月に水まんじゅう

萩原 歓

18 厨房

 ステンレスの天板をピカピカに磨き上げた。星奈はこの厨房で一番の新人であるため、最後まで残って掃除をしている。
毎日の肉体労働で疲労は激しいが、こうやって綺麗になった広い厨房を一人で眺めることが好きだった。
 寸胴鍋がずらっと並び、揃ったレードルとフライパンが掛けられている。理路整然として気持ちがいい。
顔が映りそうだと思いながら、天板を覗き込んでいると大きな影が映り込み、はっとすると両肩をがっしり、大きな手でつかまれた。星奈は怖くなって足がすくんだ。
「片桐さん、いつも頑張ってくれてるねえ」
「あ、は、はい」
 ディレクターの横山幸平だ。彼はこのホテルの総支配人の甥にあたるらしく、まだ三十代前半だがそろそろ副支配人との呼び名も高い。しかし良くない噂も多い人物だ。
 肩をつかんだ手がだんだんと交差され始め、星奈を絡めとるような動きを見せる。
「片桐さんが良かったら、僕の力でもっといい仕事させてあげられるよ?」
 横山の付けている不快なフレグランスに、身体がますます強張る。ふっと星奈の脳裏に、ネットゲームでのチャットがよぎった。




月姫:敵に近寄られたらとにかく逃げろ
☆乙女☆:張り付かれたら無理だよ
月姫:大丈夫だって防御高いからhp削られてもにじって逃げるんだよw




 星奈は、縮めて身体を守っていた腕をばっと開き、横山の腕をはじくように開いた。怖くて声が出なかったが、とにかく振り払うことが出来た。
なんとか身体を離し、一メートルの距離をとると横山の手が伸び、星奈の手首をつかもうとした瞬間、「おつかれさま」と大きく明瞭な声が聞こえた。(助かった)
 この厨房で二番目に偉いとされている、スーシェフの高岡志穂子だ。
白い調理服は着替えられ、ダークグレーのパンツスーツをビシッと着こなしている。
 高岡志穂子はじろっと横山に一瞥をくれ「厨房に何か御用?」と尋ねた。
「あ、いや。全体の点検だ。いつも通り、ここもちゃんとしてるな。ははっ」
「そうね。ここはスタッフが有能だからね」
「じゃ、これからも頑張って」
 横山はなんでもなかったように、スッと厨房を後にした。
 脱力した星奈に志穂子は「平気?」と聞いてくるので「は、はい。ありがとうございます」と深々と頭を下げた。
「いいのいいの。あいつタチ悪いのよ。そろそろ怪しいと思ってたけど」
「そ、そうなんですか」
「片桐さん。これから時間ある?ちょっとお茶でもしない?」
「はい。すぐ着替えてきます」
 ホテルから出て、志穂子について行くと意外なことに、近くのファミリーレストランに入店した。

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