公爵令嬢のため息
危機に瀕した婚約者の話
翌日は綺麗な晴天だった。
徐々に夏に向かう空気は太陽の光を余さず地上へ透過する。降り注ぐ光で木々の青葉さえもぎらぎらと銀色に輝き、グランツェリオールは眩い世界へと変わりつつあった。
出発は昼過ぎとあって気温も高い。馬車の中とはいえ、オリヴィアに結い上げてもらった髪が蒸れるようだ。そこに挿してもらった友人たちと揃いの髪飾りがずれていないかを気にする。
本日の目的である王妃のお茶会は名前だけなら優雅だが、おそらく一般に公開されていないところをみるとなんだか穏やかではない。とはいえ、顔見せと言われているのだから穿った見方をする方がおかしいと言えばそうだ。将来身内になる人間を早いうちに見ておこう、くらい誰でも考えるだろう。
相手が初対面の子供に遠目から薄ら笑いを浮かべる人間だということは頭の隅に追いやって、一度大きく深呼吸をする。例え既に嫌われていたところで、こちらが失礼な態度を取るわけにはいかない。粗相がないようにしなければ。
王宮の空気は建材の石ゆえかひんやりとしていて、ようやく汗を引かせることができた。防犯のためかいくつもの回廊をつなぎ合わせた造りのため、一人では迷い込んで帰ることも叶わないだろう。
案内されたのはひとつの回廊を抜けた先におかれたサロンだった。
ここが王宮とは思えないほど小さな部屋だ。室内には趣味のいい調度品が数点置かれ、見るからに柔らかそうな長椅子が3つ、脚に繊細な彫刻を施されたテーブルを囲んでいる。外側の一辺が全面ガラス張りの壁となっており、回廊の真ん中に設けられた小さな中庭園が見える。建物が覆いのように庭園を取り囲み、中央上方から光が差し込んでいる様子は幻想的だった。
しばらく見とれてから手前の長椅子の端に腰を下ろす。
この部屋の感じではやはり招かれた人間は多くはなさそうだ。そんなことを考えていると、後ろから声がかけられた。
「部屋は気に入ってもらえたかしら」
心臓が跳ねる。
振り向くといつの間にか扉が開いており、薄絹がベースの軽いドレスを纏った細身の女性が立っていた。薄い金髪は緩く纏められて右肩から流れ、装身具はほとんど身につけていない。王宮でこんな軽装が許されるのは王族以外にありえないだろう。盛装とはずいぶん印象が変わるが、顔立ちはデビューの夜会で見た王妃その人だった。
立ち上がって礼をとる。女性に畏まった名乗りを上げると、上座に座った王妃は薄い唇で笑った。
「そう固くならないで。私はジャンヌ。国王の妻でアレクサンダーの母よ」
貴族が謁見した際、王族がファーストネームのみを名乗るなどと聞いたことがない。さらに様式もまるで無視した、気さくな友人に話しかけるような態度。彼女の意図が分からず私は困惑した。
「アレクサンダーはまだ来ていない?困った子ね、陽が中天から傾くまでには来るよう言っておいたのに」
少女のようにふわりとした挙動を取る彼女はすべてが薄い。体つきも色素も、声音や現実味すらも。どこか浮世離れした精霊のような美しさを持っているためか、実在する人間という感覚がどうにも薄く、年齢すら外見では推察できない。公の場ではあんなにも存在感を放っていたのに、まるで別人のようだ。
「いえ、逆にちょうどよかったかしら。ねえエリザベート、少し2人でお話ししましょうか」
ちょうど運ばれてきたお茶やお菓子を前に、王妃が微笑む。
初っ端から火花を散らす展開にならなかったことに内心胸を撫で下ろし、笑顔を返した。
「光栄ですわ。王妃様」
「あら」
王妃が眉尻を下げる。
「王妃様だなんて他人行儀な呼び方はやめて頂戴?お母様と呼びづらいのならジャンヌでもいいわ」
どちらにせよ非常にやりづらい。立場が上の者が無理に距離を詰めても下が戸惑うだけなのをきっと理解していないのだろう。
しかしここは素直に従っておいた方が得策と考え、「それではジャンヌ様と」と返す。その言葉にジャンヌはにこりと笑った。
「嬉しいわ、私かわいい娘がほしかったのよ」
