緊張感が入り交じり、前へ進むか立ち止まるか、多少混乱していた。
そうこうしているうちに、清藤さんの儀式が終わったようで、彼女は玄関の中に入ってきた。私は一階部分で清藤さんと擦れ違うかたちとなったので、いつものように軽く会釈してその場を去ろうとした。
すると、いつもは透明人間のように私を無視する清藤さんが、私に頭を下げたのだ。
清藤さんのお辞儀は深々としていて、こちらが畏まるような一礼だった。
(今日は、どうしたのかな。)
私は呑気にそう思った。少し興奮していた。けれどそんな呑気な気分はすぐに一瞬で凍りつく。

「アーメン。」

そうはっきり言った清藤さんと擦れ違い様に目が合った。ばっちりと合った。

(なんで、私にアーメンって言うの、怖いんだけど。アーメンって、どういう意味よ。なんなの、なんなのよ。)

私の言葉は声にはならなかった。
清藤さんはそのまま階段を上がっていったので、その後何かが起きたわけでもなく、それ以降はまたいつもの無視だったので、清藤さんと私のエピソードはここまでである。

私の団地って、本当に変な人が多い。でも、これがフィクションなら物足りないが、現実なら十分だろう。
これ以上、恐怖に踏み込むと、こんな団地になんて住んでいられないもの。

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