箱庭の神様

葉月+

血を吸う鬼と護身刀 04

「かなで?」
 どうしたの。

 きょとりと無邪気に私のことを見上げてくる獣にはきっと、自分がこの地で長年信仰されてきた神だという自覚なんて、これっぽっちもないのだろう。そうでなければ説明がつかない。土地神の類が己の領域で死にかけていたことも、私に名前をつけさせたことも、自分は私のものだと明言して、その言葉通り私に付き従っていることも。叶が本当に「鬼王さま」であるのなら、どれ一つとしてする必要のなかったことだ。
 真実この地の神であるのなら、そんなことをしてはならなかった。
 正式な手順こそ踏んでいないが今や叶は私の式も同然で、寝惚けた人外を軽率に下した私は元々「鬼王さま」に仕える忌子。霊的な主従関係がループしてしまっている現状をどうしたものかと、悩ましさに頭が痛んだ。
 ずきずきと乱されまとまらない思考に苛立って、拝殿の床を蹴りつける。
「かなで」
 するりと人の姿に戻って抱きしめてくる叶。血にまみれていた獣を一目見て「欲しい」と思った。
 神として祀り上げられた化物へ喜んで血を捧げることができるよう。そういうふうに、深山の女は呪われている。
「かなで、こっちを見て」
 俯く頬へ、氷のように冷たい手の平が添えられる。
 抗い難い声に見上げさせられた双眸は、この世のものとは思えないほど美しかった。
 屋根の向こう。空の彼方に浮かんでいるはずの望月が、吐息に触れるほどの距離で瞬く。
「様子が変だよ。……大丈夫?」
 嗚呼、なんて呪わしい因果だろう。
――」
 衝動的に動いた体が、華奢な男の体を押し倒す。
 と手をかけたのは、引きずり下ろした双子月の片割れ。
 悍ましい水音とともに眼窩へ潜り込む指を、叶は拒まなかった。
「んっ……」
 束になった神経がぶちぶちと千切れる手応えの裏で、なだめるよう背中を彷徨っていた手に力がこもる。
 馬乗りになった私の下で体を震わせる叶の声は、いかにもくすぐったそうに笑っていた。

「どうして……」
 どうして笑っていられるの――。
 驚きすぎて我に返った私の手から、濁った目玉がべしゃりと落ちる。
「あ」

 せっかく我慢したのに。もったいない。

 落ちた目玉を拾った叶はそれをぱくりと口に含んで、引き寄せた私ごと床を転がった。
 体の上下が入れ替わり、伸しかかられ、抑え込まれた私の顔を空っぽの眼窩から零れ落ちてくる血がぼたぼた濡らす。
 片方の目と口元だけでにっこり笑った叶が押しつけてくる唇は、当然のよう血の味がした。


「へんたい……」
「それはさすがに、酷いよ」
 血と、唾液と、押しつけられたものを呑み込んで震えた喉を労るような手つきで撫でさする。私が放り出した片手を捕まえるようかたく握る手と合わせて、叶の両手はさっきまでの冷たさが嘘のような熱を帯びていた。
 同じ熱が、今は私の腹の底にも宿っている。
「血が……」
「うん?」
 何食わぬ表情で、叶は血を流し続けている目元を覆った。そのまま、ほんの数秒動きを止めて。目隠し代わりの手の平が退くと、開かれた瞼の下から傷一つない目玉が覗く。
「これでいい?」
 いかにも人外らしい再生力だ。
「怒らないの」
「何を?」
「私、の目を抉ったのよ」
「私はお前のものだから、お前は私に何をしたっていいんだよ」
 まるで世の道理を説くような調子で空恐ろしいことを告げて、いかにも機嫌良く笑っている。叶は思わせぶりに私の腹を撫でながら、もう一方の手で掴んだ腕を引き寄せた。
 素肌へ見せつけるようゆっくりと唇を寄せ、ねぇいいでしょうと、細められた双眸が代償を強請る。
 そんなことをするまでもなく、奪うことは容易いはずだった。私に忌子としての役目を果たせと命じるまでもなく。人の子と人外というだけで、私と叶の力は隔絶している。
 それでも叶は、あくまで私の許しを待っていた。

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