耳を疑う王妃の発言に、咄嗟に言葉が出なかった。
現王妃は後妻で、王家の子供たちの半分は母が違う。正妃だったヴィクトリアは6年前、アレクサンダーを産んですぐ逝去した。王家の子供7人のうち、ジャンヌの子は側妃時代の次男と正妃に収まってから産んだ双子の弟妹の3名。
腹違いの2人の王女を除いても1人は自身の産んだ王女だというのに、なんてことを言うのだろう。加えてエリザベートと同じ立場のマティルダがいるし、8歳の第2王子にも婚約者は内定している。まるで彼女たちが存在しないかのような物言いに、私の肝は冷えた。
「……そんな、お戯れを」
やっとの思いで絞り出したが、王妃は「あら本当よ?」と大真面目に言う。
話が合わないのではなく通じないと感じる人間に出会ったのは生まれて初めてだ。
「王妃など思ったよりも退屈だし、なるものではないと思っていたけれど。貴女みたいに可愛い娘が出来るのなら悪くなかったわね」
「……光栄ですわ」
とにかく話を合わせることに徹する。
こういう考えの読めない相手は地雷も見えづらい。気づかず踏み抜くことのないよう慎重に対応しなくては。
「貴女も覚悟を決めておいた方がいいわ。王妃なんてほんとうにつまらない。なる前は興味もあったのだけれど、実際は外野から口うるさく言われるばかりだもの。以前のように自由も利かないし、ね」
「お言葉ですが、恐れ多いことですわ。その座はフリードリヒ様の正妃となられるマティルダ様のものでしょうし。わたくしは臣下としてお支え出来れば、もうこの上ない幸せでございます」
「あら、意外ね。貴女はこういうことに積極的なタイプだと思っていたけれど」
途端に王妃の笑顔が剥がれる。
以前の上昇志向の強いエリザベートであれば、婚約者を王に推し上げる画策など当然のように行っていただろうが、私はそうではない。誰にも角が立たない回答だと思ったが、王妃の望むものではなかったようだ。
ジャンヌは表情の抜け落ちた目元で口角だけを上げ、変わらぬ優しい声で続ける。
「別に誰に気を遣う必要もないのよ。私は素直な子が好きなの。王妃になりたくてアレクサンダーに取り入ったのでしょう?」
嫌味を言っている様子ではない。おそらく本気でそう思っているのだろう。なんと返そうか返答に迷ううちに、ふとある事を思い出す。
それは王妃の良くない話。所詮お茶会での根も葉もない陰口だろうと気にせずにいたが、当時から時が経っても根強く残り、おそらく友人たちの心配する理由でもある、一つの噂。
――ジャンヌが、ヴィクトリアを殺したのだと。
もちろん公式的にはそんな発表は一切されていない。噂する人間も100%信じきっている者など少ないだろう。しかし、いまジャンヌと話して感じた嫌悪感、気味の悪さ。人として何かが少しずれているようなアンバランスさに、彼女ならやりかねないと感じた。
この先彼女と近しくなる自身も危ないのでは、と途端に手に持ったカップの中身が恐ろしくなる。既に口にした分も吐き出したい衝動に駆られたがなんとか振り払った。憶測だけで人を忌避するべきではない。仮にジャンヌがヴィクトリアを害したことが事実だったとしても、彼女に私を殺すメリットはないはずだ。
なんとか落ち着いて当たり障りない返答をしなくては――と息を吸い込みかけたとき、ギッと微かな音がして入り口の方から声がかけられた。
「王妃殿下。私の婚約者を虐めないでいただきましょう。少し目を離すとすぐこれだ」
声の主はアレクサンダーだった。彼も以前会った2度より軽装で、微かに眉を寄せながら歩いて来る。
「あら、虐めてなんかいないわ。私、マティルダやアンナよりもエリザベートみたいな子が好みだもの。遅れてきてその言い草はないでしょう、アレクサンダー」
アレクサンダーはそのまま横に来て、私とジャンヌを隔てるように同じ長椅子の奥側に腰かける。勢いはふんだんなクッションに吸い込まれ、僅かに振動が伝わってきた。
「貴女に好きな人間がいるとは思えないが。もう十分話したでしょう。お開きにされてはいかがか」
