浪漫的女英雄三国志

萩原 歓

31 三国を巡って

 劉備の墓を参ろうと尚香は蜀を目指して漢中から険しい道を進む。長江の雄大な眺めはすでになく、険しい山肌と切り立った岩山が迫る。断崖絶壁に杭を打ち込み、なんとか通行できる桟道は風でギシギシときしみ揺れ、下を見れば細いが急な川が流れ、水面の光に目がくらむ。女丈夫と言われ続けた尚香でさえ、息をのみ恐れを感じるこの場所で一体兵士たちは、どれだけの不安を抱え北伐していたことであろうか。


「まさに天然の要塞……」


 色彩も呉とは違い、霞みがかったようにぼんやりとし、空気も湿り気を帯びている。蜀の都、成都につくが民は劉備、諸葛亮を失ったためであろうか、活気なく静かである。尚香はしばらく町の中を歩き、酒場に入り、亭主に食事と酒を注文した。


「亭主よ、玄徳様の墓はどこにあろうか」
「ああ、だんなは参りに来られたんですね。ここから北に向かって歩けばすぐわかります。皆参っておりますから」
「そうか。ありがとう」


 男装をして付け髭をした尚香を女人と思うものはいなかった。浅黒い肌に、女人しては背が高くがっちりとした体格と、腰に帯びた長剣により絡んでくるものもいない。絡まれたとしても、毎日、剣技を磨いてきた彼女にとって、並の男は相手にならなかった。
店を出て言われるままに北へ向かうとすぐに人の列にぶつかる。最後尾の老婆に「玄徳様の墓はこの先ですか?」と尋ねると「ああ、このまま並んでいなさい。今日は少ないから10刻ほどで参れよう」とくしゃくしゃの顔を綻ばせた。


「なるほど。ありがとうございます」


 劉備が民に愛され慕われている様子がよくわかった。また待っている間に老婆は色々な話をして聞かせてくれる。劉備の息子であり、尚香もわずかではあるが養育した劉禅は諸葛亮亡きあとも民の負担になるような税も徴収せず、富国に努め仁成を敷いているようだ。しかし老婆はため息をつく。


「でももうこの国も長くはもたないじゃろうなあ」
「なぜですか?」
「孔明さまの後継者だった蒋エン殿が亡くなったし、姜維殿は無理な北伐を進めてばかりじゃ」
「そうなのですか」
「うむ。はあ、あの時、呉にさえ敗れなければ……。玄徳様さえ生きておれば。あのお方はわしら一人一人に目を掛けられ、町の中を歩き、わしも何度かねぎらいの言葉をかけてもらったものじゃ」
「……」


 涙ぐむ老婆の話を聞きながら、夷陵の戦いにおいて大火を放ち劉備軍を敗退させたのはわが夫、陸遜なのだと、胸が痛む。


「まあ、仕方ない。ご兄弟を助けるためであるからな。一国の主となられても玄徳さまはご兄弟を捨てることはないのじゃ」


 しみじみと呟くように、噛みしめるように老婆は話す。この劉備の墓に参っている者は皆そうなのであろうか。国が、蜀が滅亡するかもしれぬと思いながらも、劉備の関羽の仇討、諸葛亮の北伐を恨むことはないようだ。


「なんと皆に愛されているお人であろうか」


 劉備から離れて、呉に戻りこうして改めてまた彼女の事を知ると当時見えなかったことや、知り得なかったことがよくわかる。
涼しい竹林を通りやっと尚香の番になり、墓に参る。こじんまりとした墓は清楚で質素であり劉備その人を表しているかのようだ。


「お久しゅうございます」


 冥福を十分祈った後、さきほどの老婆に声を掛けられる。


「ん? 何か?」
「お髭がとれそうでございますよ」
「あ、か、かたじけない。こ、これには訳が、あの、決して他国の間諜ではない」
「ええ、ええ、そうでしょう。あなた様は玄徳さまを熱心に参られてましたもの」


 老婆は優し気に言い、尚香の男装の理由にも、彼女自身についても言及しなかった。


「あなたはなんでもよく知っておられますね」
「ふふふっ。長生きしているだけですじゃ」
「そうですか。では私はこれで。これから定軍山の孔明殿を参ります。どうぞお達者で」
「ええ、ええ。あのお二人をもう一緒に見ることが叶わないと思うと生きる楽しみがありませんがね。あなたもどうぞお気をつけて」


