浪漫的女英雄三国志

萩原 歓

26 北伐

 蜀では最後の五虎大将軍である趙雲子龍の命が燃え尽きようとしていた。


「丞相、多忙な身で、わたしの側にいてくださるとは」
「よいのだよ、子龍。そなたはいわば私の一番の親友であったと思う」
「ああ、なんとありがたいお言葉」


 趙雲は玄徳の死後も、諸葛亮に誠実に仕え、最も高い信頼を得ていた武将だ。恩賞を与えても受け取らず、備えとするようにと進言するまさしく忠臣である。また玄徳軍の最古参である彼が亡くなることは諸葛亮にとって深い悲しみであった。


「最後は戦場でと思っておりましたが……」
「いや。傷だらけで玄徳様のもとへ参るわけにいくまい」
「フフッ。そうですね。ああ、玄徳様……」


 老いた趙雲に青春の輝きがよみがえる。


「子龍殿が唯一玄徳様の夫でありましたな」
「……。しかし玄徳様の魂を理解し、受け継ぐのはあなたしかおりますまい。わたしをそばに置き抱きしめさせてはくれるが玄徳様はいつも軍師殿を求めていました」
「子龍……」
「つまらぬ嫉妬ですな。いつもいつもわたしは彼女を連れてどこか平穏なところで暮らしたいと願っていました。でもあの方はただの女人ではない。そんなことをした途端にわたしを見限るでしょう」


 趙雲の思いに諸葛亮は胸を打たれ、まこと彼は劉備を愛していたのだったと知る。本来の希望を胸に抱きながら、彼女の意思を尊重し支え守る。なんと鋼鉄の意志であろうか。劉備が死ぬまで誰も娶らず、財産も地位も欲しなかった。


「でも来世では夫婦となり一緒に田畑を耕そうとお約束くださいました」
「ああ、子龍。私がその希望を叶えるべく尽力を上げて天下に太平たらしめよう」
「ありがとうございます。もう思い残すことはありません。劉禅様をよろしくお願いいたします。――ああ、ひとつだけ。魏延にはお気をつけてください。根が悪い奴ではないのですが玄徳様を愛するあまり……」
「ああ、知っておる。誤解して私を目の敵にしておるのだろう。呉での大敗を防げなかったことを……」
「どうかお気をつけて。そしてくれぐれもお身体を大切に」
「わかった」
「わたしは休みます」
「ああ、また明日」


 もう今夜が峠であろうと諸葛亮は羽毛扇で涙を隠す。彼は一人静かに劉備を想いながら逝くのであろう。その至福の時を邪魔しないように諸葛亮はそっと扉を閉め安らかな眠りを祈った。


