ノーベル賞受賞者(仮)の恋

有汐けい

2040年

 ジュゴッ、ゴッゴッー
 
 赤いコーヒーメーカーがけたたましい声をあげ、芳醇な香りが私の鼻まで伝わってきた。
 
 ふぅ…。
 
 いつもの椅子へ深く腰掛ける。
 ここ一ヵ月、慣れないことをして想像以上に疲れた。学会発表の数十倍の疲労を感じ、睡眠程度では身体の怠さは全く改善されなかった。
 
 (…年は取りたくないものだ)
 
 年々、疲れが取れづらくなっていることを身に染みて感じている。
 
 ピピッ
 
 コーヒーメーカーが仕事を終えたことを教えてくれた。私は重い身体を上げ、彼が作ったコーヒーを手に取り、窓の外の景色に目をやる。藍色の空がオレンジ色に貪食されていく様を私は眺めながら暖かいコーヒーを口へ運ぶ。
 
 ー…コンコン
 
 乾いた木の音が部屋に響き渡る。
 
「先生。いらっしゃいます?俺ですけど…入りますよ〜入りますね〜」
 気の抜けた男の声と共に、ボサボサ髪の見慣れた顔が現れた。
 
「おっ、やっぱ、先生ここにいたんですね〜。記者会見、お疲れ様でした〜」
 男は頭を掻きながら軽くお辞儀をした。
 
「それにしても…先生は真面目だなぁ〜。日曜日の早朝からノーベル賞の受賞者が大学にいるなんて…休日ぐらい自宅でゆっくりしていたらどうです?」
 そう言いながら、男はパラパラとコーヒーメーカーに豆を入れる。
 
「あれから一ヵ月経つのに未だに新聞記者達が押し掛けてきてね。コーヒーすらゆっくり飲めずに参っているんだよ。だから、朝早くにこちらへ逃げてきたんだ。それより…受賞者なら君も一緒じゃないか?君の方はどうだい?」
 私は窓枠に腰をかけ、曇った眼鏡越しに彼を見た。
 
「いやぁ…俺の方は、こうなることは分かってたんで…妻には先にアメリカへ避難してもらいましたし、俺は独身の友人の家とかでワイワイやってましたよ。それより…記者会見の時はありがとうございました。ど~しても、外せない手術があったもので…」
 彼もコーヒーカップを片手にこちらに向き直る。
 
「あぁ、それはしょうがないさ。気にする必要はないよ。人命の方が大事だからね」
「ありがとうございます。それにしても、あんな記者会見をするノーベル賞受賞者は先生が最初で最後じゃないんです?」
 めいいっぱい口角を上げて彼は言った。
 
「ハハハ。そうかもしれないな。でも…君が僕の立場でもそう言ってただろ?」
「まぁ…そうですね…」
 互いに笑い合い、暖かいコーヒーを身体へ流し込んだ。
 
 ピピッピピッ
 
 彼のダウンポケットから甲高い音がし、彼がスマートフォンを取り出す。
「あっ、すみません。先生。そろそろ時間なんで俺、行きます。11時の飛行機なんで…あと、空港に行く前にアイツのとこに行きたいので…」
 彼はそう言うと残りのコーヒーをグイッと飲み干し、洗い場でコーヒーカップを洗い始めた。
 
「そうか…向こうには山崎先生がいるんだったな。あちらは日本より寒いらしいから気をつけて行って来いよ」
「ありがとうございます。山崎先生にはよろしく伝えておきます。それより、先生…。野瀬研はどうするんです?教授は健也になるんです?」
 濡れた手をタオルで拭きながら彼が尋ねた。
 
「そうだね。君がここに残らないから彼に任せようと思っているよ」
「先生、意地悪言わないでくださいよ~。俺はお堅い日本より、自由に研究できるアメリカの方が性に合ってるんですって。それに…俺も健也なら安心して任せられます」
 扉へ向かいながら彼が答えた。
 
「じゃあ、先生…俺、時間ないんで行きますわ」
 
 扉を開け、閉めようとする彼を私は呼び止めた。
 
「結城君!」
 
 ぼさぼさ頭が扉から出てくる。
 
「またストックホルムで…」
 
 彼は右手を額に当て、敬礼ポーズをしてニコッと笑った。
「りょーかいです!先生。では、スットクホルムで…」
 
 …パタン
 
 扉が閉まり静寂が部屋を包む。
 私は、再び椅子に腰を落とし、机に置いていた鞄から今日ポストに入っていた大きな茶封筒を取り出した。
 封筒を開けるとハードカバーの本と共に一通の手紙が入っていた。
 
 
 拝啓
 野瀬 淳 様
 
 お世話になっております。
 上里です。
 先日、ご確認いただいたきましたものができあがりました。
 一部ですが、先生にお送りいたします。
 また後日、直接お伺いさせていただきたいと思っております。
 取り急ぎご連絡まで。
                             上里 昇
 
 
  ―私は陽の光に赤く照らされた表紙を開いた。
 
 
 
 
 
 
 
 

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