 一礼し、尚香は老婆の前を去った。彼女ともっと話せばいづれ自分の身の上を知られそうだ。


老婆は尚香の背中を見ながら、薄々と彼女がかつて劉備の妻であった孫尚香であると気づいていた。ただ彼女が陸遜の妻であることは知り得なかったので、劉備を参るためお忍びで蜀に来たのだと思い劉備を倒したにくい敵とは思わなかった。夕暮れと共に、成都の町に静けさが訪れる。老婆はまた明日も玄徳さまを参ろうと、早々に眠りについた。


 再び、蜀の桟道を通り定軍山へ赴く。


「ここは何度通っても慣れぬな」


 下を見ないように慎重に歩み続け、険しい道を抜ける。少しばかり休み、堅牢な自分の身体と健脚に感謝し尚香は歩き続ける。
まるで巡礼者のように野山を歩き、今までの人生を振り返りながら心静かに故人たちを悼む。やがて定軍山に到着すると、やはりここでもまばらながらに人がおり、諸葛亮を参っていた。


「ここから魏を睨んでいるのか。孔明は」


 戦場であるため何もなく殺風景ではあるが、尚香にはいづれこの場所がもっと賑わい、諸葛亮を詣でるものが増えるであろうと予想がついた。
小山の前に立ち、諸葛亮を悼む。


「そなたは最後までよくわからない者であったな」


――劉備のもとに嫁いでから趙雲は遠慮しているのか、尚香と劉備の二人が揃っているところにはあまりやって来ず、じっと外で見守っている風であった。しかし諸葛亮はどんな時でも平気でやって来「奥方、失礼します」と涼し気な風が入り込む様にすっと劉備との間に割って入る。劉備もまるで厭わず、むしろこれほど喜ばしいことはないという歓迎ぶりでいつも国と政について話していた。


「我が君。僕はもう少しここを強引に攻めてもよいと思いますが」
「孔明よ。それでは主が気の毒でならぬ」
「うーん。しょうがないですねえ。じゃあ、このような手で行きますかね」


 二人のやり取りは尚香にとってまどろっこしく、煮え切らずイライラさせられることが多かった。話し始めると、まるで尚香の存在がないように夢中になっていることも気に入らなかった。これなら、話の邪魔だと言われた方がましだと、彼女はそっと部屋を出ると二人を見守る守衛のような趙雲が飽きることなく立っている。


「どうも、この者たちとはそりが合わぬ」


 あまりの親しさに劉備と諸葛亮も男女の関係であるかと疑ったが、二人はそれを超えた師弟関係でもあり、主従関係でもあった。まだ恋敵の趙雲の方が尚香にとって理解しやすかった。


 ふうっと過去の荊州でのことを思いだし、ため息をつく。自分と夫の陸遜とはどのような関係であったのであろうかと。劉備と契った者たちの事を思うと尚香は人智を超えた交わりがあるのであろうかと結論の出せぬまま諸葛亮の墓を後にした。そしてその足で尚香は魏に向かう。






 高くそびえ立つ銅雀台を眺め、尚香は曹操の権力の偉大さを知る。呉も文化では引けを取らないと思っていたが、高さは言うまでもなく細部までの作りのきめ細やかさ、彫刻の見事さには舌を巻く。尚香自身、曹操と直接会ったことがなく、噂しか聞いたことがない。


「乱世の奸雄か……。確かにこの高さを見るとそう思わずにはいられないな」


 威圧的で理想が高く厳しい人物を想像する。漢王朝の最後の皇帝を思うままに操り、やがて魏王朝の武帝と呼ばれる曹操。
この銅雀台のあるギョウは活気に満ち、民は皆、汗を流して働き、せわしない。
『唯才』を掲げた曹操のおかげで人々は己の為すべきことを為し追及しているのであろう。罪人でも才があれば用いると言い放った曹操に感心はするが、心から賛同は出来なかった。
 そこで仁義の人、劉備の事を思い比較するが結論を出すことは難しい。劉備、曹操は心と頭のように交われぬ。更にどちらかを選ぶことも出来ない。それぞれの民はそれぞれの主を選び満足しているようで、曹操を噂通りの奸雄と呼ぶことだけは出来ないと思えた。


