わたしの怖い団地

小鳥 薊

第5話裏の川

私の住んでいる団地は大きな国道に面していて、居間にいると静かな夜には車の通過音が聞こえ、うるさく感じることもある。
私が寝ている部屋は国道の裏側だったので騒音とは無縁であったが、居間とは違い、陽当たりが悪く昼間でも薄暗くて、少し寒い。
それに、すぐ傍を小さな川が流れていて、耳をすますと水流の音が聞こえる。

その音は、雨の音やさざ波の音と違い、夜に聞くとどこか不気味だった。
水道の蛇口から少量の水が垂れ続けているのをずっと聞いているのに似ている。
恐怖を意識せずに生活すれば、しだいに慣れて気にならなくなるのだが、今回はこの川の話をしたいと思う。

私は、ある頃、同じ内容の夢を立て続けに見ることがあり、その夢の舞台が裏の川だった。
それは、小さな子供が見るようなインパクトのある怖い夢とはまた違う不気味な夢だ。

団地は外玄関から出ると両側から裏手に回ることができ、いくらか草むらに覆われた土地と川の境には大人の腰あたりの高さのフェンスが一面を仕切っていた。
そこから下を覗き込むと崖の斜面と川が見える。川もまた草木が覆っているのだが、場所によっては川まで下りて行けそうな拓けたところもあり、右から左へ水が流れているのも確認できた。
私は未だかつてこの川べりで人の姿を見たことはなかったし、周りにも川へ下りようとする人はいなかった。

私が見た夢では、フェンスの一箇所に出入口があり、そこから川を横断する木の橋が延びていた。
夢はいつも、夕暮れ時にこの橋を渡るところから始まる。
橋を渡っている途中、橋の下をのぞくと、川べりで釣りをしているおじいさんが見える。私はなぜかこの老人に気付かれないよう橋を渡り切らなければならなかった。
もしも、途中で目が合ってしまったりすると、この夢はここで覚めるか老人が物凄い形相で釣った魚をこちらへ投げつけてくる。
一度だけその魚が当たったことがあり、その感触が起きてしばらく消えなかった。
ぬめぬめしたその魚は、全体が黒いのに目元だけが光っていて、人間の目玉のようにギョロリとしている。
私の体にぶつかって橋に落ちた魚は、ぴちゃぴちゃとその場で跳ね続け、老人が下で
「ひゃひゃひゃ、」
と笑っている。その続きは見たことがなかった。
また、老人をやり過ごせた場合は、橋を渡ってすぐの場所に立っている現実では見たことがないくらい巨大な木の幹にある穴に私は入らなければならない。
中は暗闇の空間と照明の当たる場所に分かれており、暗闇にはたくさんの人がひしめき合っている。
私はそれがどこかの舞台だと思った。
ほどなくして異形の姿をした数名が代わる代わる登場し、何やら芸をしてみせる。
それは、かつて日本に存在した見世物小屋そのものであったが、当時の私には見世物小屋の知識などなかったのだ。

幾度となく同じ夢を見る私は、この奇妙な夢に次第に慣れ、同じ展開へ向かわせようとする夢の力に抗おうと試みるようになった。

その日の夢でも、見世物を一通り見せられた後、首が異様に長い着物の女に案内されて小屋を出るはずだった。
しかし私は、その女に尋ねた。口は重たかったが何とか話すことができた。
「教えてください、ここは一体どこなんですか?」
すると、今まで笑っていた女は眉をひそめて静かに言った。
「ここがどこかって?あんたは知ってるはずだよ。」
(どういう意味?)
私が黙っていると、女はニタリと笑って続けた。
「あんたはね…、アタシだよ。ここで生きてこの川で死んだのさ。」

そこで目が覚めた。まだ夜中だった。
川の流れる音が聞こえる。同じ部屋で眠っている弟の寝息は静かすぎて、私はまだ完全には目覚めていないのか。

「ひゃひゃひゃ…」

体が硬直した。
聞き覚えのある声だった。でもそれは夢のはずだ。やっぱりこれもまだ夢の中か。
私は無性に、今何が何でも窓の外をのぞかなければならない、と思った。どうしてそう思ったのかわからないが、確認しなければ怖くて仕方なかったのかもしれない。

私の部屋の窓からは、川べりの一部がしっかりと見える。そう、あの気味悪いおじいさんが釣りをしている位置だ。

「ううっ…」
私は唸って、すぐさまベッドに潜り込んだ。
目を閉じ、耳を塞ぎ、小さな声で唸り続けた。静けさが嫌だったからだ。
黒い人影。
暗闇の川の闇より暗い影があった。
もちろん、夢のようにはっきりとそいつを見たわけではない。しかし、それはもうそいつにしか見えない。
その夜はそれから朝まで一睡もできなかった。


この話にはもう少しだけ続きがあって、全く滅入ってしまうことに、私はそれからしばらくの間はあの夢をたまに見た。
あの夢は、あそこで完結したわけではなかった。不思議なことに、私が首の長い女に話し掛けてから夢の展開が少し変わってしまった。
それはあまりに後味の悪い夢なので、口にするのも躊躇われるのだが……、あの夢の冒頭。橋を渡る途中で、釣りをする老人を回避することができなくなった。
というのも、老人は絶えずこちらを見ていて、
「ひゃひゃひゃ、」
と笑っている。
そして、川から今まさに釣り上げたと見える不気味な魚を勢いよく私めがけて投げつけてくるのだ。
魚は弧を描いて舞い、べちゃっと私の足元に打ち上がる。

それは黒い魚ではなく、足のサイズほどの人型になった。濡れた長い髪の毛が体に巻きついて全体は黒く、ぴくりとも動かない。
「ひゃひゃ、掛かったぞ。よおく見なさい。身投げじゃ。ここでは人間がよく釣れる。」
老人の声が反響している。
私はその“魚”を見つめた。
束になった髪の毛の間から目が見える。
私の目が。


どうしてあのような夢を立て続けに見たのか、あの夢の意味は何なのか、老人は本当にいたのか、見世物小屋の既視感はなぜか……、真相は何もわからないので、今でもたまに思い出す。
そして、もしまたあの夢を見始めてしまったら、私はどうなってしまうのか。

この川で以前、死体が上がったとか、見世物一座の歴史とか、知りたくないので、これは不思議な夢と決めた。
しかし、時が経つにつれて、記憶自体が曖昧になり、だんだんと夢と現実の境がわからなくなってきた。

川の流れる音は今夜も耳をすませば聞こえてくる。

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