義理とはいえ息子であるアレクサンダーに散々な物言いにも、ジャンヌは笑みを崩さない。
「うふふ、彼女の騎士を気取っているのかしら。大事なものはちゃんと籠に入れて守っておかないとね。泥棒猫に攫われないように」
挑発めいたジャンヌの返しに、アレクサンダーは目元を眇めるのみにとどめた。
そのまま付き合い切れないというように腰を上げる。
「それでは失礼します。ゴーシェナイト公爵令嬢、馬車までお送りしよう」
促されて慌てて立ち上がる。王妃に一礼し、アレクサンダーについていく私の背に、柔らかな声が投げられる。
「またいらっしゃい、エリザベート。貴女とは仲良くなれそうな気がするわ」
振り向きかけた私の頭を反対からアレクサンダーの腕が捉える。そのまま前を向かされ、抱き寄せられる――というか頭を抑え込まれるようにして歩きだした。
遠慮なく歩く彼の歩調は速く、リーチの差もあってついていくのがなかなか辛い。
「あの、殿下、離して頂けませんか」
痛くて、というとようやく解放される。姿勢を正すと、慣れない姿勢での早歩きを強いられた背骨が軽く軋んだ。アレクサンダーが腕を離した拍子に落ちた私の髪飾りを拾い上げ、無言で差し出す。
「ありがとうございます」
髪飾りを受け取り、いろいろと、とは言葉に出さぬ礼を言うと、構わないとだけ答えてアレクサンダーは歩き出した。
「王妃には気を付けた方がいい。君も存外迂闊なんだな」
完全に背を向けた王子に何をとは聞けず、しばらくついて歩いていくと見覚えのある大門が見えてきた。出口にたどりついたようだ。
もう一度アレクサンダーに礼を言い、馬車の脇で待機しているソフィアの元へ向かおうとする私の背中に、またもや言葉が投げかけられる。
「今、公爵邸で学んでいるのか」
今度こそ足をとめ、振り返って言葉を返す。
「はい。変わらず家庭教師に教わっております」
「進度は」
「だいたい初等レベルの8段階です」
この尋問調、デジャヴだなと感じながら表には出さない。
初等レベルは大体その数字が年齢に対応している。前世で言う主要5教科に相当する初等の学習に関して私が目新しいと思うことはほぼ皆無だったため、飛び級で学習を進めていた。
「そうか。ならば時々俺を訪ねて来い」
「はい?」
驚いて不躾な返しをしてしまった。少し焦るがアレクサンダーはまるで気にした様子がない。
「そのレベルにあるならちゃんとした教師をつけろ。王立図書館の書籍も使える。出典に信憑性のある資料を使って学ばなければ意味がない」
私が興味を持った本を取り寄せてもらって授業を受けている話を覚えていてくれたようだ。
王立図書館の本など、国の中枢しか使えない重要なデータや希少な本も混じっているだろう。その上でより充実した授業が受けられるなど願ってもない。
「ありがとうございます。ぜひそうさせて頂きますわ」
喜色を押し出さないように気をつけたものの、声音や表情から滲むそれは隠しきれなかっただろう。「ああ」と返す王子の表情も、初対面の愛想笑いより幾分か柔らかい気がする。
「いつがご都合よろしいのでしょう。毎度授業の終わりに先生と次回のお約束をする形で構わないでしょうか。持ち物で特に必要なものなどは」
勢いのままに矢継ぎ早に質問を投げかけてしまった後で、押された様子のアレクサンダーに気づく。恥ずかしさで「申し訳ございません」とか細い声で謝ると、今までで一番暖かい声が降ってきた。
「では3日後に。持ち物はなくて構わない。そのやる気だけ持ってこい」
今笑われた?と思い顔をあげるも、王子は既に踵を返して王宮の中に消えていくところだった。なんとも恥をかいたが、得られた成果の方が大きくて気にならない。
帰りの馬車の中で、友人たちに何から話そうと考える。ああ、楽しみがまた1つ増えた。
私の弾む気持ちを映したように、掌の中の髪飾りも紫の光を瞬かせていた。
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