 ふと、思い立つ。


「私も玄徳さまのように挙兵していたらどうであったろうか」


 兄の孫権は呂壱事件と二宮事件によって消せない汚点を残す。蜀も、魏もそれぞれの君主の特色が良く出されている。呉は恵まれた豊かな土地故、志たるものが育っておらず、今では主、臣、民は分裂している。
尚香は自問自答し、己が主であればどのような政を行うであろうかと考える。が、すぐにやめた。


「もう時すでに遅しだな」


 民の事、政治、世の中の事を配慮し始めたのは、玄徳と離れて呉に帰ってからであった。明日は魏の都、洛陽に向かう予定である。
蜀の成都から漢中にて馬を得て、長安に寄り、洛陽を後回しにして、銅雀台を見るために先にギョウへやってきた。
宿に泊まり、馬の世話を下人に任せ、尚香は早々に床についた。夢の中ででも陸遜に会えるようにと願いながら。


 ギョウを出立し、黎陽に立ち寄り、ここで曹操が袁紹を打ち破ったのだと感慨深く広い平野を眺めた。しばらく進むと黄河に突き当たる。


「ああ、大きな河を見ると心が安らぐ。しかしこの色は少し受け付けぬがな」


 長江の青い水面を思い出す。河を渡るのに馬を売り小舟に乗る。気の良さそうな年老いた船頭が「ここら辺のお人じゃないねえ」と声を掛ける。


「ああ、今は北からだが、南の生まれだ」
「なるほどぉ。今は治安もいいですしねえ。さすがは孟徳殿。皇帝になられて豊かになりましたよ」
「ん? 孟徳殿が皇帝?」
「ええ、ええ。最近視察においでにはなりませんけどねえ」
「そうか」


 庶民の間では今もまだ曹操が生きていて、更には皇帝になったと知られている。誤りであると思ったが尚香は正さず、話を聞いた。漢王朝最後の皇帝、献帝を廃することも、王朝が変わることも、誰が現在の皇帝であるかということも、日々を生きる民草には大きな問題ではないのだ。
 路銀を渡すと、老人は親切に馬を求めるところまで案内してくれた。官渡の戦いで袁紹軍を壊滅し、黎陽の戦いで破り、袁紹はその後病死した。その戦いから50年近く過ぎている。その頃、麗しい長兄の孫策を亡くし嘆き悲しむばかりであった20歳前の孫権を母の呉氏と共に気を強く持たせ、後を継がせんと叱咤激励したことを覚えている。10歳を過ぎたばかりであったが、尚香は長兄を亡くした悲しみよりも不甲斐ない次兄に怒りが沸いた。
 それから、孫権に対して妹の身でありながら厳しい姉のように接してしまうのだった。ただ孫権はそのことを厭わず尚香の進言を受け入れていたので兄妹仲は良かった。


「私が自由奔放に過ごしてこれたのは、兄たちのおかげであるよのう」


 兄に感謝をしながらも、この天下分け目の官渡の戦いに参加できなかったことは残念な気がしていた。いつも呉は出遅れている。その分、魏や蜀のように国力をそぐことはなく民は豊かであるが。


「このまま三国が鼎立していくのであろうか?」


 官渡を通り、汜水関にて父、孫堅を想い、洛陽入りをする。


「やあ、これはまた立派だ」


 城門の大きさ、頑丈さに目を見張る。馬を降り、引きながら門番の元へ行き、手形を見せると何の警戒もせずに城下内に通された。その時である。遠方から黒い塊が見え始め、あっという間に門の前に整列した軍の中から老いた文官が出てくる。門番は慌てて「し、司馬将軍!」と恭しい態度をとる。
 司馬懿は鋭い目で門番に「わしらが入ったらすぐに閉めよ」と言い、さっと駆け抜け宮殿へと向かって行った。尚香は隅で大人しく様子を見、これが司馬懿による、政変であると理解した。


