浪漫的女英雄三国志

萩原 歓

34 仏教伝来

 魏で司馬懿の死を見届けた後、孫尚香は呉へと戻る。煌びやかな明るい景色は辛い思い出が多くとも足取りを軽くする。都の建業に何やら新しい建物が立っているのが見え、尚香は近づく。夫の陸遜が死に、ここを立ち去るときにはなかった建物である。呉は異民族と隣り合わせであることで、文化に多様性がある。また孫家三代、それらを排斥せず受け入れてきたことが、より華やかであか抜けた文化を産んできた。横長く反り返った屋根と朱色の柱に黄色の壁。蜀の伝統的で幽玄的な奥ゆかしさや魏の迫力と巧みな技が生きる力強さも見事であったが、やはり生まれた土地のこの軽快な色彩と均衡感覚は呉が随一であるなと尚香は自負する。門の前を掃除している下人にこの建物は何かと尋ねる。


「ああ、これは僧会様の寺院ですよ」
「寺院とな」
「ええ、仏教の」
「なるほど」


 全土ではほぼ儒教が幅を利かせ、勿論、呉の文官たちも儒学者が多い。しかし、ここ呉では新しい教えである仏教を受けいれており、30年も前から支謙恭明が仏教典を漢語に訳し、今は亡き太子の孫登の教育係でもあった。


「どうぞここは身分関係なく僧会様のお話を聞けますので」
「ありがとう」


 広々とした本堂に入ると、確かに様々な身分のものが康僧会の話しに耳を傾けている。しばらく尚香も末席で聞きながら、生きることと苦しむことについて思いを馳せる。話が終わると、皆は帰っていくが一人少年が待ってましたとばかりに康僧会に質問攻めにしている。利発そうな少年は身なりが良く、豪族か、孫権の家臣の息子かもしれない。質問に一つ一つ丁寧に康僧会答えているが、少年は分かったような分からぬような複雑な表情をしたのち、質問が尽きたのか立ち去った。尚香はその少年の瞳に兄、孫権と同じ碧さを認め、にこやかな康僧会に挨拶がてら彼の事を尋ねることにした。


「僧会殿。素晴らしいお話でした」
「これはこれはお聞きくださりありがとうございました。ところで失礼ですがあなた様は」
「失礼。孫権の妹で尚香です。旅をしておりましたのでこのような男のなりなのですよ」


 男装と男言葉がすっかり身についてしまい、尚香は今では武将の風格が身についている。


「ああ、あなたが。主君からお聞きしています。とても立派な妹君であると」
「いえいえ。ところで、先ほどの少年は?」
「おや、ご存じないですのか?」
「今、旅から戻ったばかりのだ」
「ああ、これはいけない。ご主君は病に伏しておられるのですよ。そして先ほどのお方は孫晧様です」
「あれが孫晧? 兄上が病とな。それでは急ぎ戻ろう。また参ります」
「ええ、ええ是非」


 孫権の話を聞き、慌てて屋敷に向かう。しかしさっきの利発そうな少年が、孫権の孫である孫晧ということにお驚いた。一度だけ見た孫晧はまだ生まれたばかりの赤子であった。


「時が流れるのは早いものよ」


 夫の陸遜を亡くし、自分の中で時間が止まっているような感覚を得ていたが、世の中は流れ赤子は少年にとなり、そして兄の命が尽きようとしていた。
 まず身なりを整えようと、陸抗がいるであろう己の屋敷に戻る。


「懐かしい。何も変わっていない」


 門の前で一人の見張りが緊張した面持ちで立っている。


「これ、抗はおるか?」
「は、陸将軍ですか? 今、中に……。き、貴様はだれだ!」
「ふふっ、先にそれを聞かぬとな」


 青年はぶるぶる震え、槍を尚香の方に向ける。門番になったばかりであろう、緊張のあまり動揺しているようである。孫権に早く会いたいと思っていた尚香は「中へ通すか、抗を呼べ。わたしは母の孫尚香だ」と、屋敷の中にも聞こえるように怒鳴った。


「え、へ? 母君」
「そうだ」


 門番の青年は新参者らしく、尚香の言葉を疑うこともなく、確認することもなく屋敷の中に入ろうとすると、ちょうど息子の陸抗が息を荒げて出てきた。


「母上! お戻りになったのですか! いつ!?」
「今だ。さきほど僧会殿の建初寺に立ち寄った際、兄が伏しておると聞いて急ぎ戻った」
「そうですか。どうぞ、今、湯を用意いたします」
「うん」


 親子の再会をじっくり味わうこともなく、尚香は身綺麗にし陸抗を伴い孫権の元へ赴く。それでも息子の陸抗がこの8年の間に立派な青年となって、陸遜に似てきた様子に胸が熱くなる。


「そなたは今建業におるのか」
「いえ、柴桑が本来の駐屯地ですが、少し身体を壊してしまい療養しておりました」
「そうか。身体を厭えよ」
「はいっ」


 陸遜に似た彼は我慢強いが身体が堅牢ではなく、おそらく生真面目さ故の過労であろう。母親として心配ではあるがすでに妻も娶り、子もいるようだ。本来ならば尚香は、陸抗の嫁を教育し、ともに子を育てる姑としての生活を送ったであろうが、できなかった。


「すまぬな、身勝手な母で」
「いえ! 母上。私は母上を尊敬しております。どうぞ母上の思う通りになさってください」
「思う通りか……」
 ぼんやり言葉を噛みしめていると、孫権の屋敷に到着し、陸抗が門番に取り成し、すぐに奥へ通された。





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