流行りの異世界転生が出来ると思ったのにチートするにはポイントが高すぎる

萩原 歓

 うっそうと茂るシダと、湿っぽい苔の上で横たわる冷たくなった硬い母親の乳房を、いくら吸っても乳は出ず、その代わりに彼女のわき腹に刺さった矢傷から流れ出た血を舐めた。ひりつくような刺激の強いその赤い液体は、私の喉を潤すことも腹を満たすこともしない。受け付けられない味わいに空かせた腹を抱えて、母親の周りをうろついているときに彼に出会った。


「可哀想に。母狐が死んでしまったのか。しかし人間を恨むではないぞ」
「ウラム? ウラムって何? 腹が減った。腹が減った」


 幼い畜生の私には母親が死んだことが悲しいとか、矢を放った人間を恨むなどの感情はなく、ただただ空腹が辛かった。


「そうかそうか。腹が減って辛いのか。お前はまだ心を持たぬのだな」
「ココロ? それを持つと腹が膨れるのか? 腹が減った。腹が減った」
「よしよし。おいで」


 そっと身体を大きな両手で包み、抱き上げられた私の口に一滴の甘い水が転がり落ちた。


「甘い。甘い。もっと、もっと!」
「ふふふ。美味いか」


 目の前を良く見ると硬い丸い葉の上に、更に上からぽつぽつと雫が垂れ溜まっている。それを彼は私に飲ませた。乳とは違うが甘く優しく喉を潤し、空腹を感じなくなっている。


「山には恵みが多いのだが、今のお前にはまだ厳しいであろうな」


 赤子の私には生き延びる知恵を母親から授けられておらず、このままでは朽ち果てるのみだった。腹が満たされた私は落ち着き、彼の手の中の温かさで瞼が閉じかけたとき「私の使いにすることにしよう」と優しく全身を撫でられたのを感じた。


 その日から私は彼の使いとなる。彼は私を、黄金色の毛皮を見て「金陽」と名付けた。彼が何者かを知るのはそう遅くはなかった。私を懐に入れ山を歩いていると、童たちとすれ違う。山を駆け回っている彼らは私たちに出会うと「天様!」と声を掛け手を振る。彼――天様は微笑みを返し、また山をめぐる。天様はこの山の精霊であり、神なのだ。不思議なことに彼の姿は大人には見えない。


「どうして大人には見えない?」
「童と大人では見たいものと見えるものが違うのだよ」


 理解はできないがそのようなものかと私は深く考えることもせず納得し、彼が与えてくれる甘い雫やら木の実などを食べ育っていった。
 湿り気を帯びたしっとりとした空気の中をゆるゆると歩き、季節の移り変わりを感じながら静かに暮らす。私たちが見えていた童は大きくなり、私たちを見失うが、また彼らは子を作り、その子らが私たちを見つけた。


 何度か季節が変わるころ私もすっかり大きくなり青年狐と成長していた。もう彼に抱かれることはなく、とてつもない速度で野山を駆け回り、彼の周りをくるくる回った。


「天様! 天様! ほら僕の尻尾面白いでしょ」
 私はふさふさとした黄金の尻尾を追いかけるようにその場をくるくる回る。
「ふふふ。目を回さぬようにな」


 優しく見つめる天様を楽しませたいと私は色々な遊びを披露する。ゆるゆると流れる静かな時間と心地よい空間と優しい天様と永遠に過ごすのだとこの時私は信じ切っていた。


 時折、天様の笑顔に陰りが出始め、私もなんだかそわそわと落ち着かない日々を過ごすようになった。遠くの山から飛んできた小鳥が天様にここのところの異変を伝える。私にはこの山が全てだったので、それより広い世界があり、更にはこの山を変化させようとする者がいたことに驚きを隠せなかった。
 小鳥の話を聞き、天様は寂し気に私の頭を撫で「そろそろ別れの時が来たかもしれぬ」と呟いた。


「別れ? 別れってなんです? 親から子供が離れるってことですか?」
「ふふ。そうだな」


 嫌な予感がしていた。次の日、天様はいつもとは違う道をどんどん下り、とうとう山を下りてしまった。


「こんな世界の果てに来てどうするのですか?」


 山の麓は深い霧に覆われており、それ以上私も天様も進んだことはなかった。


「この霧を抜けて、この山が見えなくなるところまで行きなさい。そこでは安心して暮らせるから」
「え? なぜこのままここに居てはいけないんですか? 天様はどうするんですか?」
「私はこの山を抜け出すことは出来ない。この山、そのものだからだ。しかしここはそろそろお前が住めぬ場所になるだろう」


 この山の自然が奪われていることに私は全然気が付かなかった。後で知ったことであるが、人間が戦乱のために大量の木々を切り倒した上に、異国の神をまつるのだという。天様は精霊であるが故、自然と、そして人の信仰がなくては存在し得ぬらしい。


「もう時間がない。金陽、教えたことを守りなさい。そうすればずっと心安らかに生きていけるから。いいね。恨むでないぞ」
「恨む……」


 遠い記憶の中でその言葉を幼い時に聞いたことを思い出す。と、同時に天様の姿がうすぼんやりと霞んできてしまった。


「天様! お姿が! ああ!」
「よい。私の天寿である。お前と過ごせて、しあ……」


 ふわりと全ての姿が消えた。私は唖然としてぼんやり立っていたが、天様が死んだ私の母の亡骸を地面に埋め、山と一体化したことを思い出し、急いで私もそうしようと天様を探す。
 土をせっせと掘り、天様を姿をきょろきょろ探し、また土を掘るが彼の髪の毛一筋も残っていなかった。そのうち人間の男たちのざらついた不愉快な笑い声が聞こえ始め、土を掘る私の足元にひゅっと一本の矢が飛んで地面に刺さった。


「うあああっ!」


 母狐の命を奪ったのは一本の矢だ。私は初めて怖いという感情が芽生え、濃い霧の中に身を投じ息が切れるまで走りぬいた。



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