白昼夢の家族

小鳥 薊

第2話 或る白昼夢の夫婦

風通しの良いベランダから、先程干し終えた洗濯物の香りが運ばれてくる。相馬鳩子そうまはとこは、この瞬間が一日のうちで最も幸せだと思っている。
時計の針は午前十時半をきっかり刺していた。

初夏、最近は晴天と雨天が交互に、忙しなくやってきたりする。部屋干しを好まない鳩子は天気の良いときに集中して二回も三回も洗濯機を回す。朝の予報で確認して、それから空模様を眺めて、それでも気まぐれな天気に気を抜けない主婦は、洗濯の番として、今から五時間くらいは、あれこれと家のことをしながらこの陽の射すリビングにいるわけである。

週四回で入っているパートタイムの仕事は、今日は休みである。
久々の休日。
身体をベランダの方へ向け、鳩子は目を閉じる――この方が嗅覚に集中できるからだ。
風の音が聞こえる。
びゅう、と強い風が地面を撫でつける度に、埃まじりの青臭さが舞い上がり少し煩わしい。けれども、うんと上がった陽気と洗濯の香りを運んできたときのこの風を、鼻先はもっともっと、とせがむよう膨らんだ。
幸せな主婦だな、と鳩子は思う。今ここに一人ならもっといいのに、とも。

「かあさん、かあさーん、」

ほら、遠くの方で、声が聞こえる。またか、と鳩子は口の中で食むように呟く。幸せな主婦は、ほんの数分で煙になりリビングの壁に吸われて消えていった。
「頼むから、もう少しだけ大人しくしていてちょうだい。」
今度は小さな、小さな声で言った。
「用事もないくせに、そんなに大きな声で呼ばないでちょうだい、その声を嫌いになりたくないのに、もう大方、嫌いよ。」
鳩子は無視を決め込み、声の方へは行かなかった。そうしてソファに腰を下ろし、真っ白なリビングに似合うよう、音を立てずに潜んでいたら、程無くして身体の自由が利かなくなった。

鳩子は、白昼夢の中にいた。

目を閉じているのか、閉じていないのか、自分でもわからない。たぶん閉じているのだろうと思う。けれども、真っ白な壁を知覚できる。だからこれはまだ現実かもしれない。
夢でないのかもしれない。けれども、次の瞬間、ああ、これは夢なのね、と鳩子は今一度思いなおした。
鳩子の頭を優しく撫でる指先の感触。もう帰ってはこない真面な夫が、鳩子のすぐ傍にいる。それだけのことなのに、鳩子は涙を堪えることができなかった。


「鳩子。」
「何です。」
「君はいつまでも、子どものようだね。いい加減、大人になりなさいよ。」
喧嘩のとき、いつも最後に夫は、そう鳩子に言うのだった。
悔しくて、いつも涙が出た。頭を撫でつけるその指先を剥がしたいのに、それができずに泣いていた。
「その台詞、すっかり貴方にお返ししますわ。今では、子どもは貴方の方でしょう。」
夫は何も言い返してはくれない。ただ静かに笑い佇むだけだ。
「もう、貴方にお会いすることは、永遠に叶わないのよね。」
夢の中でだけ叶う。未来のない、回想の世界で、また会いましょうと、鳩子は付け加えた。


「かあさん、かあさあん!」
鳩子の体が収縮した。
それは変わってしまった夫の声だった。心地良い夢を見ていたのに、微睡をぶち壊し、一人きりのリビングに躊躇なく入り込んでくる。
鳩子の身体はまるで鉛のようだった。
時刻は、驚くことに正午を過ぎている。ソファから転がるように起き上がり、声のする部屋へと駆けていった。

「慶司さん、どうしたの。」
「家に帰る。」
「家は、此処です。」
「違うよ。」
「じゃあ、……何処だっていうんです。」
大きな声を出してしまった。慶司が怯えている。こんな対応は正しくないのだ。医師からも言われていた。けれども、もう、どうしたらよいものか、慶司の一言一言が、鳩子の癇に障る度、苦痛で発狂したくなる。鳩子はこの状況を暫く落ち込んでいたかった。その現実を受け入れるのに数秒でもいい、時間が欲しかった。しかし、慶司は興奮して喋り出す。
「助けて、助けてー。」
「もう、いい加減にしてちょうだい。帰りたければ帰ればいいじゃない。帰る場所があるんならね!」

慶司は途端に静かになった。もうこちらに興味がないみたいだった。

「またそうやって、見えない、聞こえないって始めるのね。貴方の帰りたい家って何処なんですか、教えてちょうだいよ。」
慶司が此処ではない、と簡単に言い切ったこの家の其処彼処には、確かに二人が築いた家庭の歴史が刻まれているのに。
裏切り者、と鳩子は心の中で罵った。そして、この人は鳩子の知っている慶司とは全くの別人だ、そう思うと少し、哀しいけれど救われた。