 胸の上で組んだ手に心臓の鼓動がだんだんと弱まっていくのを感じると、趙雲はいよいよかと目を閉じ瞼に劉備の姿を思い浮かべる。


「ああ、我が君。煌めく瞳に凛々しい眉、小鼻はすっきりとし、唇はまるで桃の花のような可憐さ」


 白いうなじと丸い肩、華奢な白い身体を鎧で覆い馬に乗って駆け巡る。


「なんという凛々しさ、なんという可憐さであろうか」


 瞼の中の玄徳は剣を振り上げ「突撃!」と敵陣に駆け込んでいく。


「わたしも参ります!」


 槍を旋回させ、敵をなぎ倒し、宿敵曹操を討ちとる。勝利を祝う二人は鎧を脱ぎ男と女の生まれたばかりの姿になって抱き合う。


「ああ、あなたの中に溶け込んでしまいたい」


 心臓が最後の音を打つ前に、桃の甘い香りが漂い、赤い花嫁衣装を着た劉備が趙雲を迎えに来た。


『子龍、私の子龍よ』
「わ、我が君、玄徳様。一緒に……」


 伸ばした手がしっかりと何かをつかんだ刹那、趙雲は満足げに笑み天寿を全うした。




 曹魏を倒し天下を安んじんとの北伐は成果がなかなか振るわず、魏延は諸葛亮に不甲斐なさを感じている。


「俺ならもっと……」


 一度だけ劉備と過ごした夜を思い出す。


――関羽と張飛は劉備と離れた城を守り、また諸葛亮と趙雲も視察のためでかけている雨の夜だった。魏延は千載一遇の好機と、思慕する劉備の元へ向かう。この機会を置いて思いを遂げることが出来ぬだろうと思った。
劉備の屋敷を守る門番も魏延を見ると「どうぞ! 魏将軍」とさっと道を空ける。
魏延はいかにも主君に報告をするのだという風体で堂々と歩く。寝所の前に立ち「主君」と声を掛けると「文長か。参れ」と劉備の優しい声がかかる。
 横たわっていた身体を寝台に起こし、ほつれた髪を整えながら劉備は「どうしたのです?」と問いかけてくる。
魏延は劉備を前にすると、それまで抱いていた彼女を我が物にせんとの想いに揺らぎが現れる。目の前にするとやはり並の女人ではない。神々しく慈愛に満ち清らかで侵しがたい天女のようである。


「あ、あの、丞相もおいでになりませんし、何かお困りごとなどないかと……」
「文長よ。そなたは思いやりがありますね。そのように濡れて。さあ、これで拭いてあげよう」


 劉備は枕元に置いてあった柔らかい布で魏延の濡れた頬を優しく拭く。


「ああ、わ、我が君」


身体中の血が湧き上がり、魏延は己の中心が熱くたぎるのを感じる。このまま彼女を無理やりにでも奪ってしまおうかと思わず手を伸ばしかけたその時、劉備の枕元にホウ統士元の名が刻まれた位牌が目に入る。


「あ、そ、それは」
「ああ。これは士元の位牌です。惜しい人を失くしてしまいました。彼の事を忘れぬようそばに置いているのです」
「そうでしたか……」


 魏延はすっと冷静さを取り戻し、ホウ統の劉備を慕っている眼差しと、策を講じている鋭い目つきを思い起こす。彼もどれだけ玄徳を欲していたか魏延にもわかっていた。新参者である二人はある意味同じように劉備の寵愛を得んと競っていた。こうして位牌と言えども劉備と寝所を共にする彼の願いは通じたのであろうか。
魏延は今ここで劉備を奪えば、己の欲望は満たされても、寵愛を得るどころか軽蔑され二度と心は満たされぬだろうと思い直す。


「文長よ。そなたは素晴らしく勇敢ですね。これからの活躍が楽しみです」
「わ、我が君……」


 この夜更けに忍んできた魏延を何ら疑うことなく劉備はねぎらい、優しい言葉をかける。その姿に魏延は己の身弱で優しかった母親を重ねる。
 魏延の母親は荊州で劉表の配下となり、将軍の地位を得る前に亡くなってしまった。母親は側室であったため父親の死後たちまち落ちぶれてしまう。しかし魏延は病みがちな母に楽をさせたいがため、皆が避ける危険性の高い任務を遂行してきた。勿論、命を対価に母親が生活できるように高額な褒賞を求める。いつの間にか魏延はその勇敢さと武力を認められのし上がっていく。一つ地位が上がるたびに母親は青白い細い顔に微笑みを浮かべ、そして自分のせいで彼を危険な目に合わせていると泣いた。


「母上……」
「ん? なにか申しましたか?」
「いえ、我が君。なにも不自由がなければよいのです。では、これで」
「ありがとう。今夜は冷えますからあなたも気を付けるのですよ」
「はっ!」


 魏延は自分の後ろ暗い欲望を心に押し込めて立ち去った。母を犯すことは出来ないと。その後、魏延は本来、張飛が任命されるであろうと思われていた漢中太守に抜擢される。その時に彼は過ちを犯さなかったことを心から安堵し、そしてこれから自分も関羽、張飛、趙雲と共に玄徳の信頼を得、いつかきっと義兄弟として契ることが出来ると夢見てきた。それが夷陵の戦いによる大敗、それに伴った劉備の死が魏延に暗い影を落とす。


 魏延の想いは果たされることなく、屈折し、鬱積を貯めさせ、その矛先は諸葛亮へと向けられる。しかし彼は劉備の蜀を守ることだけには忠実であり、諸葛亮の策に賛同はしないものの従ってきた。諸葛亮の死後、いち早く魏を平定せん、と武力によって政変を起こそうとするがこのことは前もって危惧されており、諸葛亮の密命を受けていた馬岱により斬られる。その時にはもう魏延の想いを知るものは誰もいなかった。母親の面影を重ねた劉備を一途に慕ってきた彼は、行き場のないやるせなさを、うまく昇華させることが出来なかったのである。







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