「まさか、魏王朝が倒れるのか」


 洛陽を眺めたら、一度呉に戻ろうかと思っていたところであったが、ここはしばらく留まりゆく末を見守ることにした。


――魏皇帝の曹芳を抱きかかえた曹爽は、政敵である司馬懿が夫人の張春華を亡くした後、病に伏したとのうわさを聞き、真偽を確かめるべく腹心である李勝に探りを入れさせた。
 見舞いと称し訪れると司馬懿は李勝の事を誰か分かっておらず、食べ物もこぼし、何度も同じことを話す。李勝はこの仮病に騙され、油断した曹爽はあろうことか、曹芳をともない祖先の墓参りに高平陵へ一族総出で出かけてしまう。
 この機を逃さぬと、司馬懿は大軍を率い、都に押し入り、曹芳の母親である郭太后に曹爽を討つための詔を賜る。こうしてこの高平陵の変をもって政敵、曹爽は討たれ、政権は曹家から司馬家に移ることとなる。


 あっという間の政権の移動劇に尚香は愕然とし、この武力による行使はいかがなるものかともっと間近にて知ろうと司馬懿邸に入り込むことにした。司馬懿の使用人に下働きは何かないかと尋ねると、小間使いの女が欲しいと言われた。


「女が欲しいのか」
「ああ、男手はいま足りてるのだ」
「では、知り合いに家族を亡くし、家もない年増女がいるのだが雇ってもらるかね。飯が毎日食えさえすればよいらしい」
「ほう、そうかい。空いた小屋もあるから呼んでくればいい」
「では私はこれで」


 尚香は馬と長剣を売り、短剣に変え、女物の衣装を買い求めた。しばらくぶりに女人の装いをし、再度司馬懿邸へ向かいそこで働くことになった。
 人に使われたことのない尚香が初めて人に使われる。しかし機転が利き、開放的な性格故、すぐに仕事にも人にも慣れた。ここでは楊夏と名乗る。気が利く上に余計なことも話さない尚香はひと月もせぬうちに、司馬懿と若い柏夫人の身の回りの世話を任されるようになる。
 政変をおこした後の司馬懿はまるで腑抜けたようになり、膝の上に柏夫人を抱き、尚香がいるのも構わず、胸元と股ぐらをまさぐっている。
「殿。だめですよ。楊さんがみてますわ」
「んん? 楊? かまうもんか。こわいこわい春華でなければ誰が見ていようが」
「まあっ! 亡くなった奥様の事はおっしゃってはなりませんわ。師と昭に聞かれでもしたら……」
「あの奥様、ご用事がなければ私はこれで……」
「ああ、待って。あなたには髪を結ってもらいたいのよ」
「はあ、そうですか」
「んん? 髪? 髪型が何か違うのか?」
「ええ、殿。楊さんはとてもお上手でしかもこのあたりにはちょっとない、南国風なのですわ」
「ほうっ、南国風とな」
「いえ、たいしたものでは」
「髪よりもほれ、わしと愉しもうではないか」
「ああっ、もうっ! 楊さん、4、5刻ほどあとでお願い」
「はい、失礼します」


 朝から娘、いや、孫ほどの年頃の若い夫人と睦み合う司馬懿は、洛陽で見かけた彼と同一人物とは思えなかった。もし以前の司馬懿であれば尚香の身元に気づくかもしれない。


「もう余生を楽しんでいるのだろう」


 このまま司馬懿はぼんやりと余生を過ごすのかと、思っているところに王陵の乱がおこる。
 王陵は魏と呉の国境を守っていた重鎮であるが、司馬家の曹家乗っ取りを快く思わず、新しい皇帝に曹操の息子である曹彪を立て反乱の計画を立てる。恍惚としている司馬懿はこの計画を武将の黄華から聞いたとき、瞬時に夢から覚めたように立ち上がり、即、王陵を討伐に向かう。
王陵、曹彪を滅ぼし平定したのち、まるでやりつくしたように永眠する。72歳であった。


 この反乱の失敗により政権は確実に曹家から司馬家へと移動したように見える。これからまた政変があるとすれば、それは司馬家が本格的に魏王朝を倒すことになるであろう。
曹操が築いたこの国は色々と慌ただしく忙しい。魏国はいつまで魏国であろうか。魏王朝が倒れるのであれば、三国鼎立が維持できぬかもしれぬと尚香は予想する。曹操は劉備を自分と同じ英雄と扱い、尊重し、しかし相容れず敵対していた。その間をうまく行き来していたのが『呉』である。二人が死に、司馬懿と諸葛亮の天秤に変わり、それももうない。三国鼎立からおよそ30年。この均衡を打ち破るものは何か、誰なのか。尚香は魏の内政と司馬家の動きをある程度把握すると、魏を離れ呉に戻ることにした。



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