「私、お昼ご飯を作るわ。それから洗濯物を取り込んでちょっと買い物に行ってきたいのよ。」
壁に凭れ投げ出された慶司の脛に、陽が射していた。いつの間にか白くなって、もやしみたいだな、と鳩子は思った。少し見つめていたら陽の光は見る見るうちに弱くなり、白い脚はすぐに灰色になった。雨雲が完全に太陽を隠してしまったのだった。
鳩子の足の裏に伝わる畳の温もりは硬く、ひんやりしていた。

雨が降り出すのは時間の問題だった。洗濯物を取り込まなければならなかったが、鳩子にはその前にやらなければならないことがあった。
「慶司さん、トイレに行きましょうよ。」
慶司の前でしゃがみ込み、殿部にそっと手をやると、やはり湿っていた。慶司は既に失禁していた。
「嫌だ。」
「濡れているじゃない。」
鳩子の溜息が沈黙に溶けていく。
「風邪引くわよ。」
「いいんだ。」
「よくないわ。貴方、本当にわからないの。そんなこともわからなくなってしまったの。」
慶司は、梃子てこでも動かぬ様子だった。返事をするだけまだましな反応だろう。慶司を立たせることができず鳩子は一人、洗面所へと向かった。
鳩子の去り際、こちらをちらりとも見ない。慶司の魂はもう肉体を離れて何処か遠くへ行ってしまったのだ。抜け殻を置いて、そうしてもうしばらくは帰ってはこないのだ。
慶司が今、どんな顔をしているのか、鳩子は見なくてもわかる。

――パタン。
柔軟剤の効いたタオルを、大きいの、一つ、小さいの、二つ。それから夫の下着とパッド、ズボンを用意する。その間、お湯をバケツへ溜めておく。お湯の流れる間、ゴオゴオと響くガスの使用音は、使う度心をざわつかせるのに、今日は都合が良かった。
「私が大人になる前に、自分の方が子どもになっちゃったじゃない。」
鳩子の声を、鳩子の濁り黒ずむ憤りすらも掻き消してくれる。
鳩子は、タオルを脇に挟め、両手でバケツを抱えながら慶司の部屋へ戻った。
「慶司さん、服、着替えようか。」
塞がった両手を解放し、ドアを閉める。
懐かしい慶司の夢を見たせいだろうか、たとえ抜け殻であってもその肉体に触れた瞬間、不思議と鳩子の鼓動は速くなった。普段はそんなことはあり得ない。これは慶司だったものだ、慶司だったものに何を求めようと全くの無意味であることは百も承知のはずだ。
けれども、懐かしい、そうして寂しい、と鳩子の肉体が求めることがごく稀にある。

「慶司さん、そのままじゃあ、気持ち悪いでしょう。きれいにしたいから、ズボン脱がすわよ。」
慶司の返事はなかった。何も言わない代わりに抵抗もしなかった。鳩子は慶司の両膝を折り曲げ、一気に下衣を引き下ろした。
案の定、陰茎を包むパッドにはたっぷりの排尿があり、お尻の方までいっていて、全体を温タオルで拭いてやる必要があった。もう、オムツでないと駄目なのだろうか。
小さいタオルを暫くお湯に浸して固く絞り、鼠径部から中心の方へと拭いていく。慶司は最初だけ、身体を収縮させたがそれからはどの箇所も一向に弛緩していた。
この姿を、愛おしいと思えるだろうか。否定したいことが眼前に多すぎる。
尿で蒸れたパッドの臭い。
遠い昔、慶司のそれに触れたときとは、違う臭い。

真夏のアスファルトから揺らぐ熱気のように、鳩子の目にも見えていた男の臭い。滾る汗の躍動を鳩子は未だに覚えているのに。かつて、弾力のあった身体、しなやかな動き、漲る生命力を、今の慶司は微塵も纏っていないのだ。全く変わってしまったのだ。
寂しい、と、鳩子は今一度思った。

大判のタオルで水気を取り、新しい下衣に取り替えてやると、さっきよりいくらか夫らしかった。
「慶司さん、ちょっと席を外すわね。」
続けて、慶司さん、さよなら、と鳩子はこの部屋を出るとき、決まって言うのだった。そうして、慶司の部屋を出た後、鳩子はいつも直ぐには立ち去らないのだ。ドアの前で、耳を澄ます。鳩子は待っている。
「鳩子。」
「ほら、また。」
「鳩子に会いたい。」
「鳩子は私よ。」
慶司が鳩子と呼んでくれる日を、鳩子は諦めきれずにいるのだ。

窓の外を凝らして見ると霧雨が不確かに降っているようだった。雨粒に変わるまでは数分。鳩子はベランダまで駈け出した。
そうして慶司と鳩子は、再び一人きりになった。




































          

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